2026/5/28
熱海と伊東の「間」にある網代、その漁師町と温泉の魅力

伊東と熱海の間の網代はどういう場所なのか?
キュリオす
熱海と伊東に挟まれた網代は、天然の良港として栄えた歴史を持つ。温泉と干物が名産で、庶民的な漁師町の風情が残る。近年は地域資源を活用した新たなまちづくりも進む。
伊豆半島の東海岸、熱海と伊東という二つの名だたる観光地の間を縫うように、網代の町は相模灘に面して広がっている。国道135号線を車で走れば、多くはただ通り過ぎてしまうかもしれない。しかし、一歩路地に入れば、潮の香りに混じってどこか懐かしい磯の匂いが漂い、軒先に干された魚の姿が目に飛び込んでくる。華やかな熱海や伊東とは一線を画す、その静かで庶民的な佇まいは、訪れる者に「ここは一体どんな場所なのだろう」という問いを投げかける。温泉地としての顔と、漁師町としての顔、そして歴史の中で培われた独自の文化は、この「間」の町にどのような輪郭を与えてきたのだろうか。
網代の歴史は、その地形が育んだ天然の良港としての役割に深く根ざしている。三方を陸地に囲まれ、外洋からの波浪や大風を避けることができる網代湾は、古くから「風待ちの港」として重宝されてきた。文献によれば、「保元物語」には源為朝を討つために網代港から軍船が出たと記され、また豊臣方の軍勢が漁船30艘で出陣したという伝承も残る。
決定的な転換期は江戸時代に訪れる。幕府が江戸に置かれると、網代湊は下田湊と共に、大阪から江戸への物資輸送を担う廻船の重要な寄港地として栄えたのだ。その繁栄ぶりは「京、大阪に江戸、網代」とまで謳われるほどであった。千石船のような大型帆船から小型の押送船までが頻繁に出入りし、港には船宿が軒を連ね、遊廓や料理屋も存在したという。廻船が順風を待つ間、乗組員や商人たちは網代に滞在し、地元の経済に活気をもたらした。濡れてしまった積荷の米が「濡米」として村で安く入札され、田畑の少ない網代の人々が食糧を得る機会になったという記録も残る。この時代、網代は漁業だけでなく、商業港としての機能も確立していたのである。
明治以降、汽船の普及と共に廻船の役割が終焉を迎えると、網代は再び漁業を基幹産業とする町へと回帰していく。そして昭和に入り、新たな転換点が訪れる。1938年(昭和13年)、実業家の武井覚太郎氏が私財を投じて温泉試掘に成功したことが、網代が温泉地として発展する契機となった。この温泉開発は、漁業の衰退期と重なり、町が観光業に活路を見出すきっかけとなったのだ。
網代を特徴づける要素は、温泉と海の幸、特に干物にある。網代温泉は、熱海市の南部に位置することから「南熱海温泉」とも称され、その泉質は塩化物泉や単純温泉が主である。源泉温度は27℃から68℃と幅があり、塩分濃度が高く、体を芯から温める効果があると言われている。多くの宿が豊富な湯量を活かした源泉掛け流しの湯を提供し、相模湾を一望できる露天風呂を持つ宿も少なくない。その歴史は熱海温泉に比べれば新しいものの、漁港の活気と結びついた庶民的な温泉地の雰囲気を醸し出している。
そして、網代の代名詞とも言えるのが「干物」である。国道135号線沿いには「ひもの銀座」と呼ばれる通りがあり、かつては40軒近く、現在でも多くの干物店が軒を連ねている。網代の干物は、特にアジの干物が有名で、「アジの姿造り」発祥の地とも言われる。網代で干物作りが盛んになった背景には、この地特有の気候条件がある。南から押し寄せる外洋の波を陸地が遮り、東からの大風も地形によって守られる天然の良港であると同時に、山からの乾いた西風が吹き抜けるため、天日干しに適した環境が整っているのだ。各家庭の軒先で干物を作る光景も珍しくなく、自分たちで食べるだけでなく、遠方の親戚に送る文化が今も残る。また、イカをミンチにして野菜と混ぜて揚げた「網代イカメンチ」も、漁師町の家庭の味として親しまれている。これらの干物や新鮮な海の幸は、網代の温泉宿の料理を彩り、観光客の大きな楽しみの一つとなっているのである。
網代は熱海と伊東という著名な温泉観光地に挟まれているが、その存在は単なる通過点ではない。むしろ、その「間」にあるがゆえに独自の性格を際立たせていると言える。熱海が大規模なイベントや多様なアトラクションで多くの観光客を呼び込む華やかなリゾート地であるのに対し、網代は「熱海の秘湯」とも呼ばれ、庶民的でどこか懐かしい漁師町の風情を色濃く残している。伊東もまた、広範囲にわたる温泉街と観光施設が特徴だが、網代にはそれらとは異なる、より落ち着いた、あるいは素朴な魅力がある。
この違いは、それぞれの町の発展の経緯にも起因する。熱海は古くから湯治場として知られ、明治以降も多くの文人墨客に愛され、大規模な開発が進められてきた歴史を持つ。一方、網代の温泉開発は1938年と比較的新しく、江戸時代からの廻船港、そして漁業の町という基盤の上に温泉が加わった形である。このため、網代は「温泉のある漁師町」という性格が強く、純粋な温泉街として発展した熱海とは異なる景観と文化を形成したのだ。
また、干物という名産品においても、網代には特異な点がある。全国各地に干物文化は存在するが、網代の「ひもの銀座」と、山から吹き下ろす乾いた風を利用した天日干しへのこだわりは、他の地域とは一線を画す。例えば沼津も干物で有名だが、網代は町の規模に対して干物店の密度が高く、それが日常の風景に溶け込んでいる点が特徴である。網代が提供するのは、有名観光地の喧騒から離れた、より地域に根ざした体験であり、それが隣接する熱海や伊東との決定的な差異となっている。
現在の網代を訪れると、その「間」にあるがゆえの静けさの中に、新たな動きが胎動していることが見て取れる。幹線道路沿いの「ひもの銀座」には今も活気があり、潮の香りと共に焼き立ての干物の匂いが漂う。多くの温泉宿が、相模湾の新鮮な海の幸と良質な温泉を提供し続けている。年間を通じて「網代温泉ひもの祭り」が開催され、脂の乗った干物を目当てに多くの観光客が訪れるなど、地域の特産品を核とした観光振興も続けられている。
一方で、熱海市全体がV字回復を遂げる中で、網代地区は人口減少や少子化といった課題に直面しているのも事実だ。国道135号線沿いでは、多くの車が網代を通過するばかりで、町に立ち寄る機会が少ないという指摘もある。こうした現状に対し、近年、地域資源を活用した「ローカルイノベーション」の動きが活発化している。例えば、廃校となった旧網代小学校を活用した地域交流拠点「AJIRO MUSUBI」が設けられ、食堂やコワーキングスペース、子どもの保育スペースなどが整備されている。また、地元の出身者や移住者たちが「AJIRO LIFE株式会社」を設立し、空き家を宿泊施設として再生する「分散型ホテル」の計画を進めるなど、地域の歴史や文化の文脈を活かしたまちづくりに取り組んでいる。かつては禁止されていた網代漁港北防波堤での釣りも、実証実験として限定的に解放されるなど、新たな魅力創出への試みが続いている。
網代の町を歩き、その歴史と現在に触れると、この場所が持つ独特の「ちょうど良さ」に気づかされる。それは、隣接する熱海や伊東のような華々しい観光地としての完成形ではなく、どこか未完成で、生活の匂いが色濃く残る漁師町としての姿である。温泉は豊富だが、観光客でごった返す喧騒はなく、漁港には朝早くから活気があり、町には干物の香りが日常的に漂っている。
この「ちょうど良さ」は、網代が歴史の中で選び取ってきた、あるいは自然に形成されてきた、特定のバランスの上に成り立っている。廻船港としての繁栄を経験し、漁業を基盤とし、遅れて温泉が加わったという経緯は、網代に「観光地でありながら生活の場」という多層的な性格を与えた。人々が求めるものが、単なる消費体験から、より本質的な地域との交流や、手触りのある文化へと移行する中で、網代が持つこの「ちょうど良さ」は、新たな価値として見直されつつある。かつて多くの船が風を待った港は、今、訪れる人々が日常の喧騒から一息つき、町の営みに静かに寄り添う場所となっているのかもしれない。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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