2026/5/28
熱海温泉の千数百年にわたる歴史、湯治場から憧れの地へ

熱海の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
熱海温泉は1700年以上前の海底噴湯から始まり、奈良時代、鎌倉時代を経て湯治場として発展。江戸時代には将軍御用達の「御汲湯」で名声を博し、明治以降は鉄道開通と別荘文化で憧れの地へ。戦後の隆盛と衰退を経て、近年は若者や個人観光客を惹きつけ、再生を遂げている。
熱海の街を歩くと、海へ向かってなだらかに、あるいは急峻に下る坂道の多さに気づく。そして、その坂道の途中、あるいは路地の奥から、不意に白い湯煙が立ち上る光景に出くわすことがある。これは、ただの自然現象ではなく、この土地が持つ歴史そのものが、今も息づいている証左だ。なぜ、この相模湾に面した斜面に、これほどまでに温泉文化が深く根差し、時代ごとに姿を変えながらも人々を惹きつけ続けてきたのか。その問いの答えは、熱海の千数百年にわたる歩みの中に隠されている。
熱海温泉の起源は古く、1700年以上前とも言われる。奈良時代にはすでに、海中から熱湯が激しく湧き出し、海水が熱湯となることで多くの魚介類が焼け死んでいた、という伝承が残されているのだ。この現象から、この地は「あつうみが崎」と呼ばれ、やがて「あたみ」と称されるようになったという。
『伊豆風土記』には、713年には「熱海」の記述があったとされ、海中の温泉によって魚が死んだのを哀れんだ箱根の万巻上人が、祈願によって泉脈を海中から山里へ移したという伝説が残る。この陸地に移された源泉が現在の大湯であり、その守り神として湯前権現(現在の湯前神社)が建立されたと伝えられている。
中世に入ると、熱海は湯治場としてその名が知られるようになる。鎌倉時代には、禅僧の義堂周信が湯治のために熱海を訪れた記録が残るなど、すでにこの地の温泉が利用されていたことがわかる。また、源頼朝が伊豆山権現(現在の伊豆山神社)を崇敬し、武運を願って参拝したという伝承も残り、頼朝ゆかりの地としても語り継がれてきた。この時代には「熱海船」と呼ばれる船が塩や酢などを運送していた記録もあり、温泉だけでなく海上交通の要衝としても機能していたことがうかがえる。
熱海の歴史において、江戸時代は温泉地としての地位を確立する重要な時期であった。特に初代将軍徳川家康は熱海の湯を深く愛し、関ヶ原の合戦前に熱海で湯治をし、その「温泉パワー」を得て天下統一を成し遂げたという伝承まである。家康は慶長2年(1602年)に熱海で湯治を行い、慶長9年(1604年)には二人の子どもを連れて7日間滞在した記録も残っている。さらに、京都で病気療養中の吉川広家を見舞うために、わざわざ熱海の湯を運ばせたという逸話は、家康がいかに熱海温泉を気に入っていたかを物語るものだろう。
この家康の熱海愛がきっかけとなり、江戸幕府は熱海の温泉を江戸城まで運ばせる「御汲湯(おくみゆ)」という制度を開始する。4代将軍家綱の時代に本格化し、特に8代将軍吉宗は享保11年(1726年)から享保19年(1734年)の間に、3640樽もの湯を江戸まで運ばせた記録が残る。熱海から江戸城まで、真新しい檜の湯樽に汲まれた約90度の源泉が運ばれる様子は、当時の熱海が「将軍御用達」の名湯として全国にその名を馳せたことを示している。
この「御汲湯」は、単なる将軍の贅沢に留まらず、江戸の庶民の間にも熱海の湯への関心を高めた。江戸の四日市川岸通りには熱海温泉出張所が設けられ、湯そのものが「宅配温泉」として販売されたという。「ゆっくり温泉に入りたいが出かける暇はない」という江戸っ子の人気を呼び、多くの料亭で年中無休で営業するほどであった。この時代、熱海は温泉紀行の本が最も多く刊行された温泉地の一つであり、有馬温泉と並び称される存在であった。加賀藩主や仙台藩主をはじめとする多くの大名も熱海に湯治に訪れ、見晴らしの良い豪華な本陣宿に滞在したことが記録されている。
明治時代に入ると、熱海は新たな時代を迎える。江戸時代まで「陸の孤島」とも称された熱海にとって、交通網の整備は発展の決定的な要因となった。明治33年(1900年)には小田原と熱海を結ぶ「豆相人車鉄道」が開業。これは人が客車を押すという原始的な鉄道であったが、それまでの駕籠での移動が6時間かかったのに対し、人車鉄道では約4時間に短縮された。さらに明治40年(1907年)には蒸気機関車が牽引する「熱海軽便鉄道」に切り替わり、約2時間40分で両区間を結ぶようになった。この鉄道の開通は、熱海が首都圏からのアクセスを格段に向上させる契機となったのだ。
鉄道交通網の整備に加え、近代的な温泉療養施設の設置も進んだ。1885年(明治18年)には、内務省衛生局長の長与専斎らが主体となり、大湯間歇泉の隣に日本初の温泉療養施設「噏滊館(きゅうきかん)」を設立。ドイツの気圧吸入器が設置され、医師も常勤するなど、当時の最先端医療施設であったという。
明治から大正にかけて、熱海は政府高官、軍人、財界人、そして多くの文人墨客が別荘を構える「憧れの旅行先」へと変貌を遂げる。皇太子(後の大正天皇)の静養のための「熱海御用邸」が建設されたことも、そのブランド力を高めた。岩崎別荘、住友別荘と並び「熱海の三大別荘」と称された根津別邸は、後に旅館「起雲閣」として生まれ変わり、日本を代表する文豪たちが訪れる常宿となった。尾崎紅葉の『金色夜叉』の舞台となり、坪内逍遥が別荘「双柿舎」を構えるなど、多くの文人たちが熱海で創作活動を行い、その名は文学作品を通じてさらに広まっていった。
大正12年(1923年)の関東大震災で熱海軽便鉄道は甚大な被害を受け廃止されたが、昭和9年(1934年)に丹那トンネルが開通し、東海道本線が熱海経由となることで、関西方面からの観光客も増大し、熱海はさらに活気に満ちた。
戦後の高度経済成長期、熱海は「新婚旅行のメッカ」「東洋のナポリ」と称され、年間宿泊者数が500万人を超える最盛期を迎える。団体旅行や企業の慰安旅行の定番となり、多くの旅館やホテルが立ち並んだ。しかし、バブル経済崩壊後の1991年以降、状況は一変する。企業保養所の閉鎖、企業の慰安旅行の激減、そして旅行形態が団体から個人へと変化したことで、熱海の観光客は急激に減少した。2006年には熱海市が「財政危機宣言」を発出し、2011年には宿泊者数がピーク時の半分以下の約246万人にまで落ち込んだ。「寂れた温泉街」の代名詞となり、街には空き店舗が目立つようになった時期もあった。
この衰退期を経て、熱海は近年「V字回復」と呼ばれる再生を見せている。その背景には、いくつかの要因が複合的に絡み合っている。一つは、東京から新幹線で約40分という抜群のアクセスを再評価し、近場で気軽に訪れられる観光地としての魅力を打ち出したことだ。また、従来の団体旅行ではなく、若者や個人観光客をターゲットとしたリブランディングが奏功した。おしゃれなカフェやゲストハウス、新感覚の温泉施設が増加し、SNSでの拡散力を活かして「映える」観光地として再評価されたのだ。
NPO法人atamistaや株式会社machimoriの代表を務める市来広一郎氏のような、地元出身の若者が中心となり、街の活性化に取り組んだことも大きい。空き店舗となっていた熱海銀座の商店街に自らカフェやゲストハウスを開業し、地元住民と観光客が交流できる場を創出。「熱海温泉玉手箱(オンたま)」のような体験プログラムを通じて、地元住民が熱海の魅力を再発見し、観光客と交流する機会を生み出した。こうした官民一体の観光戦略と、地域住民による主体的な取り組みが、熱海の再生を後押ししている。
熱海の歴史をたどると、その盛衰は温泉という地域固有の資源と、時代ごとの社会状況、そして交通網の発達という三つの要素が複雑に絡み合って形成されてきたことがわかる。古代から湧き続ける熱泉が地名の由来となり、江戸時代には将軍に愛され、明治以降は鉄道と別荘文化が結びつき、多くの人々の憧れの地となった。戦後の高度経済成長期には大衆的な観光地として栄え、一度は失速したものの、近年は新たな価値観と地域住民の創意工夫によって再び活気を取り戻しつつある。
他の温泉地と比較すると、熱海は「温泉」と「海」という二つの強力な観光資源を併せ持つ点が特徴的だ。伊豆半島の他の温泉地が、その泉質や山の景観を主軸とするのに対し、熱海は古くから海上交通の要衝でもあり、海を望むロケーションが常にその魅力の一部であった。また、東京からのアクセスの良さは、別府温泉が関西からの集客を軸に発展したように、熱海が首都圏の「奥座敷」としての地位を確立する上で決定的な役割を果たした。
熱海の歴史は、単なる観光地の栄枯盛衰ではない。それは、土地が持つ根本的な魅力と、それを取り巻く人々の営み、そして時代が求める価値観の変化が、いかに密接に結びついているかを示している。熱海を歩けば、歴史上の人物が愛した湯の脈動、文人たちが創作に耽った静かな別荘地、そして現代の若者が集う賑やかな商店街が、重層的に存在していることに気づかされる。この多層的な時間の堆積こそが、熱海という土地が持つ奥行きであり、訪れる者に静かに、しかし確かに語りかけてくるものだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。