2026/5/23
今治城の海水濠、藤堂高虎が瀬戸内海を味方につけた理由

今治城が綺麗だった。堀には魚がいるという。歴史を詳しく知りたい。
キュリオす
今治城の濠に海の魚が生息するのは、築城主・藤堂高虎が瀬戸内海の海水を直接引き込んだため。関ヶ原後、四国を押さえる戦略的要衝として、高虎は自然条件を最大限に活かした革新的な平城を構想した。海水濠は防御と食料確保の二重の役割を果たした。
今治城の白亜の天守を仰ぎ見るとき、その均整の取れた姿に目を奪われる。瀬戸内海の青い空の下、石垣の曲線が映える光景は、訪れる者の記憶に強く残るものだろう。しかし、城を囲む濠に目をやると、一般的な城郭では見られない光景が広がる。水面には鯉ではなく、ボラやチヌといった海の魚が群れをなして泳いでいるのだ。この城の濠は、瀬戸内の海水を引き込んだ「海水濠」である。なぜこの地に、これほどまでに海と一体化した城が築かれたのか。その問いは、築城主である藤堂高虎の思惑と、激動の時代背景を水面に映し出すかのように、静かに問いかけてくる。
今治城の築城は、慶長9年(1604年)、築城の名手として知られる藤堂高虎によって開始された。関ヶ原の戦いの功績により伊予今治に20万石を与えられた高虎は、それまでの居城であった国府城(河野氏の旧居城)を廃し、新たにこの地に築城を決意する。当時、四国にはまだ豊臣恩顧の大名が多く、徳川家康にとって四国の押さえは喫緊の課題であった。高虎は家康の信頼厚い武将として、この戦略的要衝に、来るべき「天下普請」に先駆け、自らの技術と経験の粋を集めた城を築き上げたのだ。高虎は、それまでの山城や平山城とは一線を画す、広大な平地に築かれた「平城」の可能性を追求した。縄張りの基本は「渦巻き型」とされ、外濠、中濠、内濠が同心円状に配置され、さらに海水を引き込むという革新的な設計が採用された。これは、単なる居城としてだけでなく、瀬戸内海の制海権を視野に入れた、軍事拠点としての役割を強く意識したものであったと考えられる。
今治城の海水濠は、単に海水を引き入れただけではない。その背後には、高虎の緻密な計算と高度な土木技術が存在する。濠には瀬戸内海から直接海水が引き込まれ、潮の干満に合わせて水位が変動する仕組みが採用された。これは、濠の水を常に清潔に保つだけでなく、満潮時には水深が増し、干潮時には海底が露出することで、敵の侵入を防ぐという二重の防御効果を狙ったものであった。特に、濠の底を泥濘化させることで、敵兵が歩行困難になるよう工夫されていたという説もある。また、海水濠は、城に籠城した場合の食料源としても機能した。濠に生息する魚介類は、非常時の貴重な食料となる。さらに、城の周囲を海で囲むことで、陸路からの攻撃だけでなく、海路からの侵入に対しても強固な防御を築いた。高虎は、それまでに培った築城経験から、城の立地と自然条件を最大限に活用する術を熟知しており、今治の地勢を活かした海水濠は、その集大成とも言えるだろう。
日本全国の城郭において、濠は防御の要として様々な形で利用されてきた。多くは淡水を引き込んだもので、川や池、湧水を水源とし、城の周囲を巡らせていた。例えば、江戸城の内濠や外濠は、周辺の川や湧水を利用して広大な水域を形成し、その規模は当時としては群を抜いていた。また、彦根城の濠は琵琶湖の水を引いており、水運にも利用されたという側面を持つ。しかし、今治城のように、潮の干満を利用して直接海水を城の濠に引き込み、日常的に海の魚が生息する城は極めて珍しい。他には、香川県の高松城も海水濠を持つ城として知られるが、高松城は港に隣接し、直接船が入れる構造であったのに対し、今治城はより内陸に深く濠を巡らせ、純粋な防御機能と食料確保の側面が強調されている点で特徴的だ。海水濠を持つ城は、築城された地域の地理的条件に大きく左右される。今治や高松のように、瀬戸内海に面し、潮の干満差が比較的大きい場所に立地していたからこそ、この独特な防御機構が実現できたのである。淡水濠が内陸からの防御を主眼に置くのに対し、海水濠は海からの脅威と、時には海を通じた物資輸送をも視野に入れた、より多角的な戦略が背景にあったと言えよう。
明治維新後の廃城令により、今治城は天守をはじめとする多くの建物が取り壊された。現在見られる天守や櫓、門などは、昭和55年(1980年)以降に再建されたものである。しかし、城の骨格をなす広大な海水濠と石垣は、当時の姿をほぼとどめている。城址は今治市の中心部に位置し、市民の憩いの場として親しまれている。濠には今も海水が満ち、ボラやチヌ、スズキといった魚たちが悠々と泳ぐ姿が見られる。これは、単なる観光資源というだけでなく、城がかつて果たした役割、すなわち海と一体となった生活の記憶を現代に伝える貴重な存在だ。近年では、濠の清掃活動や生態系の調査なども行われ、この独特な環境の保全に努めている。再建された天守からは、瀬戸内海の多島美と、城下町として発展した今治の街並みが一望できる。濠の水面に映る現代の風景は、かつて高虎がこの地で構想した未来を、静かに物語っているようだ。
今治城の海水濠に群れる魚たちを眺めていると、単に堅固な防御を追求しただけでなく、自然の力を借り、それを巧みに利用しようとした築城者の意図が透けて見える。高虎は、目の前の土地が持つ条件、すなわち瀬戸内海の豊かな恵みと潮の干満という自然現象を、城という人工物にどのように組み込むかを考え抜いた。それは、自然を克服するのではなく、自然と対話し、その特性を引き出すことで、より強固で持続可能な構造を生み出そうとした姿勢だろう。現代において、多くの城郭がその歴史的価値を再評価され、復元や保存が進められているが、今治城の海水濠は、その中でも特に、土地固有の条件と人間の知恵が結びついた稀有な例と言える。濠の魚たちが、今日も変わらず潮の満ち引きと共に生きる姿は、歴史という大きな流れの中に、常に自然との対話があったことを静かに教えてくれる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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