2026/5/28
富士宮まつりの熱気はどこから?山車と喧嘩囃子の秘密

富士宮まつりについて教えて欲しい。たまたまお祭りをやっていた。
キュリオす
富士山本宮浅間大社の秋季例大祭に合わせて毎年11月3日から5日まで開催される富士宮まつり。平安時代から続く歴史と、江戸時代末期から発展した山車や屋台、そして「喧嘩囃子」とも呼ばれる富士宮囃子の競り合いが、この祭りの熱気の源泉となっている。
去年の秋、富士宮の街角を曲がったとき、突然、太鼓と笛の音が響き渡り、視界いっぱいに鮮やかな山車が現れた。予期せぬ出会いは、旅の記憶に強く刻まれるものだ。それは「富士宮まつり」と呼ばれる祭りで、富士山本宮浅間大社の秋季例大祭に合わせて毎年11月3日から5日まで開催されているという。この祭りの熱気はどこから来るのか。なぜこの街で、これほどまでに山車と囃子が人々を惹きつけるのか。その問いが、祭りの背後にある歴史と、富士の麓に生きる人々の営みを紐解くきっかけとなった。
富士宮まつりの起源は、富士山本宮浅間大社の秋季例大祭に深く結びついている。全国に約1300社ある浅間神社の総本社である富士山本宮浅間大社は、富士山を神体山として祀り、古くから富士信仰の中心地として栄えてきた。祭りの記録は平安時代前期の文献にも見られ、貞観17年(875年)には役人による祭祀が行われたことが記されているという。しかし、現在のような山車や屋台が曳き回される「つけ祭り」の歴史は、もう少し後の時代に始まるようだ。
江戸時代末期の造り酒屋当主の日記「袖日記」には、万延元年(1860年)に「家臺(屋台)多く引出ス」との記述があり、この頃にはすでに町方による山車の曳き回しが行われていたことがうかがえる。 明治時代に入ると、太陰暦から太陽暦への改暦によって祭礼の日程に混乱が生じたが、最終的には新暦11月4日を大祭の日と定めることが許され、今日までその日程が続いている。
明治中期には「大宮青年団」が組織され、地域ごとの分団が祭りの原型となり、これが後の祭り組の対抗意識を生むことになる。 昭和初期にかけては、養蚕・蚕糸産業の隆盛とともに大宮町(現在の富士宮市中心部)が大きく発展し、祭りは爛熟期を迎えた。当時の大宮町は静岡県下の花柳界でも有数の賑わいをみせ、芸妓を屋台に乗せて三味線や太鼓の入った屋台囃子を奏でるなど、新たな要素が祭りに取り入れられていったという。 戦時中は一時休止されたものの、戦後すぐに再開され、昭和30年代後半から50年代初頭にかけては低迷期を迎えたが、山車の復元や新造が進むにつれて活気を取り戻し、昭和61年(1986年)には「秋祭り青年協議会」(現・富士宮まつり青年協議会)が発足。これを機に祭りは現在の隆盛へと繋がっていったのだ。
富士宮まつりの中心にあるのは、20の氏子町内が引き回す山車や屋台、そしてそれに合わせて奏でられる「富士宮囃子」である。 祭りは毎年11月3日から5日の3日間行われ、それぞれの日に異なる見どころがある。
初日の11月3日は「宮まいり」と「宵宮」の日だ。各町内の祭り参加者が、それぞれの会所から囃子を奏でながら富士山本宮浅間大社へ向かい、祭りの安全を祈願して修祓を受ける。 大社拝殿前では、全区の囃子方による奉納囃子が響き渡る。夜には市役所周辺などで「競り合い」が始まり、街は宵宮の賑わいに包まれる。
中日の11月4日は「本宮」と呼ばれ、祭りのメインイベントだ。20台全ての山車・屋台が富士山本宮浅間大社周辺に集結する。 勢揃いの後、大社前で式典が行われ、一斉囃子と共同踊りが披露される。 その後、山車は市街地の目抜き通り各所に移動し、勇壮な競り合いや踊りが繰り広げられるのだ。
最終日の11月5日は、各町内が自区を中心に山車・屋台を引き回し、祭りの余韻を楽しむ日である。 全ての行事を終えた後、浅間大社に御幣を返納して祭りは幕を閉じる。
この祭りの最大の魅力は、やはり「競り合い」だろう。 2台の山車や屋台が向かい合い、互いに囃子を激しく奏でながら押し引きする。この時に演奏される「屋台」という曲は、その激しさから「喧嘩囃子」とも呼ばれる。 大胴1人、締太鼓2人、笛1人、鉦1人の5人構成が基本となる富士宮囃子は、締太鼓が基本リズムを刻み、長胴太鼓が緩急をつけ、笛が主導権を握って曲の切り替えを合図する。鉦は相手の調子を狂わせるように、山車に接近しながら演奏することもあるという。 競り合いはかつて喧嘩沙汰に発展することもあったため、一時期自粛された時期もあったが、現在は祭りの最大の見せ場として復活している。 囃子方の真剣な表情、鳴り響く太鼓、掛け声が一体となり、観る者を惹きつける熱気を生み出しているのだ。
日本の祭りで山車や屋台が曳き回され、囃子が奏でられるものは数多く存在する。例えば、京都の祇園祭の山鉾巡行や、埼玉県の秩父夜祭の笠鉾・屋台引き回し、佐賀県の唐津くんちの曳山などが挙げられるだろう。これらは地域ごとに異なる歴史的背景や信仰、そして独自の文化を育んできた。
祇園祭は、疫病退散を願う御霊会が起源とされ、巡行する山鉾は美術工芸品の粋を集めたものとして知られている。 秩父夜祭は、秩父神社の例大祭であり、冬の夜空に花火が打ち上げられる中、提灯で飾られた笠鉾や屋台が曳行される。 唐津くんちは、唐津神社の秋季例大祭で、巨大な曳山が旧城下町を練り歩く姿が特徴的だ。 これらの祭りに共通するのは、神事としての側面と、地域住民が一体となって作り上げる「つけ祭り」としての賑わいである。
しかし、富士宮まつりが他の祭りとは異なる特異性を持つのは、その背景に常に富士山の存在がある点だろう。富士山は単なる景観ではなく、神体山として人々の信仰を集めてきた。富士宮まつりは、その富士山を御神体とする富士山本宮浅間大社の秋季例大祭に付随するものであり、富士山の恵みである収穫に感謝する意味合いが強く込められている。
また、競り合いにおける「喧嘩囃子」の存在も特徴的だ。他の祭りでも山車の曳き回しには熱気が伴うが、富士宮まつりの競り合いは、単なる巡行や奉納に留まらない、町内ごとの誇りと意地がぶつかり合う場としての側面が際立っている。 川を境に「磐穂」と「湧玉」という旧祭り組に分かれていた歴史が、現在の20区の町内対抗意識の根底にあるとも言われている。 このような競争原理が、祭りの熱量を高め、参加者の結束を強める一因となっているのだ。
富士宮まつりは、毎年11月3日から5日の3日間、富士宮市中心市街地で開催され、多くの市民や観光客で賑わう。 祭りの期間中、街中には交通規制が敷かれ、山車や屋台が優先される空間が生まれる。 富士山本宮浅間大社を起点とし、その周辺の目抜き通りが祭り一色となるのだ。
現代において、祭りの運営は「富士宮まつり委員会」と「富士宮まつり青年協議会」が中心となって担っている。 青年協議会は昭和61年(1986年)に発足し、祭りの盛り上がりに貢献してきた。 祭りを支えるのは、各町内の住民たちであり、特に若い世代が囃子の継承や山車の維持に尽力している。 富士宮囃子は1995年(平成7年)に静岡県無形民俗文化財に指定され、その保存活動も活発に行われている。 囃子保存会「湧玉会」は、かつて低迷期にあった囃子の復興に大きな役割を果たしたという。
祭りの見どころは、やはり山車・屋台が繰り広げる「競り合い」だ。 目の前で山車が向き合い、囃子が激しく打ち鳴らされる光景は、訪れる者に強い印象を与える。 また、各町内にはそれぞれ個性的な山車や屋台があり、その装飾や囃子の音色を比較するのも一興だろう。 観光客も祭りの熱気に触れることができ、中には共同踊りに飛び入り参加する姿も見られるという。 富士宮市は、この祭りを地域の一体感を高め、伝統を次世代に伝える大切な行事と位置づけている。
富士宮まつりの山車が街を練り歩く姿、そして競り合いで響き渡る喧嘩囃子の音は、単なる観光資源ではない。そこには、富士山を神体山と仰ぎ、その恵みを受けて暮らしてきた人々の歴史が凝縮されている。かつては疫病や災害に怯え、豊作を祈り、そして近代には養蚕業で繁栄を築いてきた。祭りは、そうした人々の喜びや苦悩、そして連帯意識を映し出す鏡のようなものだ。
この祭りが持つ熱量は、外部から与えられたものではなく、地域の内側から湧き上がってくるものだと言える。山車の新造や修復、囃子の練習、そして祭りの運営に関わる人々の不断の努力が、その熱を支えている。明治の青年団から、戦後の低迷期を乗り越え、現代の青年協議会へと受け継がれてきたのは、形式としての祭りだけではない。それは、自分たちの街の歴史と誇りを次代へと繋ぐという、静かでしかし確かな決意である。富士宮の街を歩くとき、不意に聞こえてくる太鼓の音は、その土地に根ざした人々の生きる力が形を変えて現れたもののように感じられる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。