広島の記事全40件
広島にまつわる疑問から生まれた記事を集めています。
軟水で日本酒を造る西条の挑戦の歴史
広島県東広島市西条は、極めて軟水である地下水を利用した酒造りで知られる。硬水が主流だった時代に、三浦仙三郎が軟水醸造法を確立し、この地の酒を全国に広めた。盆地の冷涼な気候や良質な米も発展を支えた。
しまなみ海道、島々を結ぶ橋の誕生秘話
しまなみ海道は、明治時代の構想から半世紀以上の歳月を経て1999年に全線開通した。地域住民の生活利便性向上や観光振興を目的とし、技術的課題や景観との調和を考慮しながら建設された。他の本州四国連絡橋とは異なる「人に優しい」ルートとして計画された点が特徴である。
尾道が生んだ女流画家・平田玉蘊の生涯と画業
江戸時代後期、尾道で生きた女性画家・平田玉蘊。父の死後、絵筆一本で生計を立て、頼山陽との関わりや四条派・南蘋派の影響を受けながら独自の画風を確立した。尾道の文化的な土壌が彼女の自立を支えた。
塩田からレモンへ、瀬戸田の土地と人々の選択
かつて塩田で栄えた瀬戸田が、なぜレモン栽培で有名になったのか。塩田跡地の活用、瀬戸内海の気候、防風垣の工夫、そして国産レモンのブランド化といった、土地の条件と人々の選択の歴史を辿る。
因島・生口島を支配した村上水軍の謎
因島水軍城を訪れた筆者が、瀬戸内海を支配した村上水軍の実像に迫る。平安時代末期から活躍し、芸予諸島を本拠地とした三島村上氏の組織や、帆別銭徴収、焙烙玉を用いた戦術など、彼らが築いた独自の海上秩序について辿る。
尾道水道の向こう側、向島はどんな場所だった?
尾道水道の対岸に位置する向島は、かつて造船業で栄えた「工都」だった。明治末期から始まった造船業は島の風景を一変させ、高度経済成長期には多くの人々が暮らし、独自の経済圏と文化を形成した。しまなみ海道開通後はサイクリングの島としても注目されている。
尾道水道と千光寺山が作り上げた迷宮のような坂道
尾道の市街地が入り組んで密集しているのは、尾道三山と尾道水道に挟まれた地形に加え、港町としての歴史、明治以降の鉄道敷設が山麓部への拡大を促したため。坂道や路地は、限られた空間で生活を営む人々の知恵の結晶である。
尾道で愛される「からさわ」のたまごアイス、その魅力とは
尾道で長年親しまれるアイスクリーム店「からさわ」。喫茶店から始まった歴史の中で、卵を多く使った独自の「たまごアイス」が誕生した。その素朴な味わいと、パリパリのモナカの食感が、尾道の風景と共に人々に愛され続けている。
尾道、なぜ写真家は坂道と路地の「箱庭」に惹かれるのか
広島県尾道市は、海と山が迫る箱庭的景観、複雑な坂道と路地の迷宮性、時間を感じさせる建築と光の演出が特徴。これらの要素が重層的に絡み合い、写真家を惹きつける理由を探る。
頼山陽の『日本外史』はなぜ幕末の人々を動かしたのか
安芸国出身の儒学者・頼山陽が著した『日本外史』。武家政権下の天皇の権威を説いたこの書物は、幕末の動乱期に人々の心を掴み、歴史を動かす物語の力となった。広島と京都に遺る足跡を辿りながら、その影響力を探る。
尾道、塩が築いた豪商の歴史と「海の道」
かつて尾道は瀬戸内海の自然条件と西廻り航路の整備により、塩の生産・流通拠点として栄えた。備後塩は全国に流通し、豪商たちが財を築いた。現代に続く塩の記憶と新たな試みを紹介する。
なぜ尾道にはお寺が多い?坂道に密集する寺院の理由
尾道に多くのお寺が密集する理由を、港町としての歴史、地形的制約、そして商人の信仰心という三つの観点から探る。海上交通の要衝として栄えた過去と、山と海に挟まれた狭隘な土地が、独特の寺院景観を生み出した。
尾道水道が結んだ備後国の海運と商業の歴史
尾道は、狭い海峡という地理的優位性、陸上交通との結節点、そして商人や寺社の活動により、中世から近世にかけて備後国の海運と商業の中心地として発展した。鉄道開通後も、陸海交通の結節点として独自の役割を果たしてきた。
宮島・霊火堂の「消えずの火」は空海から1200年以上続くのか?
宮島の弥山にある霊火堂の「消えずの火」は、空海が灯した護摩の火が1200年以上燃え続けていると伝わる。物理的な炎の連続性だけでなく、空海の教えと信仰が継承されてきた精神的な象徴としての意味を探る。
広島・三次で鵜飼はなぜ日本一長い手縄を使うのか
広島県三次市に伝わる鵜飼は、戦国時代に始まり、藩主の奨励を経て観光へと発展した。日本一長い手縄や独特の舟など、漁獲高を追求した実用的な漁法が特徴であり、広島県無形民俗文化財に指定されている。
江戸期、広島米が大坂で重宝された理由とは
江戸時代、広島藩の米が大坂で人気を集めたのは、単なる美味しさだけでなく、安定した供給量、瀬戸内海という地理的優位性を活かした効率的な輸送、そして藩の市場戦略が複合的に作用した結果です。当時の大坂市場が求めたのは、信頼できる安定供給でした。
広島の内陸部、三次・安芸高田・庄原・北広島・東広島には何がある?
広島の内陸部は、山々と川が刻んだ歴史、霧や雪といった気候、そして神楽や酒造りといった独自の文化を育んできた。沿岸部とは異なる、山と水との共生がもたらす多様な顔を紹介する。
東広島の酒はなぜ特別?軟水から吟醸酒を生み出した秘密
東広島の酒造りは、軟水という課題から始まった。三浦仙三郎が軟水醸造法を確立し、龍王山の伏流水と盆地の気候、精米技術が融合。灘・伏見とは異なる中硬水で、まろやかさと旨味を両立させた酒を生み出してきた。
酒どころ東広島で生まれた「こい地鶏」の秘密
広島県東広島市で、広島大学との共同研究により開発された「東広島こい地鶏」。130日以上の長期飼育と酒粕などを配合した特別な飼料で、旨味と口溶けの良い脂を両立させた肉質が特徴。G7サミットでも提供され、地域の食文化を牽引する存在となっている。
もみじ饅頭はいつ誕生?宮島の紅葉に重ねられた明治の物語
広島銘菓もみじ饅頭の起源は明治時代後期。有力説は1906年の高津常助による考案だが、伊藤博文の冗談説も。観光土産として誕生し、機械化や多様な餡の登場を経て、今も進化を続ける。
広島の土壌と気候が育むレモンやハーブの秘密
広島県は瀬戸内海沿岸と中国山地で気候や土壌が異なり、多様な農産物を生み出している。花崗岩由来の土壌や沖積土壌が、レモン、ハーブ、うすい豆などの栽培を支える背景を探る。
宮島で穴子飯が名物になったのはいつから?
宮島周辺の豊かな漁場と牡蠣養殖が穴子を育んだ。明治時代に駅弁として登場した「あなごめし」は、穴子の出汁で炊いたご飯が特徴で、旅人に愛され名物となった。
宮島の鹿はいつからいるの?奈良の鹿との違いは?
約6000年前の離島化で本土から分断された鹿が厳島に定着。明確な神鹿伝説はないが、島全体の神聖視と殺生禁断の信仰で保護されてきた。現代では野生動物管理と観光との間で複雑な状況にある。
宮島・厳島神社の歴史、海上に社殿が築かれた理由
広島湾に浮かぶ厳島神社の歴史を辿る。島全体を神とする古代信仰と、平清盛による海上社殿造営の背景、そして厳島の戦いなどを紹介。自然と建築の調和が生み出す景観の変遷と、現代に息づく信仰の姿を描く。
神功皇后伝説、瀬戸内海を巡る「物語の航路」をたどる
神功皇后の伝説は、九州北部だけでなく瀬戸内海沿岸にも数多く残る。本記事では、岡山県牛窓や広島県鞆の浦などを例に、瀬戸内海が海上交通路として栄えた歴史と、航海の安全や地域との結びつきを願う人々の信仰が、神功皇后の伝説をどのように育んできたのかを探る。
錦帯橋の白蛇と廿日市のつゆ太郎、蛇と梅雨の関係は?
岩国・錦帯橋の白蛇と廿日市のつゆ太郎は、どちらも蛇と「梅雨」という言葉を結びつけている。本記事では、蛇が水や雨、豊穣と結びつけられてきた背景や、各地の蛇神信仰の事例を辿る。
大頭神社 妹背の滝、水が豊かな理由を辿る
廿日市市の大頭神社にある妹背の滝。二筋の流れが合流するこの滝が、なぜ豊かな水量を保てるのか。花崗岩の地層と降水量の関係、そして古くからの信仰との結びつきを辿る。
廿日市「つゆ太郎水」は蛇神の伝説が宿る不思議な湧水
廿日市市の山間部にある「つゆ太郎水」は、梅雨時に現れるという蛇神「つゆ太郎さん」の伝説が宿る湧水。枯れることのない清らかな水は、商売繁盛や安産のご利益があるとされ、今も多くの人々が水を汲みに訪れる。
速谷神社はなぜ交通安全の神様?古代山陽道との繋がり
広島県廿日市市の速谷神社は、安芸建国の祖神を祀り、古代山陽道の守護神として栄えてきました。その歴史的背景と地理的条件から、現代でも交通安全の信仰を集める理由を辿ります。
広島の「廿日市」はなぜ「はつかいち」?名前に隠された市場の歴史
広島県廿日市市の名前の由来は、月に一度「二十日」に市が立っていたことにあります。瀬戸内海の海上交通と山陽道の陸上交通の要衝であったこの地で、毛利氏や福島氏、浅野氏といった有力大名の保護のもと、市場が発展しました。
広島風お好み焼きはいつから?戦後の食糧難から生まれた重ね焼きの歴史
広島風お好み焼きのルーツは、大正時代の一銭洋食に遡る。戦後の食糧難の中、小麦粉とキャベツを使い、鉄板文化と調達環境が重なり「重ね焼き」スタイルが確立された。復興の象徴として、市民のソウルフードとなった歴史を辿る。
広島・多家神社、神功皇后ゆかりの伝承と地形の変遷
広島湾奥に鎮座する多家神社。神功皇后の伝承が残るが、現在の社地と「浜への上陸」という伝承には地理的な隔たりがある。古代の海岸線や地形の変化、地域の信仰と結びついた伝承の形成過程を辿る。
広島・邇保姫神社の「邇保」は和歌山の「丹生」と繋がる?
広島市南区の邇保姫神社と和歌山県の丹生都比売神社。祭神名に共通の響きを持つ両社は、古代の辰砂信仰を介して繋がる可能性が指摘される。本記事では、その歴史的背景と神名の由来を探る。
明治・大正期の広島、軍都と地方中心都市の二つの顔
明治維新以降、広島は西日本の軍事拠点として発展し、日清戦争時には臨時首都ともなった。同時に、交通網の整備や産業の勃興により、中国地方の中心都市としても独自の発展を遂げた。軍港都市とは異なる、多機能都市としての姿を探る。
なぜ広島は川だらけのデルタ地帯に発展したのか
広島の街に数多く流れる川は、治水が困難な場所である一方、水運の利便性や防御上の優位性、土地開発の可能性といった利点があった。毛利輝元による築城以来、人々は水害と向き合いながらデルタ地帯に都市を築き上げてきた。
広島の牡蠣、熊野筆、備後絣は江戸時代から続いている?
広島の牡蠣養殖、熊野筆、備後絣は江戸時代にその原型や基礎が築かれた。自然条件や人々の工夫が、現代に続く特産品を生み出した背景を探る。
江戸時代の広島は、川と海が育んだ西日本有数の城下町だった
江戸時代の広島は、太田川の三角州に築かれ、毛利氏から浅野氏へと統治が移る中で発展した。米作に加え、塩、綿、牡蠣などの多様な産業と瀬戸内海の海運・太田川水運を基盤に、西日本有数の大都市へと成長した。
毛利元就は厳島・月山富田城の戦いをどう勝ち抜き、中国地方を制圧したのか?
戦国時代の毛利氏は、大内氏・尼子氏という二大勢力に挟まれながらも、厳島の戦いや月山富田城の戦いを経て中国地方を制圧した。その背景には、地理的条件の活用、三本の矢に象徴される一族の結束、そして毛利水軍による制海権の確保があった。
安芸・備後、それぞれの鎌倉・室町時代の複雑な守護と国人領主の力学
鎌倉・室町時代の安芸・備後両国では、守護権力が弱く、在地領主である国人たちが力を蓄えた。瀬戸内海の要衝という地理的条件や、畿内と西国の狭間という立地が、多層的な権力構造を生み出した。
広島の古代・中世:安芸国と備後国、二つの国の歴史を辿る
広島県域の古代から中世にかけて、人類の活動は旧石器時代に遡る。弥生・古墳時代を経て、7世紀には安芸国と備後国が設置された。瀬戸内海の要衝として厳島信仰が興隆し、荘園が広がるなど、陸と海の結節点としての歴史が形成された。