なぜ青森は「青い糸」の麻から「白い花」のりんごへ転換したのか?

白い花と青い糸の記憶
五月の連休が過ぎる頃、弘前を筆頭とする津軽平野は、見渡す限りの白い花に覆われる。りんごの花だ。この風景を眺めて、ここがかつて「青い糸」の国であったことを想像するのは難しい。青森県といえば、誰もが即座にりんごを想起する。生産量は全国の約六割を占め、二位の長野県に大差をつける不動の地位にある。だが、明治の初めまで、この土地の経済を支えていた主役は果実ではなかった。
かつての青森、特に東側の南部地方を中心とした一帯は、日本有数の大麻(あさ)の産地だった。それもただの産地ではない。栃木県の鹿沼と並び、日本で最高級の品質を誇る「南部麻(なんぶあさ)」の拠点だったのである。当時の人々にとって、麻は神事の道具や漁網、そして何より自分たちの肌を包む衣服そのものだった。
しかし、現在の地図を眺めても、大麻栽培の痕跡を見つけるのは容易ではない。かつて広大に広がっていたはずの大麻畑は、いつの間にか、整然と並ぶりんごの樹々に置き換わっている。地元では「大麻からりんごへ転作した」という話が、一種の地域史の定説として語られることもある。だが、一つの植物が別の植物へ、あたかもスイッチを切り替えるように入れ替わることなど、農業の現場であり得るのだろうか。
そこには、単なる作物の植え替えという言葉では片付けられない、土地の必然と、ある階層の没落、そこで生き残りをかけた凄まじい執念が隠されている。なぜ、北国の厳しい風土の中で、人々はあれほどまでに麻に執着し、そしてそれを捨ててまで、当時は未知の果実であった西洋りんごに賭けたのか。その転換の足跡を辿ると、私たちが知る「りんご王国」の、もう一つの顔が見えてくる。
南部麻の隆盛と生活インフラ
江戸時代、青森における大麻栽培は、現在の想像を絶する規模で展開されていた。特に南部藩(盛岡藩)領内における大麻は、藩の財政を支える「三草(さんそう)」の一つに数えられ、米と並ぶ重要な輸出品であった。当時の記録によれば、現在の八戸市や十和田市、七戸町を含む上北郡一帯は、麻の栽培に最も適した土地とされていた。
南部麻がなぜこれほどまでに高く評価されたのか。その理由は、この土地特有の気候と土壌にある。大麻は水はけの良い土地を好むが、同時に成長期には適度な湿り気と、昼夜の寒暖差が必要とされる。十和田湖を抱える奥羽山脈から吹き下ろす冷涼な風と、火山灰土が堆積した上北の台地は、麻の繊維を細く、しなやかに育てるのに理想的な条件を備えていた。
当時の生産プロセスは、極めて重労働であった。春に種をまき、夏に人の背丈を優しく超える三メートルほどに成長した麻を刈り取る。その後、直径一メートルほどの巨大な桶に麻を詰め込み、鉄釜の上で半日かけて蒸し上げる「麻蒸し(あさむし)」が行われる。蒸された麻は、川の水にさらされ、熟練の職人が「苧引き(おひき)」と呼ばれる作業で皮を剥ぎ、繊維を取り出していく。
こうして作られた「南部麻」は、江戸の市場で熱狂的に迎えられた。江戸中期には、南部領内から毎年一万六千駄(一駄は約百三十五キログラム)もの麻が積み出されていたという記録がある。これは下駄の鼻緒、漁網、さらには武士の裃(かみしも)に至るまで、当時の日本人の生活インフラを根底から支える数字だった。
一方、津軽地方においても麻は不可欠な存在だった。北緯四十度以北では綿花の栽培が不可能だったため、庶民の衣類はすべて麻で賄うしかなかったのである。厳しい冬を越すため、麻布に細かく糸を刺して補強し、保温性を高める。これが後に伝統工芸となる「こぎん刺し」の原形となった。つまり、青森において麻は、単なる商品作物である以上に、この土地で凍えずに生きるための「生存の技術」そのものであった。
士族授産とりんご栽培の幕開け
麻の王国であった青森に、りんごという異邦の作物が入り込んだのは明治八年(一八七五)のことである。内務省勧業寮から青森県庁に三本の苗木が配布されたのが公式な始まりとされるが、この時期、麻の生産はまだ衰えてはいなかった。むしろ、明治二十五年に青森県が栃木県から大麻改良の専門家を招聘し、七戸に駐在させて品質向上を図っている事実からも、県が麻を依然として主力産業と見なしていたことがわかる。
では、なぜりんごへの転換が起きたのか。その最大の推進力となったのは、農家ではなく、職を失った「士族」たちであった。明治維新による廃藩置県は、武士から家禄を奪い、彼らを路頭に迷わせた。特に弘前藩(津軽氏)の士族たちは、生活の糧を見つける必要に迫られていた。
ここで、ある一人の人物の名が浮かび上がる。元弘前藩士の菊池楯衛(きくち・たてえ)である。彼は明治政府から配布された苗木を手にし、津軽の風土がりんご栽培に適していることを見抜いた。しかし、当時の農家にとって、りんごは「実がなるまでに数年かかる」「食べ方もよくわからない」得体の知れない植物だった。失敗すれば飢えに直結する農家は、安易に手を出せない。
そこで楯衛は、同じ境遇にある士族たちに呼びかけ、大規模な植栽を開始した。これを「士族授産(しぞくじゅさん)」と呼ぶ。士族たちは、武士時代に培った緻密な記録能力と、海外の文献を読み解く学識を、りんご栽培という未知の領域に注ぎ込んだ。彼らにとって、りんごは単なる農作物ではなく、武士としての誇りを維持するための新たな「戦い」だったのである。
一方で、主力だった麻は、急速な産業構造の変化に晒されていた。明治以降、安価なインド産のジュートやマニラ麻が輸入され、さらに鉄道網の発達によって西日本の木綿が容易に手に入るようになった。追い打ちをかけたのが、昭和二十三年の「大麻取締法」の制定である。GHQの意向を汲んだこの法律により、それまで日本の原風景であった大麻栽培は厳格な許可制となり、産業としての麻は事実上の終焉を迎えることとなった。
栃木と長野との比較から見る青森
青森の転換をより鮮明にするために、他の産地の動きと比較してみる。大麻の二大産地として並び称された栃木県(野州)は、青森とは対照的な道を歩んだ。栃木の鹿沼一帯もまた、戦後の規制によって大打撃を受けたが、彼らは麻を捨てなかった。現在も栃木は、神事用や伝統工芸用の最高級麻「とちぎしろ」の産地として、日本の麻文化の最後の砦を守り続けている。
栃木が麻を継続できたのは、それが神社のしめ縄や横綱の化粧回しといった「代替不可能な文化的需要」と深く結びついていたからだ。対して青森の麻は、より「実用的・産業的」な側面が強かった。漁網や庶民の作業着としての需要が主であったため、ナイロンや木綿という代替品が登場した瞬間に、その存在意義を失ってしまったのである。
次に、りんごの競合地である長野県(信州)と比較してみよう。長野もりんごの銘醸地だが、その普及の背景は青森とは異なる。長野は古くから養蚕が盛んで、桑畑からの転作という形でりんごが広がった。しかし青森の場合、前述の通り士族による「原野の開拓」や「土地の強引な再編」が伴っていた。
弘前藩は、明治初期に「帰田法(きでんほう)」という独自の政策を強行している。これは地主から土地を強制的に取り上げ、士族に分け与えるという、中央政府に無断で行われた過激な措置だった。この強引な土地分配があったからこそ、津軽平野にはりんごの単一栽培が可能な広大な園地が確保されたのである。
つまり、青森の「大麻からりんごへ」という流れは、自然な市場原理の結果だけではない。産業としての麻が世界規模の貿易競争に敗れ、法規制によって止めを刺される一方で、職を失った士族という「高学歴な労働力」が、藩の強引なバックアップを得て、新しい果樹農業というフロンティアに全力を注入した。この二つのベクトルが合致した場所に、現在のりんご王国が誕生したのである。
こぎん刺しと手仕事の記憶
現在の青森において、かつての大麻栽培の隆盛を直接的に物語る風景はほとんど残っていない。だが、注意深く観察すれば、その残像は至る所に潜んでいる。その最たるものが、津軽地方の伝統工芸「こぎん刺し」だ。
現在, こぎん刺しは木綿の糸で刺されるのが一般的だが、その土台となる布(地布)は、かつてはすべて大麻であった。藩の奢侈禁止令(しゃしきんしれい)により、農民は木綿の衣類を着ることを禁じられ、自給できる麻しか許されなかった。麻の繊維は荒く、隙間が多い。そこを埋めるために一針一針、白い糸を刺していくことで、布は厚みを増し、北国の寒風を防ぐ防具となった。
この「麻という制約」が生んだ幾何学模様の美しさは、今や世界的な評価を得ている。しかし、その根底にあるのは「麻しか使えなかった」という土地の貧しさと、それを克服しようとした切実な生活の知恵である。今日、こぎん刺しの愛好家が手にする布が、かつて自分たちの先祖が命がけで育て、蒸し、皮を剥いだ大麻であったことを意識する機会は少ない。
また、南部地方の山間部を歩くと、今でも「野生の大麻」の群生が見つかることがある。これらはかつての栽培種が野生化したものだが、毎年、厚生労働省や県の職員が山に入り、鎌で刈り取る「除去活動」が行われている。かつては富の象徴として大切に育てられた植物が、今や「犯罪の芽」として組織的に駆逐される対象となっている。この皮肉な対比ほど、時代の変遷を冷酷に見せつけるものはない。
一方で、りんご農家の現場では、今も士族たちが持ち込んだ「研究熱心な気風」が生きている。青森のりんご栽培は、袋がけや剪定など、世界でも類を見ないほど手間をかけることで知られる。この、ある種過剰とも言える手間暇の掛け方は、かつて広大な麻畑を管理し、緻密な水さらしや繊維の選別を行っていた、あの手仕事の記憶とどこかで繋がっているのではないか。
土地に根付く執念の継承
青森の歴史を俯瞰すると、大麻からりんごへの転換は、単なる作物の変更ではなく、この土地が選んだ「生存戦略の総入れ替え」であったことがわかる。繊維を生産して「衣」を支える経済から、果実を生産して「食」の嗜好品を供給する経済へ。それは、自給自足的な地域社会が、近代という巨大な市場経済に飲み込まれていく過程そのものであった。
もし、大麻取締法が制定されず、麻の需要が続いていたとしたら、青森はりんご王国にはなっていなかったかもしれない。あるいは、弘前藩が士族に対してあれほど強引な土地分配を行わなければ、りんご栽培はこれほどの集積を見なかっただろう。いくつもの偶然と、時代の強制力が重なり、かつての「青い糸」の風景は、雪のような「白い花」へと塗り替えられた。
この転換を「成功」と呼ぶのは容易だ。実際に青森はりんごによって、全国にその名を知られる豊かな農業県となった。しかし、その成功の影には、かつて南部麻というブランドを築き上げ、麻蒸しの煙の中で汗を流した無数の農民たちの営みが、文字通り土の下に埋もれている。
今の青森を旅して、たわわに実る真っ赤なりんごを手にする時、その樹が植わっている土壌が、かつては高く伸びる麻の茎に覆われていたことを思い出してみる。りんごの甘さの奥には、生活を支える繊維を失い、刀を捨てて未知の苗木に縋った人々の、乾いた執念が混じっている。
かつての麻畑を渡っていた風は、今もりんごの枝を揺らしている。植物の種類は変わっても、この厳しい北の土壌で何としてでも生き抜こうとする人々の気質だけは、繊維のように細く、そしてりんごの樹のように深く、この土地に根を張り続けている。五月の白い花が散った後、小さな実が膨らみ、やがて赤く色づくまでの長い時間を、青森の農家は今も変わらぬ緻密な手仕事で支え続けている。

旅と食が好き。どこにでもいます。