2026/5/28
移転を繰り返した吉原宿、左富士の景観は自然との対峙の証

沼津の吉原について知りたい。宿場町の歴史。
キュリオす
東海道の宿場町・吉原宿は、高潮被害により三度移転した。移転に伴い東海道の経路も変わり、富士山が左手に見える「左富士」の景観が生まれた。宿場町は製紙業の礎を築き、隣接する沼津は水産加工業で栄えた。
東海道五十三次の江戸から数えて十四番目の宿場であった吉原宿は、現在の静岡県富士市に位置する。この宿場は、その歴史の中で幾度も場所を変えてきたという特異な経緯を持つ。 最初の吉原宿は、慶長6年(1601年)に開かれたとされるが、現在のJR吉原駅付近、すなわち元吉原地区に存在した。 しかし、駿河湾に面したこの地は、高潮や津波の被害をたびたび受けた。特に寛永16年(1639年)の大津波は壊滅的な被害をもたらし、宿場は内陸部の現在の富士市依田原付近へと移転を余儀なくされた。これを「中吉原宿」と呼ぶ。 だが、この中吉原宿も安堵の地とはならなかった。延宝8年(1680年)閏8月6日の高潮で再び壊滅的な被害を受け、宿場は再度移転することになる。 そして天和元年(1681年)から翌天和2年(1682年)にかけて、現在の吉原本町、すなわち「新吉原宿」の地に移り、これが江戸時代を通じて定着した吉原宿の姿となったのだ。 この三度にわたる移転の歴史は、海沿いの宿場町が直面した自然の厳しさを物語っている。
吉原宿の場所が内陸へと移ったことで、東海道の経路も大きく変わった。江戸から京へ向かう旅人は、原宿から吉原宿へ向かう途中で、それまで右手に見えていた富士山が左手に見えるようになる。 この珍しい景観は「左富士」と呼ばれ、歌川広重の浮世絵にも描かれるほど、東海道の名所として知られるようになった。 吉原宿は単なる休憩地ではなく、陸上交通と水運の拠点でもあった。 富士宮を経由して山梨県へ魚や塩などを運ぶ街道や、十里木を通り足柄峠や籠坂峠を越える街道の出発点にもなっていた。また、和田川を利用して富士山麓で採れる炭などを吉原河岸から小舟に積み込み、清水湊や沼津湊へ送る水上交通の要衝でもあったという。 このため、宿場は本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠60軒を数え、人口も2800人を超えていたとされる。 富士山の玄関口として、富士参詣の中継地としての役割も担っていたのだ。
東海道の宿場町は、それぞれが異なる地理的条件や歴史的背景を持ち、独自の産業を育んできた。吉原宿の場合、豊富な水資源に恵まれたことから、江戸時代中期からはミツマタの皮を原料とした紙漉きが盛んになり、「駿河半紙」として江戸へも出荷されたという。 現在の富士市が製紙業の町として知られる礎は、この時代にすでに築かれていたのだ。 一方、隣接する沼津市に目を向ければ、そこには海がもたらす豊かな恵みがあった。沼津は古くから水産加工業が盛んで、奈良時代にはすでに鰹(かつお)が「堅魚(かつお)」として都への貢進物として納められていた記録が残る。 江戸時代には薪を燃やして魚を焙乾する現在の鰹節に近い製法が確立され、沼津は鰹節の産地として安藤広重の浮世絵にも描かれている。 昭和期には鯖節の生産量で日本一となるなど、その水産加工の歴史は吉原の製紙業とは異なる軸で発展してきた。 吉原宿が陸路と水路の結節点として機能する一方で、沼津は駿河湾の恵みを直接加工し、流通させる港町としての性格を強めていたと言えるだろう。それぞれの宿場が、その土地の資源を最大限に活かし、異なる形で東海道の経済圏を支えていたのである。
現代の吉原宿は、岳南鉄道の吉原本町駅を中心とした商店街へと姿を変えている。 しかし、その通りを歩けば、かつての宿場町の面影をたどることができる。天和2年(1682年)創業と伝わる「鯛屋旅館」は、清水次郎長や山岡鉄舟も常宿としたと言われ、現在もビジネスホテルとして営業を続けている。 その館内には、山岡鉄舟直筆の札など、当時の宿場の賑わいを偲ばせる品々が展示されているという。 また、宿場に関する史跡は多くが失われたものの、東木戸跡や脇本陣跡の碑が点在し、歴史の痕跡を伝えている。 富士市が運営する「吉原小宿」は、かつての宿場情報を現代に伝えるまち案内所として機能し、旅人に吉原宿の歴史と魅力を発信している。 広重の浮世絵にも描かれた「左富士」の景勝地には、今も「左富士神社」が建ち、地元住民の信仰を集めている。 かつて旅人が行き交った道は、今も地域の人々の暮らしの中に息づいているのだ。
吉原宿の歴史は、高潮という自然の脅威に直面し、三度も宿場の場所を移転するという、東海道の宿場町の中でも稀有な経験を重ねてきた。この絶え間ない変化は、単なる災害の記録に留まらない。そこには、困難な状況下でも街道の機能を維持し、人々の往来を支えようとした幕府や地域住民の意志が読み取れる。 「沼津の吉原」という言葉から、私たちは地理的な近さや、あるいは地域全体に共通する食文化(例えば鰹節のような)を連想するかもしれない。しかし、吉原宿の物語は、その場所固有の制約と、それに対する具体的な対応が、いかにその地の歴史と文化の形成に影響を与えてきたかを静かに示している。移転を重ね、街道の風景すら変えることで成立した「左富士」は、自然との対峙の末に生まれた、この宿場町ならではの象徴と言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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