2026/5/29
田中城と東海道藤枝宿、城下町と街道が織りなす歴史

藤枝の歴史ついて詳しく教えて欲しい。東海道の宿場町シリーズ。
キュリオす
藤枝宿は田中城の城下町として、また東海道の宿場町として発展した。物資の集散地としての機能や、名物「染飯」など、他の宿場町とは異なる独自の歴史を持つ。鉄道開通による影響や、現代に受け継がれる試みについても触れる。
藤枝宿は、江戸日本橋から数えて22番目の宿場町として栄えた。現在の静岡県藤枝市本町から大手にかけての一帯にあたる。この地が宿場町として発展した背景には、徳川家康が鷹狩りの際に度々訪れた田中城の存在が大きく関わっている。田中城は、本丸を中心に同心円状に複数の曲輪と堀が配置された「円郭式城郭」という全国的にも珍しい縄張りを持つ城であった。城下町としての性格を併せ持っていた藤枝宿は、単なる旅人の休憩地以上の役割を担うことになる。
中世にはすでに交通の要衝として認識されており、「藤枝」の名が旅行記などに登場し始めるのもこの頃からである。戦国時代には今川氏、武田氏、徳川氏がこの地を巡って争奪戦を繰り広げた。特に徳川家康は、武田方の重要な軍事拠点であった田中城を、天正2年(1574年)から7年半にわたり攻め続け、天正10年(1582年)についに徳川の城とした。家康は30代の壮年期にこの地で激しい戦いを経験し、天下人としての資質を養ったとされている。
江戸時代に入ると、徳川家康による東海道の整備が進み、藤枝宿は本格的な宿場町として機能し始める。天保14年(1844年)の「東海道宿村大概帳」によれば、藤枝宿は戸数1,061軒、本陣2軒、旅籠37軒、人口4,425人を数え、宿場の町並みは約980メートルに及んだ。 宿の東西の入口には木戸が設けられ、朝6時に開門し、夕方6時に閉門されるのが常であった。 この規模は、静岡県内の宿場町の中でも比較的大きい部類に入る。
藤枝宿の発展を支えたのは、その地理的な条件と、それに伴う多角的な機能であった。まず、田中城の城下町という性格が、宿場としての機能を補完し、独自の賑わいを生み出した。歴代の城主が江戸幕府の要職を務めることが多かった田中藩の城下町として、武士や藩関係者の往来も多く、宿場は単なる旅人だけでなく、武士を相手にした刀鍛冶などの店も軒を連ねていたという。
また、藤枝宿は交通の要衝でもあった。赤石山脈や志太平野、そして太平洋へと繋がるこの地には、山間部からお茶や椎茸、平野から米、そして海からは魚介類など、様々な物資が運び込まれた。塩の産地であった相良(さがら)に通じる田沼街道や、高根白山神社への参道である高根街道・瀬戸谷街道などが分岐しており、物資の集散地としても栄えたのである。
宿場の中心的な役割を担ったのは「問屋場(といやば)」であった。ここでは、宿場から次の宿場へ人や荷物をリレー方式で送り届ける「人馬継立(じんばつぎたて)」の業務が行われた。藤枝宿では当初1ヶ所だった問屋場が手狭になり、上伝馬町と下伝馬町の2ヶ所に増設された。これにより、京都から江戸への下りの荷物と、江戸から京都への上りの荷物をそれぞれ効率的に扱うことが可能となり、荷物の滞留時間の短縮が図られたという。歌川広重の「東海道五十三次 藤枝 人馬継立」には、問屋場の前で荷物を引き継ぐ人足たちの様子が活写されている。 旅籠や本陣といった宿泊施設も充実しており、大名や公家が泊まる本陣は上本陣・青島家と下本陣・村松家の2軒があった。 特に村松家は、現在の八百屋「本陣」のルーツであり、苗字帯刀を許されるなど武士に近い身分として扱われたことが記録に残る。
東海道五十三次の宿場町はそれぞれに特色を持っていたが、藤枝宿の特異性は、城下町と宿場町という二つの顔を高度に融合させていた点にある。例えば、隣接する岡部宿は宇津ノ谷峠の麓に位置し、規模は丸子宿と同程度で比較的小さな宿場であったが、江戸時代に建てられた「大旅籠柏屋」が現存するなど、宿場としての建築様式が色濃く残されている。 これに対し、藤枝宿は田中城という堅固な城郭を抱え、その周囲に町が広がったため、宿場としての機能だけでなく、軍事的・行政的な拠点としての性格が強かった。
また、東海道の宿場町の名物として、丸子宿の「とろろ汁」や日坂宿の「蕨餅」などが知られているが、藤枝宿の名物としては「瀬戸の染飯(そめいい)」があった。 これはクチナシの実で黄色く染めた強飯をすりつぶして薄く小判型にし、乾燥させたもので、保存性が良く、山越えの携行食として旅人に重宝されたという。 クチナシの薬効から、足腰の疲れに効くと評判だったとも伝えられている。 他の宿場が特定の食べ物で旅人を惹きつけたのに対し、染飯は実用性と薬効を兼ね備えた、より旅の厳しい現実に即した名物であったと言えるかもしれない。
明治時代に入り、東海道本線の建設が進むと、多くの宿場町が鉄道駅を中心に新たな発展を遂げた。しかし、藤枝宿の場合、当初の計画ルートが変更され、1889年(明治22年)に開業した藤枝駅は旧宿場町から約3キロメートル離れた位置に設けられた。 このため、宿場町としての機能は停滞を余儀なくされ、他の鉄道駅ができた宿場町とは異なる道を歩むことになった。俗説として住民が鉄道建設を拒んだという「鉄道忌避伝説」があるが、当時の記録からはむしろ積極的な誘致運動があったことが示されており、これは後世の誤解である。
現代の藤枝市を歩くと、旧東海道沿いには当時の宿場町の面影が随所に残されている。東木戸跡や本陣跡、問屋場跡といった主要な地点には、絵タイルや案内板が設置され、往時の様子を伝えている。 特に、日蓮上人お手植えと伝わる樹齢約770年の「久遠の松」がある大慶寺は、かつて藤枝宿の目印として多くの旅人を導いたという。 また、田中城の城主別荘が置かれていた「史跡田中城下屋敷」は、その庭園が復元され、城内にあった本丸櫓や茶室などが移築・復元されており、歴史的な建造物や資料を見ることができる。
藤枝宿周辺の文化財群は、2020年(令和2年)に文化庁の「日本遺産」ストーリー『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅~滑稽本と浮世絵が描く東海道旅のガイドブック(道中記)~』の構成文化財の一つに認定された。 これには、田中城・田中城本丸櫓、大慶寺の久遠の松、飽波神社大祭の奉納踊り、瀬戸の染飯、東海道松並木(上青島地区)などが含まれる。 この認定は、旧街道の歴史的価値を再認識し、現代に伝えるための重要な一歩である。
しかし、他の宿場町と比較すると、藤枝宿は建築物の様式などから宿場としての面影を一目で感じ取るのが難しいという意見もある。 それでも、地元商店街では空き店舗のシャッターに宿場町をイメージさせるペイントを施したり、名物「染飯」にちなんだ菓子を販売したりするなど、積極的に歴史を活用する試みが続けられている。 また、かつて鉄道が通らなかったことで、結果的に旧街道の景観が守られた側面もある。モータリゼーションの時代に入り、藤枝バイパスなどが整備されたことで、再び交通の要衝としての役割を担っているのが現代の藤枝市である。
藤枝宿の歴史をたどると、一つの場所に異なる機能が重なり合い、独自の文化が育まれてきた様子が見えてくる。田中城という軍事・行政拠点としての存在が宿場町の性格を深め、また地域の多様な物資が集まる交通の結節点としての役割が、単なる通過点ではない賑わいを生み出した。鉄道の時代には一時的に主要な流れから外れたものの、そのことで旧来の道筋が残り、再び現代において歴史的な価値として再評価されている。
藤枝宿は、旅人が休息し、物資が行き交い、そして時に権力の思惑が交錯する場であった。その歴史は、一枚岩ではなく、城下町としての堅牢さ、街道の活気、そして地域の産物が織りなす多層的な構造によって成り立っていた。現代にその面影を探す旅は、かつての人々の暮らしや、土地が持つ潜在的な力を読み解く作業でもあるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。