2026年5月21日
尾道水道と千光寺山が作り上げた迷宮のような坂道
尾道の市街地が入り組んで密集しているのは、尾道三山と尾道水道に挟まれた地形に加え、港町としての歴史、明治以降の鉄道敷設が山麓部への拡大を促したため。坂道や路地は、限られた空間で生活を営む人々の知恵の結晶である。
迷宮の坂道が語るもの
尾道の路地を歩くと、まるで地形の襞に縫い付けられたかのような密集した家並みに目を奪われる。道は予期せぬカーブを描き、石段はどこまでも続き、その先には突然、瀬戸内海のきらめきが広がる。平坦な土地が少ないことは一目でわかるが、なぜこれほどまでに、この町は複雑に入り組み、空間を隙間なく埋めていったのか。観光客が「迷路のようだ」と感じるこの独特の都市景観は、一体何が作り上げたものなのだろうか。
海と山に挟まれた古道の始まり
尾道の市街地は、北にそびえる千光寺山、西国寺山、浄土寺山といった「尾道三山」と、南に横たわる細長い海峡「尾道水道」に挟まれた、東西に伸びるわずかな平地に展開している。この地理的条件が、まず町の骨格を決定づけた。平地が極めて少ないため、古くから人々は山の斜面へと生活の場を広げざるを得なかったのだ。
尾道が港としての役割を担い始めたのは、平安時代後期の嘉応元年(1169年)にまで遡る。当時は備後国大田荘(現在の世羅町周辺)の年貢米を都へ積み出す「倉敷地」として公認されたことが契機であった。天然の良港である尾道は、大田荘に近く、船を停めやすい入り組んだ地形を持っていたため、その役割を果たすことになったという。 この頃の尾道浦はまだ小さな集落であったが、港の成立とともに人や物が集まり始め、次第に瀬戸内海を代表する港町へと変貌していく。
中世に入ると、尾道はさらに発展を遂げる。瀬戸内海の潮流は紀伊・豊後両水道を迂回して流れ、福山市の鞆の浦沖で合流するが、尾道もまた「潮待ちの港」として多くの船が停泊したことが想像に難くない。 足利尊氏が京都を追われた際に浄土寺で戦勝を祈願し、その恩顧に応える形で浄土寺利生塔の建立や荘園の寄進を行ったという記録は、当時の尾道が海運業者「梶取」らを味方につけるほどの影響力を持っていたことを示している。 室町時代には山名氏の管轄下で対明貿易の基地となり、中国山地の銅や日本刀が主要な貿易品であった。
江戸時代にはいると、尾道は広島藩領となり「広島藩の台所」と称されるほどの最盛期を迎える。 寛文12年(1671年)に確立された「西廻海運」(北前船の航路)の重要な寄港地として、北海道や東北地方の米、海産物などが運ばれ、尾道からは畳表や酢などが大坂へと運ばれた。 港の埋め立てや整備も進み、多くの豪商が台頭し、その財力は寺院の建立や町の整備にも投じられた。 こうした歴史的経緯が、尾道水道沿いの平地に商業地や港湾施設を形成し、その背後の山麓部には多くの寺社が点在する「寺のまち」としての景観を築き上げていったのだ。
