轆轤を使わず手捏ねを守り続けた京都で、楽焼はどのようにして四百年間にわたり受け継がれてきたのか?

長次郎が指先で作ったかたち
京都の町を歩いていると、何百年という時間を経てきたものが、まるで現在の生活の延長線にあるかのように自然な佇まいで姿を現す。歴史の重みが日常の風景に溶け込んでいるこの街では、過去が遠い彼方の出来事ではなく、今なお息づく現実として感じられる。やきものの世界でも、京都は数々の名工を生み出し、日本の工芸史をリードしてきた土地として広く知られている。だが、千利休の侘茶の意向を深く汲みとり、たった一椀の中に独自の広大な宇宙を表現したとされる楽焼の歴史をたどると、全国にあるほかのどの産地とも少し違った、独特の鋭い輪郭が見えてくる。一般的な陶磁器の制作において当然のように用いられる轆轤(ろくろ)を一切使わず、人間の手とヘラだけで一つひとつ丁寧にかたち作る「手捏ね」という手法は、現代社会における効率性や大量生産という価値観を真っ向から拒絶しているようにも映る。なぜこの極めてプリミティブで非効率な技法は、ほかのどの場所でもなく京都の地で生まれ、そして時代の荒波を越えて代々しっかりと受け継がれてきたのだろうか。その問いを解きほぐしていくことは、このやきものが歩んできた長い時間の意味を確かめることでもある。
聚楽第の土と利休の茶会から
安土桃山時代の16世紀後半、文化の気運が最も高まっていた京都において、初代・長次郎が創始したとされるのが楽焼の歴史の始まりである。古文書などの記録によれば、長次郎の父とされる阿米也という人物が中国から三彩陶の技法を伝えたと伝えられており、その技術的背景は当時の京都が持っていた新しい気風や大陸文化への憧れと深く重なっていた。やがて千利休との運命的な出会いを経て、長次郎は天正年間頃から茶碗の制作に本格的に取り組むことになった。当初はその作風や焼きものは「いまやき」や、豊臣秀吉の築いた「聚楽第」の付近から採れる独特の黄土を用いたことから「聚楽焼」などと呼ばれ、時の権力者や最先端の美意識を持つ茶人たちの交点に位置していた。この時期、各地の窯が登窯による生産性の高い大量生産へと向かい、より多くの製品を効率よく市場に供給する道を選ぶなかで、楽家は一子相伝の血脈と限られた工房の枠組みを頑なに守り通し、あえて生産性を追わない道を選択した。この選択こそが、楽焼の運命を決定づけた最初の大きな転換点であったといえる。
二つの色に込められた静と動の構造
楽焼の代名詞ともいえるのが、赤楽と黒楽という対照的な二つの表現である。赤楽は、聚楽土などを用いた素地に透明に近い釉薬をかけ、およそ900度から1000度前後の比較的低い火度でじっくりと焼き上げられる。そこには柔らかい土の質感がそのまま残り、穏やかな温もりを感じさせる。一方の黒楽は、鴨川の石を砕いた黒い釉薬を十数回もの多回数にわたって重ね掛けし、1000度以上の高温で焼成したのち、まだ赤熱した状態のまま窯から勢いよく引き出して急冷するという、極めて劇的で独特の手法をとる。この「引き出し黒」の技法は、美濃の瀬戸黒などとも共通する部分を持つが、楽家のそれはろくろを用いた均質な成形を行わないため、手のひらの微妙な起伏や指の跡がそのまま器の表面に生々しく留まることになる。焼成の効率や歩留まりを完全に度外視し、一回の焼成でわずか一椀しか得られないような黒楽の制作工程は、物理的な制約や偶然性をそのまま精神的な深い静けさに転換する仕組みとして機能していた。静的な赤と、動的な焼成を経て生まれた黒。その二つの極致が、一つの窯の中から生み出されてきたのである。
加賀の大樋から各地へ波及した様式
この京都という特別な土地で生まれた手捏ねの様式は、時代を下るにつれてやがて他の地域へと広がっていくことになった。江戸時代初期のころ、四代・一入の高弟子であった長左衛門が裏千家の仙叟宗室に供なって加賀へと下り、大樋村で新しく開窯したのが大樋焼の始まりである。加賀藩の御用窯として手厚い庇護を受けた大樋焼は、京都の楽焼が持つ技術的なベースをしっかりと受け継ぎながらも、のちに独自の飴色の作風を確立し、金沢という土地の気候や文化に深く根付いていった。また、京都の周辺地域においても江戸後期以降、玉水焼や、祇園の茶屋から始まった和楽窯、あるいは明治期以降に生まれた昭楽窯や長楽窯など、楽焼の様式や精神を取り入れた窯がいくつか誕生した。しかし、それらの窯の多くがそれぞれの地域ごとの環境や、別の時代の需要を柔軟に取り入れて独自の変容を遂げていったのに対し、本家である樂家は一貫して京都の洛中で代々、一子相伝の血脈と厳格な制作の規範をかたくなに守り続けたのであった。本家としての軸足が京都にあったからこそ、周辺への波及とその独自性が保たれたのである。
油小路の町並みに息づく四百年の蓄積
現在の京都市上京区、油小路通一条下るの一帯には、今もなお樂焼の窯元と、その歴史と作品を広く伝える樂美術館が静かに佇んでいる。1978年に十四代・覚入によって設立されたこの美術館には、初代長次郎から当代に至るまでの歴代の貴重な作品群や、茶道工芸に関する古い古文書がおよそ1200点にのぼる規模で大切に収蔵されている。特筆すべき重要な点は、これらが単なる過去の時代の骨董品としてガラスケースの中に遠く隔てられて並べられているのではなく、いま現在も樂家の人々が日々の作陶において実際の手本とし、次代への確かな糧として残してきた生きた資料の群れであるということである。一歩外に出れば、京都の町を歩く観光客の喧騒が通り過ぎていくが、そのすぐ裏手の静謐な空間では、450年前と何一つ変わらない手捏ねの技法と、低火度焼成の窯の火が、現代の都市の営みと静かに同居し続けている。この場所の存在自体が、京都という都市の持つ時間の層の厚さを雄弁に物語っている。
技法が守り続けたもののかたち
全国各地の優れた陶磁器産地が、良質な陶土の産出や広大な森林資源といった豊かな自然環境、あるいは藩による強力な産業政策といった外部の条件をバネにして発展してきたのとは対照的に、京都の楽焼はそうした物質的な大量生産の論理とは全く異なる軌跡をたどってきた。ろくろを一切使わず、自分の手のひらの感覚とわずかな道具だけに頼って土を立ち上げ、窯から引き出された瞬間の高熱と空気の温度をそのまま器の肌に定着させる手法は、生産効率という現代的な観点からは最も遠いところにあるものといってよい。だが、その非効率極まりない一品制作の仕組みこそが、激しい権力の興亡や時代の変化のなかでも、特定の様式を純度の高いまま今日まで保ち続けるための強力な装置として機能したのである。京都が楽焼きの本場と呼ばれる理由は、単に最初の工房がこの地に置かれたという歴史の古さだけにあるのではない。むしろ、都市の中心という喧騒の中にありながら時代の波に呑み込まれず、一椀の器と真摯に向き合う手ずからの営みを四百年以上にわたって一日たりとも途切れさせなかった、その持続の構造そのものにあるといえるのである。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 樂焼 RAKU WARE|歴史raku-yaki.or.jp
- 樂美術館|そうだ 京都、行こう。souda-kyoto.jp
- 樂美術館 | 京都で遊ぼうART ~京都地域の美術館、展覧会、アート系情報ポータルサイト~kyotodeasobo.com
- 楽焼 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 開館九周年記念テーマ「楽家と永楽家 -相伝の芸術-」 | 史料館 過去の展覧会 | 清荒神清澄寺kiyoshikojin.or.jp
- 楽焼(樂焼:京都市上京区)touroji.com
- 樂美術館 | スポット一覧 | 京都府観光連盟公式サイトkyoto-kankou.or.jp
- 樂美術館|Tokyo Art Beattokyoartbeat.com