2026年5月16日
ざびえる、やせうま、三笠野…大分の銘菓は歴史の証人
大分県には、南蛮文化、平安時代、城下町の歴史など、多様な背景を持つ銘菓が存在する。「ざびえる」はザビエル来航を、「やせうま」は平安貴族の食文化を、「三笠野」は岡藩の献上菓子を起源とする。これらの菓子は、異文化交流、郷土食、藩主の嗜好といった多層的な歴史を反映している。
南蛮の風と古の伝説が交錯する
大分の菓子文化の多様性は、その歴史的背景に深く根差している。まず挙げられるのは、南蛮文化の影響を色濃く受けた「ざびえる」だろう。1551年、フランシスコ・ザビエルが豊後国(現在の大分県)を訪れ、当時の戦国大名である大友宗麟の庇護のもと、キリスト教の布教活動を行った。この地で小学校や病院を建設するなど、ザビエルは府内の街(現在の大分市)に南蛮文化をもたらしたのである。その功績を称え、昭和32年(1957年)に誕生したのが、バター風味の洋風の皮で純和風の白餡を包んだ「南蛮菓ざびえる」だ。金と銀の二種類があり、金にはラム酒に漬けたレーズンが刻み込まれた餡が使われている。この和洋折衷の菓子は、宣教師たちが日本にお菓子に卵や砂糖を使う技術をもたらしたという、菓子の歴史における「革命的な出来事」を現代に伝えるものとも言えるだろう。
一方、大分にはさらに古い時代に由来する素朴な菓子も伝わる。「やせうま」はその代表格だ。平安時代に京から逃れてきた若君が、乳母の「八瀬(やせ)」に「うま(食べ物)」をねだって作ってもらっていたことが名の由来とされている。小麦粉を練ってのばしたものを茹で、きな粉をまぶして食べるこの菓子は、大分の家庭ではもちろん、学校給食にも登場するほど地域に根付いている。七夕やお盆のお供え物にも用いられ、西方浄土へ帰る先祖の霊がお供え物をまとめるための紐として使うという言い伝えもある。
さらに、竹田の城下町には、文化元年(1804年)創業の大分県で最も古い和菓子店「但馬屋老舗」がある。初代の但馬屋幸助が京都で修行を積み、岡藩主中川公に召されて御用菓子司として仕えた歴史を持つ。この店を代表する銘菓が、岡藩の献上菓子でもあった「三笠野」である。奈良の「三笠山」にちなんで藩主が命名したとされるこの菓子は、厳選された小豆を竹田の清らかな名水で炊いた自家製餡を香ばしい生地で包んだ半月型の和菓子だ。また、滝廉太郎ゆかりの地である竹田では、当初「夜越の月」と呼ばれていた菓子が、後に滝廉太郎の代表作「荒城の月」にちなんで改名されたという「荒城の月」も作られている。これは鮮やかな黄身餡をあわ雪で包んだ、歴史と文学が交差する銘菓である。
風土と技術が練り上げる甘味の形
大分の菓子が持つ多様な顔は、その土地の風土と、それに培われた製法に深く関係している。臼杵市に伝わる「臼杵煎餅」は、江戸時代に参勤交代の携行食として作られ始めたことが起源とされている。小麦粉を主原料とし、生姜と砂糖で作った蜜を一枚ずつ刷毛で手塗りして仕上げる伝統的な製法が特徴だ。かつて臼杵市で生姜が多く栽培されていたことが、この味付けに繋がったという。煎餅に描かれた模様は、臼杵の地名の由来とされる「臼」の木目を表している。この手塗りの工程は熟練の技を要し、約100℃の蜜を一瞬で塗り上げる繊細さが求められる。
また、大分が有数の柚子産地であることは、「雪月花」のような菓子にも見て取れる。古後老舗の「雪月花」は、創業者の古後精策氏が幕末に府内藩に仕えながら茶道をたしなみ、客人に柚練を振る舞ったことに由来するという。明治維新後、その柚練を元に商売を始めたのが古後老舗であり、創業以来150年余り、「甘露柚練」と「雪月花」の二つを作り続けている。基本となる甘露柚練は、柚子の中皮と砂糖のみを使い、添加物を一切加えず、秘伝の火加減で練り上げられる。これを裏ごしし、最中風の薄皮でサンドしたものが「雪月花」で、淡い白、青、紅の色味が雪、月、花に見立てられている。唐の詩人、白居易の詩の一節「雪月花のときに最も君を懐う」が出典とされるこの菓子は、お茶席にも好まれる上品な味わいだ。
さらに、大分の菓子には、素朴ながらも地域に根差した「豊後手焼煎餅」も存在する。ピーナッツの芳ばしさと、ほんのり甘い歯ごたえのある生地が特徴で、人情豊かな「手焼き」風の野趣的な形と風味が郷愁を誘う。これらの菓子は、その土地で手に入る素材を最大限に活かし、長い時間をかけて培われた技術と結びつくことで、大分固有の甘味として定着していったのである。
城下町の甘味、その多様な成り立ち
城下町と銘菓の結びつきは、大分に限ったことではない。例えば、島根県の松江市には、不昧公(松江藩主松平治郷)が茶の湯文化を大成させた影響で、茶の湯に合う上生菓子が数多く存在する。代表的なものに、寒天と大納言小豆を固めた「山川」などがある。また、石川県の金沢市も加賀百万石の城下町として栄え、茶道が盛んだったことから、きんつばや落雁といった洗練された和菓子が発展した。これらの城下町では、藩主の文化的な嗜好や、茶道の普及が菓子の発展に大きな影響を与えたと言えるだろう。
一方で、大分の菓子文化は、複数の異なるルーツを持つ点で特徴的だ。南蛮貿易の玄関口として栄えた豊後府内では、キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルがもたらした南蛮文化の影響が、「ざびえる」のような和洋折衷の菓子を生み出した。これは、長崎の「カステラ」や「南蛮菓子」にも通じる、海外からの文化流入が直接的に菓子の形に影響を与えた例と言える。対して、竹田の「三笠野」や「荒城の月」は、岡藩の御用菓子司が藩主のために調進した、より伝統的な和菓子の系譜に連なる。そして「やせうま」や「臼杵煎餅」は、貴族の食文化や参勤交代という実用的な必要性から生まれた郷土食としての側面が強い。
このように、大分の菓子は、藩主の文化的な庇護、異文化との接触、そして人々の日常的な食生活という、多岐にわたる要因が複雑に絡み合いながら形成されてきたのである。特定の文化が強く影響した他の城下町と比較すると、大分は、より多層的な歴史の堆積が菓子の多様性として現れていると言えるだろう。
現代に息づく甘い記憶
大分の銘菓は、単に過去の遺産として存在するだけでなく、現代の生活や観光の中にしっかりと根を下ろしている。例えば「ざびえる」は、2000年に製造元の経営破綻により一時姿を消したものの、地元住民や観光客からの強い要望を受け、元の従業員たちが「ざびえる本舗」を立ち上げ、2001年に製造・販売を再開したという経緯を持つ。この復活劇は、いかにこの菓子が大分県民に深く愛されてきたかを物語るものであり、現在では新工場の建設や県外への販路拡大も進められている。
臼杵煎餅を製造する後藤製菓も、伝統を守りつつ新たな試みに挑んでいる。堅くて食べにくいという声に応え、柔らかい食感の「うすきせんべい・生さんど」や洋風の「臼杵せんべいサブレ」などを開発した。また、2019年には創業100周年記念ブランド「IKUSU ATIO(イクス・アティオ)」を立ち上げ、サイズを小さくし、多様な味のバリエーションを展開している。これは、伝統的な製法を継承しつつも、現代の消費者の嗜好やライフスタイルに合わせて進化しようとする姿勢の表れだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
出典
- お取り寄せ連載企画おやつの時間「第84回 ざびえる本舗のざびえる」 | oriori - 和菓子情報メディアoriori-web.jp
- ざびえる(焼き菓子)oita.mytabi.net
- 大分土産の王道 南蛮菓子「ざびえる」|トキハオンラインショップtokiwa-portal.com
- 県民に深く愛され、復活を遂げた大分銘菓 | 株式会社ざびえる本舗 | 特集記事 | おおいた、食のたすき。shokunotasuki.jp
- ざびえるとは?大分土産の定番お菓子はなぜサビエルの名前?|株式会社オマツリジャパンomatsurijapan.com
- やせうま | 大分市ロケーションオフィスoita-location.net