2026/5/23
徳島・岡田製糖所、二百年続く和三盆の甘みはなぜ生まれた?

徳島の岡田製糖所に和三盆を見に行った。徳島の和三盆の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
徳島県上板町で二百年以上続く岡田製糖所の和三盆。痩せた土地で育つ竹糖というサトウキビと、手作業による「研ぎ」という独自の製法が、上品な甘みを生み出す背景を探る。
徳島の岡田製糖所を訪れたとき、案内された蔵の薄暗さ、そしてそこに並ぶ木製の道具や、かつて使われたであろう機械の存在感が印象に残った。ひんやりとした空気の中に、甘いような、土のような、言葉にしがたい香りが満ちていた。現代の製糖工場とは全く異なるその空間は、和三盆という砂糖が単なる甘味料ではないことを示唆しているようだった。なぜこの地で、これほどまでに手間のかかる砂糖が生まれ、そして二百年以上の時を超えて、今もその製法が守られ続けているのか。その疑問は、蔵の奥から聞こえてくるかのような、研ぎの音に導かれていく。
阿波和三盆の歴史は、江戸時代中期、国内での砂糖生産が奨励された時代に始まる。八代将軍徳川吉宗が享保の改革において、海外からの輸入に頼っていた砂糖を自国で賄うため、全国にサトウキビ栽培を奨励したことが大きな契機となった。
阿波国、現在の徳島県板野郡上板町引野村に生まれた丸山徳弥は、この時代の流れの中で重要な役割を担うことになる。伝承によると、安永5年(1776年)、徳弥は九州を旅する遍路からサトウキビの話を聞き、日向国延岡(現在の宮崎県)に渡ったという。延岡藩が甘蔗栽培と製糖法を国禁としていた中、徳弥は修験者として潜入し、三節のサトウキビの苗を竹杖に隠して持ち帰ったとされている。
持ち帰られたサトウキビは順調に増殖し、徳弥は再び延岡へ渡って製糖法を探求。帰国後、独力で研究を重ね、寛政10年(1798年)頃には「三盆糖」の製造に成功したと伝えられる。この成功は、水利に乏しく稲作に適さない阿讃山脈南麓の扇状地帯にとって、新たな活路を開くものだった。徳島藩主蜂須賀家もこの産業を奨励し、徳弥には苗字帯刀が許され、砂糖奉行に任命されたという記録も残る。
こうして阿波の地では甘蔗栽培が急速に広がり、最盛期である天保から文久年間(1830年代〜1860年代)には、甘蔗作付け面積が2,500ヘクタールを超え、阿波藍と並ぶ一大産業へと発展した。岡田製糖所の創業年が丸山徳弥がサトウキビを持ち帰ったとされる安永5年(1776年)であることは、阿波和三盆の起源と密接に結びついている。
阿波和三盆がこの地で発展した背景には、特有の地理的条件と、それに対応した製法があった。徳島県と香川県の県境を走る阿讃山脈の南麓は、扇状地であり、水はけが良すぎる砂礫質の土壌が広がる。この土地は稲作には不向きで、かつては農民の生活は困窮していたという。しかし、この「痩せた土地」こそが、サトウキビ栽培、特に和三盆の原料となる在来種「竹糖(ちくとう)」にとって最適な環境であった。砂礫質であることがサトウキビの糖度を高め、扇状地であるため排水が良く、適度な日当たりと谷水・井戸水による灌漑も可能であったことが、良質な甘蔗を生み出す条件を整えていたのだ。
竹糖は、沖縄などで栽培される一般的なサトウキビに比べて背丈が低く、非常に細いのが特徴である。そのため一本から搾れる汁の量は少なく、大量生産には向かない。しかし、この竹糖こそが、和三盆独特のきめ細かさ、口溶けの良さ、そして上品な風味の源となる。
和三盆の製造工程は、この竹糖の収穫から始まる。11月から12月にかけて収穫された竹糖は、圧搾機で甘い汁を搾り出す。この搾り汁を加熱しながら丁寧にアクを取り除き、さらに煮詰めて濃縮していく。これを冷却し結晶化させると、浅い茶色の半固形状態の「白下糖(しろしたとう)」となる。
ここからが、和三盆製法の真骨頂である。「押し船(おしぶね)」と呼ばれる木製の箱に麻布に包んだ白下糖を入れ、テコの原理で重石をかけて糖蜜をゆっくりと圧搾する。この「荒がけ」と呼ばれる作業で丸一日かけて糖蜜を抜いた後、さらに手水を加えながら手で練り、柔らかくなったものを再び麻布に包んで押し船で圧力をかける。この練りと圧搾を繰り返す工程が「研ぎ(とぎ)」である。「和三盆」という名称は、「盆の上で砂糖を三度研ぐ」ことに由来するとも言われるが、実際には現在、岡田製糖所では四回または五回研ぎを行うという。この気の遠くなるような手作業によって、糖蜜が丁寧に除去され、和三盆独特の粒子が細かく、口溶けの良い上品な砂糖が生まれるのだ。サトウキビの搾汁以外はほぼ手作業という、この伝統的な製法が、阿波和三盆の品質を支えている。
和三盆は、日本の砂糖史において特異な位置を占める。一般的な精製糖であるグラニュー糖や上白糖が、多品種のサトウキビやテンサイを原料とし、遠心分離機で結晶と糖蜜を分離する工業的な製法で大量生産されるのに対し、和三盆は「竹糖」という在来種のサトウキビにこだわり、手作業による「押し船」と「研ぎ」という独自の分蜜工程を経る。この製法の違いが、和三盆のきめ細かな粒子と、すっきりとした上品な甘さ、そして後に残らない独特の風味を生み出す。
同じ四国で生産される讃岐和三盆と阿波和三盆は、しばしば並び称される。どちらも竹糖を原料とし、江戸時代に徳川吉宗の奨励をきっかけに、ほぼ同時期に製法が確立された。讃岐では高松藩主松平頼恭の命により、池田玄丈や平賀源内の門人であった向山周慶らが研究を進め、寛政11年(1799年)には白砂糖製造に成功したとされる。阿波では丸山徳弥が製法の確立に貢献した経緯がある。
両者の製法は非常に似通っており、阿讃山脈を挟んで隣接する地域であることから、技術の交流も頻繁に行われていたと推測される。しかし、天保年間の史料を見ると、讃岐が生産量で上回っていたとされる一方、阿波は白糖の割合が高く、「質」を重視していた証拠だと指摘する研究者もいる。また、明治以降に外国産の安価な砂糖が流入し、台湾産の砂糖が大量に輸入されるようになった際、讃岐が白下糖に特化して生き残りを図ったのに対し、阿波は三盆糖そのものに活路を見出して命脈を保ったという経緯もある。これは、阿波が早くから完成された三盆糖の品質に、確固たる価値を見出していたことの表れではないだろうか。
現代の食卓に並ぶ多様な砂糖の中で、和三盆は「和」の冠を付け、日本独自の製法と風味を確立している。それは単に「日本で作られた砂糖」というだけでなく、手間と時間をかけて糖蜜を分離し、繊細な甘みを追求するという、日本の食文化が培ってきた美意識が凝縮された存在だと言えるだろう。
明治以降、外国産の安価な精製糖や、日清戦争後に日本に併合された台湾からの砂糖が大量に輸入されるようになると、国内の和式製糖業は大きな打撃を受けた。かつて200以上あったとされる製糖所も激減し、現在では徳島県と香川県の一部で、わずか数軒の製糖所が伝統的な和三盆の製造を続けているに過ぎない。
徳島県内において、昔ながらの手作業による和三盆製造を続けているのは、現在、岡田製糖所を含め限られた数社である。岡田製糖所では、サトウキビの搾汁以外はほとんど手作業で行うという伝統的な製法を守り続けている。かつて、コスト削減のために一時的に機械化を試みた時期もあったというが、製品の出来栄えに納得できず、再び手作業に戻したという逸話が残る。「手のぬくもりで作るのと、機械に任せるのとでは、出来上がりが違う。どこがどう違うのか、さっぱり分からんけれど、確かに違う」という、当時の当主の言葉は、単なる効率性では測れない価値がそこにあることを示している。
現在、阿波和三盆は、その独特の風味と上品な甘さから、高級和菓子には欠かせない存在として重宝されている。特に落雁などの干菓子の材料としては不可欠であり、和菓子だけでなく、近年では洋菓子や料理の隠し味としてもその用途が広がっている。しかし、竹糖の栽培面積の減少や、製造を担う職人の高齢化、後継者不足といった課題も抱えている。伝統を守りながらも、新たな需要を掘り起こし、和三盆の魅力を発信していく取り組みが続けられている。
岡田製糖所の蔵で見た、年季の入った道具や機械、そして今も続く研ぎの工程は、和三盆が単なる甘味料ではないことを改めて教えてくれる。それは、水に乏しい痩せた土地で、人々が知恵と労力を注ぎ込み、時間をかけて生み出してきた「甘み」の結晶である。
現代において、効率化された工業製品が市場を席巻する中で、和三盆が手作業による伝統製法を維持し続けていることは、一見すると非効率に見えるかもしれない。しかし、その「非効率」の中にこそ、他では得られない繊細な風味と口溶けが宿る。竹糖という固有の原料を選び、何度も研ぎを繰り返すことで糖蜜を抜き、純粋な甘みを追求する。この手間を惜しまぬ選択が、和三盆を「日本の高級砂糖」たらしめている。この地で和三盆が生き残ったのは、単に伝統を守り続けたからではなく、その製法がもたらす唯一無二の品質が、時代を超えて評価され続けているからに他ならない。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。