2026年5月19日
対馬の北側砲台跡はいつできたもの?日露戦争から現代まで続く要塞の歴史
対馬は古くから海上交通の要衝であり、近代にはロシアの南下政策により要塞化が進んだ。日露戦争では日本海海戦の舞台となり、その後も豊砲台に世界最大級の40センチカノン砲が配備されるなど、対馬海峡の制海権確保を目指した防衛拠点となった。現在も多くの砲台跡が残り、その歴史的価値が再評価されている。
国境の波間に築かれた防備
対馬は古くから、日本列島と朝鮮半島、さらには大陸を結ぶ海上交通の要衝であった。7世紀の白村江の戦いや13世紀の元寇、16世紀の文禄・慶長の役など、幾度となく歴史的攻防の舞台となってきたのは、その地理的な位置が故である。しかし、近代における対馬の軍事的重要性は、19世紀半ば以降、列強による東アジアへの進出と日本の近代化の中で明確になっていった。
決定的な転換点の一つは、幕末の文久元年(1861年)に起きた「ポサドニック号事件」だろう。ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬中央部の浅茅湾に侵入し、半年間にわたり芋崎(いもざき)を不法占拠した出来事である。ロシアの南下政策と不凍港獲得への執着が露呈したこの事件は、対馬が国際情勢の最前線に位置することを日本に認識させた。
明治時代に入ると、日清戦争を経て、ロシアとの対立が深まる中で対馬の要塞化は急速に進められる。明治20年(1887年)に対馬要塞の建設が着工され、東京湾要塞に次いで日本で2番目に整備された要塞となった。初期の砲台は、海軍の拠点である竹敷要港部を防衛するため、主に浅茅湾周辺に集中して設置された。そして明治38年(1905年)、日露戦争における「日本海海戦」(対馬海戦)では、東郷平八郎率いる連合艦隊が、対馬沖でロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、日本の勝利を決定づけた。この海戦は、対馬の戦略的価値を世界に知らしめることになった。
さらに、第一次世界大戦後のワシントン海軍軍縮条約(1922年)を受けて、日本は多くの戦艦を廃艦としたが、その主砲の一部は要塞砲として転用されることになる。対馬北端に築かれた「豊砲台」には、巡洋戦艦「赤城」の主砲(諸説あり「長門」や「土佐」の主砲とも言われる)が移設され、当時世界最大級の40センチカノン砲が配備された。これは、港湾防衛から対馬海峡全体の制海権確保へと、要塞の役割が拡大したことを示している。
海峡を睨む要塞群の機能
対馬にこれほど大規模な要塞群が築かれた背景には、その地理的条件と当時の地政学的状況が複雑に絡み合っていた。対馬は日本海と東シナ海を結ぶ対馬海峡(朝鮮海峡)の中央に位置し、その海峡は軍事上「チョークポイント」(重要航路の収束点)として認識されていた。この海峡を封鎖あるいは監視することで、敵対勢力の艦船の往来を阻むことが可能だったのだ。特に、ロシアの不凍港を求める南下政策は、日本にとって直接的な脅威であり、対馬を要塞化する喫緊の理由となった。
