大相撲の本場所はいつから両国国技館?仮設から常設へ至る歴史

土俵を囲む熱気と問い
東京、両国。JR両国駅を降りると、まず目に飛び込んでくるのは、あの特徴的な緑青色の屋根を持つ建物だろう。大相撲の本場所が開催される「両国国技館」である。一年六場所のうち、一月、五月、九月の三場所がここで行われ、その期間中は、駅周辺から国技館へと向かう道筋に、のぼり旗が立ち並び、力士たちの幟が風にはためく。館内に入れば、土俵を取り囲むマス席の壮観な眺めに圧倒される。私たちは当たり前のように、この場所で大相撲が開催される光景を目にしているが、では、いつからこの「両国国技館」が大相撲の定場所となったのか。そして、なぜ、その歴史の中で、相撲は専用の施設を持つに至ったのか。その問いは、単なる建築の歴史に留まらず、相撲という文化が日本社会においてどのように位置づけられ、変遷してきたかという、より大きな物語へと繋がっている。
仮設の土俵から常設館へ
大相撲が専用の常設館を持つまでには、長い道のりがあった。江戸時代の相撲興行は、「勧進相撲」として寺社の境内で行われるのが常であった。寺社の造営や修復費用を捻出するために催されるもので、深川の富岡八幡宮や本所の回向院などが主な興行地だったという。特に回向院は、天明年間から開催が多くなり、天保4年(1833年)以降は江戸における大相撲の定場所となった。
しかし、寺社の境内での興行は、常に天候に左右されるという大きな課題を抱えていた。当時の番付には「晴天十日之間」と記され、雨が降れば興行は順延された。雨が続けば、本場所の終了までに1ヶ月から2ヶ月を要することもあったという。 この不安定な状況を打開するため、明治中期頃から、天候に左右されずに興行を行える常設の相撲場の建設が検討され始めた。
明治42年(1909年)、ついに初代の「両国国技館」が、長らく相撲興行の地であった回向院の境内に誕生する。 設計は、日本銀行本店や東京駅を手がけた建築家・辰野金吾と、その弟子の葛西萬司が担当した。 日本初のドーム型鉄骨板張りの洋風建築で、約1万3千人を収容できたこの建物は、その特徴的な大屋根から「大鉄傘」の愛称で親しまれた。 「国技館」という名称は、当初「尚武館」の案もあったが、作家の江見水蔭が起草した披露文の一節「角力(相撲)は日本の国技」に感銘を受けた年寄尾車が強く推したことで定着したと言われている。 これにより、相撲は常設の舞台を得て、近代スポーツとしての地位を確立する大きな一歩を踏み出したのである。
しかし、初代国技館の歴史は平穏ではなかった。大正6年(1917年)に失火により全焼し、2年後の再建後も、大正12年(1923年)の関東大震災で再び焼失する。 外観を残して内装が再建されたものの、第二次世界大戦の東京大空襲で三度焼失し、終戦後はGHQに接収され「メモリアルホール」と改称された。 接収解除後も、相撲興行には使用されず、日本大学講堂として利用された後、昭和58年(1983年)に解体されることとなる。
戦後、両国国技館がGHQに接収されていた間、大相撲は明治神宮外苑相撲場や浜町仮設国技館など、各地を転々としながら興行を続けていた。 こうした中で、新たな常設館の建設が急務となる。昭和25年(1950年)、日本相撲協会が戦前から土地を所有していた蔵前に、仮設の国技館が建設され、本場所が開催された。 その後、約4年間の工事を経て、昭和29年(1954年)に正式な「蔵前国技館」が完成する。 蔵前国技館は、戦後の大相撲の黄金時代を支え、昭和59年(1984年)の秋場所まで、東京での本場所の会場として使用された。 蔵前は、江戸時代から勧進相撲が行われていた場所であり、初代国技館のあった両国とも隅田川を挟んで目と鼻の先に位置していたため、ファンにとっては「川の向こう側へ引っ越した」という感覚に近かったと言われている。
そして、蔵前国技館の老朽化に伴い、昭和60年(1985年)1月場所から、現在の「両国国技館」が新たな大相撲の本場所の舞台として開館した。 これにより、大相撲は39年ぶりに両国へと「帰還」したのである。 現在の国技館は3代目にあたる。
興行の安定と「国技」の確立
大相撲が専用の常設館を必要とした背景には、主に三つの要因が挙げられる。一つは、興行の安定化である。江戸時代の勧進相撲は、屋外の寺社境内で行われたため、常に天候に左右され、雨天順延によって興行期間が大幅に伸びることがあった。 これでは、興行主にとっても観客にとっても不便が大きく、近代的な興行としては非効率であった。常設館の建設は、年間を通じて安定した日程で興行を行うための不可欠な条件だったのである。
二つ目は、相撲の地位向上と「国技」としての確立への意識である。明治維新後、西洋化の波の中で相撲は一時衰退の危機に瀕した時期もあった。 しかし、日露戦争の頃には横綱・常陸山や梅ヶ谷らの活躍で人気が再燃し、相撲を日本の伝統文化、ひいては「国技」として位置づけようとする機運が高まった。 専用の「国技館」という名称を持つ常設施設を建設することは、相撲が単なる庶民の娯楽を超え、国家的なスポーツ・文化としての権威と格式を持つことを内外に示す象徴的な意味合いがあった。 実際、初代国技館の開館を機に、相撲を国技とする認識が広まったと言われている。
三つ目は、観客の収容能力と快適性の向上である。江戸時代の仮設小屋でも2階席、3階席が設けられるなど、多くの観客が訪れていた。 しかし、常設館はより多くの観客を収容し、かつ悪天候に左右されずに快適に観戦できる環境を提供することで、相撲人気をさらに高める上で重要な役割を担った。初代国技館が約1万3千人、現在の両国国技館が約1万1千人を収容できる大規模な屋内アリーナであることは、その表れである。 また、現在の国技館では、土俵が電動で昇降する仕組みや、冷暖房の完備など、観客の利便性や快適性を追求した設備が導入されている。
これらの要因が複合的に作用し、相撲は仮設の土俵を離れ、専用の常設施設である「国技館」を持つに至った。これは、相撲が時代とともに変化する社会のニーズに応え、自らの価値を高めてきた過程でもあると言えるだろう。
伝統芸能の舞台と相撲の殿堂
日本の伝統芸能やスポーツにおいて、専用の常設施設を持つことは、その文化が社会に深く根差し、一定の地位を確立した証と見なせる。大相撲の「国技館」は、この点で歌舞伎座や国立劇場、あるいは能楽堂といった他の伝統芸能の専用劇場と比較できるだろう。
歌舞伎は江戸時代から庶民の娯楽として親しまれ、芝居小屋で興行されてきた。明治座や歌舞伎座のように、その時代ごとに大規模な専用劇場が建設され、今日に至るまで歌舞伎の殿堂として機能している。これらの劇場も、火災や震災、戦災といった苦難を乗り越えながら再建を重ねてきた歴史を持つ点は、国技館の歩みと共通する。また、落語や講談などの大衆芸能には国立演芸場が、能・狂言には国立能楽堂が、文楽には国立文楽劇場がそれぞれ存在し、各々の芸能を専門的に上演・継承する役割を担っている。
これらの伝統芸能の劇場と相撲の国技館を比較すると、共通して見えてくるのは「興行の安定」「文化の権威化」「観客への快適性提供」という三つの要素である。屋外での興行が主流だった時代を経て、天候に左右されず、年中安定した興行を可能にする屋内施設は、どのジャンルにとっても発展の基盤となった。また、専用の施設を持つことは、その芸能やスポーツが単なる娯楽ではなく、日本文化の重要な一部であることを示す象徴的な意味を持つ。そして、観客がより集中して鑑賞できるような快適な空間を提供することは、文化を次世代に繋ぐための基盤となる。
一方で、国技館が持つ特異性も存在する。それは、相撲が「神事」としての側面を強く残している点だ。土俵は神聖な場所とされ、その中央には吊り屋根が設けられ、神明造りの屋根がその伝統を今に伝えている。 これは、純粋な舞台芸術の劇場とは異なる、相撲独自の「聖なる空間」としての性格を国技館が色濃く帯びていることを示している。また、国技館の建設に際しては、戦後の混乱期に日本相撲協会が自力で資金を調達し、無借金で竣工させたというエピソードも残されており、その設立には単なる興行施設建設以上の、相撲界全体の強い意志と情熱が込められていたことが窺える。
このように、他の伝統芸能の興行施設と比較することで、国技館が持つ普遍的な機能と、相撲という競技が持つ特殊な背景とが、複合的に絡み合って形成された唯一無二の存在であることが浮き彫りになる。
現代の両国国技館と未来への備え
現在の両国国技館は、昭和60年(1985年)1月に開館して以来、大相撲の本場所の中心地として定着している。 年間6回開催される本場所のうち、1月(初場所)、5月(夏場所)、9月(秋場所)の3場所がここで開催され、約1万1千人の観客を収容する。
単に相撲の興行を行うだけでなく、国技館は多目的なアリーナとしての機能も担っている。プロレスやボクシングなどの格闘技イベント、コンサート、さらには「高専ロボコン」のようなイベント会場としても利用されている。 土俵が電動で地下に収納できる構造になっており、多様なイベントに対応できる柔軟性を持つ。
また、現代の国技館は、地域社会における重要な役割も果たしている。国技館は、関東大震災級の地震にも耐えうる耐震構造が採用されており、災害時には約3万人が3日間使用できる生活用品と非常食が備蓄された防災拠点となる。 さらに、屋根の雨水を地下の貯水槽に貯留し、国技館で使用する雑水の70%を賄う雨水利用システムも導入されており、震災時には非常用生活用水としても活用できるようになっている。 これは、かつて関東大震災の際に旧両国国技館の井戸水が多くの被災者を救った歴史を踏まえたものだと言える。
しかし、その一方で、近代的な設備と引き換えに失われたものもあると指摘する声も存在する。かつての蔵前国技館では、観客が支度部屋の様子を窓越しに見たり、力士と通路で直接触れ合ったりできるような、独特の「ぬくもり」があったという。 現在の両国国技館では、保安上の理由から観客と力士の動線が分離されており、オールドファンの中には、ハイテク化された今の国技館よりも、蔵前時代の雰囲気を懐かしむ者もいるようだ。
空間が育む文化の記憶
大相撲が両国国技館を定場所とするまでの経緯を辿ると、単なる興行施設の変遷以上のものが浮かび上がる。それは、相撲という文化が、その時代ごとの社会の要請に応え、自らの形を変えながら生き残ってきた証である。
江戸時代の勧進相撲が寺社の境内という「仮設」の空間で行われ、天候に左右される不安定さを抱えていた時代から、明治期に初代国技館という「常設」の殿堂を得て、「国技」としての地位を確立するに至った過程は、日本の近代化の流れと重なる。そして、戦災と接収、移転を経て、再び両国の地に帰還した現在の国技館は、過去の記憶を内包しつつ、現代的な機能と防災拠点としての役割をも担っている。
この変遷の中で、国技館という「空間」は、単なる物理的な場所以上の意味を持つようになった。それは、相撲という競技が持つ神聖性と大衆娯楽性、伝統と革新、そして災害への備えといった、多様な要素が凝縮された場所である。オールドファンが蔵前国技館の「ぬくもり」を懐かしむのは、単に建物の古さを惜しむのではなく、その空間で育まれた力士と観客の間にあった独特の距離感や、時代ごとの相撲文化の記憶を惜しむからかもしれない。
両国国技館の歴史は、相撲がその時代の人々とどのように向き合い、その姿を変えてきたかを示す鏡のようなものだ。土俵が地下に収納され、コンサート会場にもなる現代の国技館は、一見すると伝統とはかけ離れた存在に見えるかもしれない。しかし、その根底には、不安定な仮設の土俵から脱却し、相撲を永続的な文化として守り、発展させようとした人々の強い意志が脈々と受け継がれているのである。現在の両国国技館に足を踏み入れるとき、私たちは、何世代にもわたる相撲人やファンが築き上げてきた、この「空間」に込められた歴史の重みを静かに感じ取ることができるだろう。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 「勧進大相撲」の誕生 | 大相撲スペシャル | 「江戸・東京デジタルミュージアム」古きをたずねて、新しきを知る。library.metro.tokyo.lg.jp
- 国技館で開催される大相撲 | 全国観光資源台帳(公財)日本交通公社tabi.jtb.or.jp
- 勧進相撲 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 江戸っ子の娯楽・相撲 | NDLイメージバンク | 電子展示会ndl.go.jp
- metro.tokyo.jpkotsu.metro.tokyo.jp
- 大相撲の聖地を知り、その歴史を紐解いてみよう。|【SPAIA】スパイアspaia.jp
- 本場所 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 第26回 国技館―伝統と技術が融合した相撲の殿堂|鹿島の軌跡|鹿島建設株式会社kajima.co.jp
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