2026年5月20日
平安貴族の娯楽から観光へ、嵐山の鵜飼の千年の歴史
京都・嵐山で夏の風物詩として親しまれる鵜飼。平安時代に貴族の娯楽として始まり、一度途絶えた後、昭和に観光行事として復活しました。篝火と鵜匠の技が織りなす漁の様子と、その継承の課題について辿ります。
渡月橋のたもとに揺れる篝火
京都、嵐山の渡月橋を渡り、大堰川(おおいがわ)の上流へと視線を向ける。夏の宵、あたりが闇に包まれる頃、川面にゆらめく赤い光が見えてくるだろう。それは、古くからこの地で行われてきた「鵜飼」の篝火だ。鵜匠が巧みに鵜を操り、魚を捕らえるその光景は、観光客にとっては夏の風物詩として親しまれている。しかし、単なる見世物として片付けるには、この地の鵜飼が持つ歴史と、そこに至るまでの経緯はあまりに深く、そして複雑なのだ。なぜ、この景勝の地で、千年以上もの間、鵜飼という漁法が受け継がれてきたのか。その問いは、嵐山の水辺に立つ人々の暮らしと、京都という都市が育んできた文化の層を、静かに問い直すことにつながる。
平安貴族の遊びから、途絶と再興まで
嵐山の大堰川における鵜飼の歴史は、平安時代にまで遡る。在原業平が詠んだ「大堰川うかべる舟のかがり火にをぐらの山も名のみなりけり」という歌は、当時すでにこの地で鵜飼が行われ、その篝火が夜の山を照らしていたことを示している。清和天皇(849年〜880年)の時代には、宮廷鵜飼として行われていたという記録も残る。平安貴族たちは、大堰川での船遊びを好み、鵜飼はその優雅な夏の夜の娯楽の一つであったようだ。捕れた魚は、朝廷への献上品としても珍重されたという。
しかし、時代が下り、明治維新を経て大名や幕府の後援を失うと、鵜飼は生計を維持するための漁法としては効率が悪く、多くの地域で衰退していった。嵐山も例外ではなく、江戸時代には一度途絶えてしまう。
嵐山の鵜飼が再興されるのは、昭和25年(1950年)のことだ。嵐山保勝会が岐阜の長良川から鵜匠を招き、観光行事として復活させたのが始まりとされている。この再興は、単に古き良き伝統を復活させるだけでなく、観光資源としての価値を見出し、現代へと繋ぐための転換点となった。
篝火と鵜匠の技が織りなす漁
嵐山の鵜飼は、鵜匠が「風折烏帽子(かざおれえぼし)」に「腰みの」という古式ゆかしい装束をまとい、数羽のウミウを操ってアユなどの川魚を捕獲する伝統的な漁法である。 日本の鵜飼で使われる鵜は、主に体が大きく、多くの魚を捕らえることができるウミウだ。これらのウミウは、茨城県の鵜の岬で捕獲され、訓練された後に全国の鵜飼場へと供給される。これは、昭和22年(1947年)にウミウが一般保護鳥に指定されたため、鵜の岬が唯一の捕獲場となっていることによる。
