2026年5月21日
尾道、塩が築いた豪商の歴史と「海の道」
かつて尾道は瀬戸内海の自然条件と西廻り航路の整備により、塩の生産・流通拠点として栄えた。備後塩は全国に流通し、豪商たちが財を築いた。現代に続く塩の記憶と新たな試みを紹介する。
坂道に隠れた白い記憶
尾道の坂道を歩くと、猫が路地を横切り、古い寺院の屋根瓦が幾重にも重なる。瀬戸内海の穏やかな水面には、時折フェリーが白い航跡を描いて過ぎていく。寺社巡りや文学の舞台として知られるこの町に、かつては別の「白」が深く関わっていた。それは塩である。現代の尾道の風景から、塩田の広がりや製塩の煙を見ることは稀だ。しかし、この町の歴史を紐解くと、塩が経済の基盤となり、豪商たちの財を築き、遠く離れた地との交易を繋ぐ重要な役割を果たしていたことが見えてくる。なぜ、この静かな港町が、かつて「塩の道」の要衝として栄えたのか。その答えは、瀬戸内の自然条件と、時代ごとの人々の営みの中に隠されている。
備後大田庄から西廻り航路へ
尾道が港としての役割を明確にしたのは、平安時代末期の嘉応元年(1169年)、備後国大田庄の年貢米積出港に指定されたことがきっかけとされる。当初は荘園からの物資輸送が主であったが、中世に入ると交易品目は広がり、塩や鉄、布製品などが扱われるようになる。この頃から、商人だけでなく刀鍛冶や石工といった職人も尾道に暮らし、町の基盤が形成されていった。
瀬戸内海は、古くから塩の生産に適した地域であった。雨が少なく、干満の差が大きい瀬戸内海式気候は、海水から塩を効率よく採取するための塩田開発に有利に働いたのだ。古代には海藻を焼いて灰塩を作る「藻塩焼き」が行われ、やがて海水を砂に含ませて濃い塩水「かん水」を得て煮詰める「揚浜式塩田」へと発展した。尾道周辺でも中世までは揚浜式塩田が利用されていたとみられる。
近世に入ると、土木技術の進歩に伴い、大規模な「入浜式塩田」が開発される。これは潮の干満を利用して塩田に海水を導入する方式で、より多くの「かん水」を効率的に生産することを可能にした。広島藩では慶安3年(1650年)に竹原古浜塩田、福山藩では寛文2年(1662年)に松永塩田の開発が手始めとなり、尾道周辺でも寛文10年(1670年)に生口古浜塩田、延宝5年(1677年)に富浜古浜塩田などが次々と開かれていった。これらの塩田は、尾道市向島町、天満町、新浜、瀬戸田町といった現在の尾道市域に点在していた。
そして、尾道の商業的隆盛を決定づけたのは、寛文12年(1672年)に河村瑞賢によって開発された「西廻り航路」の整備である。この航路は、北国から日本海を通り、下関を経て大坂(現在の大阪市)に至るもので、尾道は下関と大坂の中間に位置する重要な寄港地となった。これにより、塩は有力な商品として全国的な流通に乗るようになり、北前船などの廻船が頻繁に入港することで、尾道は広島城下を凌ぐ繁栄を見せた。「芸州藩の台所」と称されるほどの活況を呈した背景には、この西廻り航路と、そこで主要な積み荷となった塩の存在が大きかったのだ。
