2026年5月20日
広島・三次で鵜飼はなぜ日本一長い手縄を使うのか
広島県三次市に伝わる鵜飼は、戦国時代に始まり、藩主の奨励を経て観光へと発展した。日本一長い手縄や独特の舟など、漁獲高を追求した実用的な漁法が特徴であり、広島県無形民俗文化財に指定されている。
戦国の落武者から藩主の奨励まで
三次の鵜飼の起源は、戦国時代にまで遡ると伝えられている。永禄年間(1558年~1569年)に毛利氏に敗れた尼子氏の落武者たちが、川岸や水中を歩きながら一、二羽の鵜を操り、鮎を獲った「徒鵜(かちう)」が始まりとされる。これは、生計を立てるための切実な漁法であっただろう。
その後、江戸時代に入ると、初代三次藩主である浅野長治が鵜飼の保護と奨励に努めた。長治は参勤交代の途上、長良川の鵜飼を見てその技法を三次に伝え、鵜匠制度を確立したと言われている。 藩の庇護のもと、鵜飼は「舟鵜飼」として発展し、獲れた鮎は幕府への献上品や贈答品として重宝されたという。 漁業として確立された鵜飼は、大正時代に納涼遊覧が流行すると、旅館や料亭が遊覧船を所有し、宿泊客に公開する観光鵜飼へと姿を変えていった。
しかし、昭和26年には、鵜飼は禁止漁法に指定され、三次の鵜飼も廃止の危機に瀕する。 その後、区域を限定し、観光事業として許可を得ることで、現代へとその伝統が受け継がれることになった。 三次の鵜飼が広島県無形民俗文化財に指定されたのは、平成27年(2015年)のことである。
独自の進化を遂げた漁法
三次の鵜飼が他の地域の鵜飼と一線を画す点は、その独自の漁法にある。最も特徴的なのは、鵜を繋ぐ「手縄」の長さだ。三次の手縄は、日本一長いとされる約6.75メートル(約7メートルとする資料もある)に及び、これにより鵜匠は広範囲の鮎を獲ることができる。 この長い手縄は、近代まで漁撈鵜飼として漁獲高を追求してきた結果、改良が重ねられた名残であるとされている。
また、鵜舟も独特の形状をしている。「軽枯舟(かるがれぶね)」と呼ばれる細長い舟は、5枚の板で作られ、幅は約35~45センチメートルと非常に狭い。 馬洗川と西城川の合流地点で行われる鵜飼は、波が立ちやすく、この細い舟を操るには熟練の技術が求められる。 鵜匠は、この舟の上でバランスを保ち、体幹を鍛えることが必須とされる。
篝火には、かつて松明や苧殻が使われたが、現在は「カーバイドランプ」が用いられている。 カーバイドの光は遠くまで届くため、これもまた長い手縄と相まって、より効率的に魚を獲るための工夫であったことがうかがえる。 さらに、三次の鵜飼は「穴槍方式」という独自の漁法を用いることも特徴として挙げられる。 鵜匠と、舟を操る舵子、そして鵜の三位一体が、これらの独特の道具と漁法を支えているのだ。
比較から見える三次の個性
日本全国には現在、大分県日田市、福岡県朝倉市、山口県岩国市、愛媛県大洲市、京都府宇治市、京都府京都市(嵐山)、岐阜県岐阜市(長良川)、岐阜県関市(小瀬)、愛知県犬山市(木曽川)、山梨県笛吹市(石和)など、11ヶ所で鵜飼が行われている。 その中でも、三次の鵜飼はいくつかの点で特異な位置を占めている。
