2026/5/23
今治タオルはいつから?綿栽培から始まった歴史と水の物語

今治はタオルが有名だ。いつからタオルを作っているのか?綿の栽培が活発だったのか?
キュリオす
今治のタオル産業は、江戸時代の綿栽培から始まり、明治期に綿ネル、そしてタオルへと転換した。蒼社川の良質な軟水と、先晒し先染め製法、そして佐藤可士和氏によるブランディングが、高品質な今治タオルを支えている。
今治と聞けば、「タオル」を連想する人は少なくないだろう。その名は国内に広く知られ、近年では海外での評価も高まっている。しかし、この地のタオルがいつから作られ始めたのか、また、その生産を支える綿の栽培が、かつては活発だったのか、といった問いには、漠然としたイメージしか持たないかもしれない。今治のタオル産業は、単に「良いもの」が作られてきた歴史だけでなく、この土地特有の風土と、幾度かの転換期における人々の選択によって形作られてきたのである。
今治地方における織物生産の歴史は古い。8世紀の終わり、平安時代には既に綿花の種子が持ち込まれ、西日本の温暖な地域で栽培が始まったとされる。特に今治では綿花栽培が盛んで、江戸時代に入ると「白木綿」の一大産地として栄えた。商人が原料の綿を農家の婦女子に提供し、織り上げた木綿を買い取る「綿替木綿」と呼ばれる問屋制が確立され、天保年間(1831年~1845年)には年間30万反もの白木綿が生産されたという記録もある。この時期の今治の綿製品は「伊予木綿」として大阪や京都でも名声を得ていた。
しかし、明治時代に入ると状況は一変する。安価で品質の良い輸入木綿や、大阪・兵庫などの先進地で紡績糸を使った製品が市場に流入し、伊予木綿は次第に衰退の道をたどったのだ。 この危機に直面した明治19年(1886年)、矢野七三郎が和歌山の「紀州ネル」の技術を学び、独自の「伊予綿ネル」を開発し、今治の繊維産業に新たな活路を開いた。綿ネルは綿織物を起毛させた厚手の生地で、片面起毛や先晒し先染めといった特徴を持っていた。
今治でタオルの生産が始まったのは、そのわずか数年後、明治27年(1894年)のことである。綿ネル業を営んでいた阿部平助が大阪で偶然目にしたタオルに将来性を見出し、自身の綿ネル織機を改造してタオルの製織を開始したのが、今治タオルの歴史の始まりとされている。 当時、日本国内のタオルは吸水性が悪く肌触りも粗いものが多かったが、阿部平助は英国製のタオル機械を導入するなどして、吸水性と肌触りの良いタオルの製造に成功したという。
今治が日本有数のタオル産地へと発展した背景には、この地域が持つ複数の要因が複雑に絡み合っている。
第一に、この地を流れる蒼社川(そうじゃがわ)の伏流水に代表される、良質な水資源の存在が挙げられる。 タオルの製造工程、特に糸を漂白したり染めたりする「晒し」や「染色」には大量の水が不可欠である。今治の水は硬度が低く、重金属や不純物の含有量が少ない軟水であり、これが綿本来の柔らかさを引き出し、鮮やかな発色を可能にする。 一般的なタオル製造では、織り上がった生地を晒し、染める「後晒し後染め」が主流だが、今治では織る前の糸の段階で晒し、染める「先晒し先染め」の製法が多く用いられてきた。 この製法は、糸に付着した余分な油分や不純物を事前に落とすことで、より柔らかく、吸水性の高いタオルに仕上げることを可能にする。
第二に、江戸時代から続く綿業の基盤と、それに伴う労働力の存在である。 今治は古くから綿花栽培が盛んで、白木綿の生産で培われた織物技術と、豊富な婦女子労働力がタオルの生産を支えた。 明治期に衰退した白木綿から綿ネルへの転換、そしてタオルへの移行は、既存の繊維産業の技術と労働力を活用する形で進んだ。
第三に、技術革新への意欲と、それを後押しするリーダーシップである。明治43年(1910年)には麓常三郎が「二挺筬バッタン」と呼ばれる手織り式のタオル織機を考案し、生産効率と品質を向上させた。 さらに、大正初期には中村忠左衛門が、それまで白が主流だったタオルに、糸を先に染めて縞模様を織り出す「先晒縞タオル」を開発した。 この「文化織」と呼ばれたデザインタオルは市場で大ヒットし、今治を日本三大タオル産地の一つへと押し上げる原動力となった。 大正11年(1922年)には愛媛県立工業講習所(後の染織試験場)が今治市に設立され、技術者の菅原利鑅がジャカード織機を応用して複雑な紋様を織り出す技術を確立したことも、今治タオルの高級化と差別化に貢献した。
日本のタオル産業を語る上で、今治と並び称されるのが大阪の泉州地域である。両者は日本のタオル生産の大部分を担う二大産地でありながら、その発展の道筋にはいくつかの特徴的な違いがある。
泉州地域は、今治よりも早く明治13年(1880年)頃にタオルの生産が始まったとされる。 大阪のメリヤス業者、井上コマが手織り機でパイル(輪奈)を織り出す手法を考案したのがその始まりであり、当初は「竹織」と呼ばれた。 泉州も江戸時代から綿花栽培と綿織物業が盛んな地であり、明治時代には堺に日本初の官営紡績工場が設立されるなど、繊維産業の基盤が強固であった。 泉州タオルは「後晒し」製法を特徴とし、織り上がったタオルを後から晒すことで、糊や不純物を洗い流し、吸水性を高める。 これは、タオル産業発祥の地としての歴史が長く、効率的な量産体制を追求する中で生まれた製法とも言えるだろう。
一方、今治は、前述のように明治27年(1894年)にタオルの生産を開始した「後発産地」であった。 しかし、今治は江戸時代から続く綿業の伝統と、蒼社川の良質な軟水という恵まれた自然条件を背景に、独自の「先晒し先染め」製法を確立していった。 この製法は、糸の段階で晒しと染色を行うため、綿本来の柔らかさや鮮やかな色合いを引き出すことに優れている。 また、中村忠左衛門による縞タオルの開発や、ジャカード織機の導入による紋織りタオルの生産など、デザイン性や高級感を追求する方向へと進んだ。 第一次世界大戦期には、今治はタオル生産量が10倍弱にまで急増し、輸出市場向け生産を基盤に急速に発展したとされる。
泉州が効率的な量産と実用性を重視した「後晒し」で市場を広げたのに対し、今治は水の恵みを活かした「先晒し」と、デザイン性や品質の高さで差別化を図っていったと見ることができる。両産地は異なるアプローチで日本のタオル産業を牽引し、それぞれの強みを生かして発展してきたのだ。
今治タオルは、高度経済成長期にはタオルケットなどのヒット商品にも恵まれ、1960年(昭和35年)には大阪泉州を抜いて生産量日本一のタオル産地となった。 しかし、1990年代以降、安価な海外製品の流入やバブル経済の崩壊による国内需要の減少により、今治のタオル産業は深刻な衰退期を迎える。 かつて500社以上あったメーカーは100社以下にまで減少し、生産量はピーク時の5分の1にまで落ち込んだ時期もあったという。
この危機的状況を打開するため、2006年(平成18年)に「今治タオルプロジェクト」が発足した。 中小企業庁の「JAPANブランド育成支援事業」の認定を受け、クリエイティブディレクターの佐藤可士和氏がブランディングを手掛けたのである。 佐藤氏が最初に注力したのは、今治タオルの品質を保証する「ロゴマーク」の策定であった。白、青、赤の3色を基調としたこのロゴマークは、白が「空に浮かぶ雲」と「タオルのやさしさ・清潔感」、青が「波光煌めく海」と「豊かな水」、赤が「昇りゆく太陽」と「産地の活力」を象徴している。 このロゴマークは単なるデザインではなく、独自の厳しい品質基準をクリアした製品にのみ付与される「品質保証の証」としての機能を担っている。
ブランディングプロジェクトの成果は大きく、当初40%程度だった今治タオルの認知度は、現在では約90%にまで高まっている。 「今治タオル=高品質タオル」というブランドイメージが確立され、お中元やお歳暮といった贈答品としても好まれるようになった。 高級ホテルやセレクトショップでの採用も増え、国内外でのブランド地位を確立している。
今治の町には、現在も多くのタオルメーカーが操業を続けており、それぞれが独自のこだわりと技術でタオルを生産している。 また、近年ではサステナビリティへの意識も高まり、使用済みタオルを回収して新たな糸へと再資源化する「L∞PLUS(ループラス)」のような取り組みも始まっている。
今治タオルが今日の地位を築いた経緯を振り返ると、特定の産業が特定の地域に根付く上で、土地の持つ自然条件が決定的な影響を与える一方で、それが必ずしも唯一の道ではないことを示唆している。今治の場合、江戸時代からの綿業の土壌、そして蒼社川の清冽な軟水という二つの要素が、タオルの生産に適した環境を提供したことは確かである。特に、晒しや染めに適した水質は、今治が「先晒し先染め」という独自の製法を確立し、製品の柔らかさや発色を追求する上で不可欠な条件であった。
しかし、同時期に日本のタオル産業を牽引した泉州地域は、今治とは異なる「後晒し」という製法で発展を遂げた。 これは、水質の条件が異なることや、より効率的な量産体制を志向した結果とも考えられる。つまり、同じ「タオル」という製品であっても、土地の条件や歴史的背景、そして技術者の選択によって、異なる製法が生まれ、それぞれが市場で評価されるに至ったのである。
今治タオルが現代において「ジャパンブランド」として再評価されたのは、単に品質の高さだけでなく、その品質を支える水の物語や、綿業からタオルへと転換してきた歴史の深さ、そして佐藤可士和氏によるブランディングという、多角的な価値が再構築された結果である。それは、土地の条件が与える制約の中で、いかに独自の道を切り開き、時代に合わせてその価値を伝え続けるかという、地域産業の普遍的な問いに対する一つの答えを提示していると言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
鹿児島・出水はなぜ武家屋敷と数万羽の鶴が集まるのか
新しい記事が今治の「水」の物語に触れているのに対し、こちらは鹿児島・出水に数万羽の鶴が集まる理由を解説しており、地域の自然と水の関係性に共通点があります。
北前船とは?北回り・南回りの航路と買い切り商法を解説
新しい記事が今治タオル産業の歴史を江戸時代から辿っているように、こちらは江戸時代から活躍した北前船の航路と商法を解説しており、時代背景と交易の視点で関連があります。
博多あまおうはなぜ苺の王様になれたのか?開発からブランド戦略まで
新しい記事が今治タオルを支えるブランディングに触れているのに対し、こちらは福岡の「あまおう」のブランド戦略を解説しており、地域産業のブランド構築という共通テーマがあります。