2026/6/11
「安福号」の導入が飛騨牛の品質をどう変えたのか

飛騨牛について詳しく教えてほしい。
キュリオす
飛騨牛のブランド化の背景には、種雄牛「安福号」の導入と、飛騨地方の気候風土、そして生産者の努力があった。その品質とブランド確立の経緯を辿る。
岐阜県北部に広がる飛騨地方は、険しい山々と清らかな水に囲まれた土地である。ここに立つと、澄んだ空気と四季の移ろいが肌で感じられる。この豊かな自然の中で育まれてきたのが、全国にその名を馳せるブランド和牛「飛騨牛」だ。きめ細やかな霜降りと芳醇な香りは多くの食通を魅了してきたが、なぜこの山深い地で、これほどまでに質の高い牛肉が生まれたのか。単に「美味しい」という言葉だけでは語り尽くせない、その背景にある歴史と風土、そして人々の営みに目を向けてみる。
飛騨地方において、かつて牛は主に農耕用の「役牛」として飼育されていた。しかし、昭和40年代に入ると農作業の機械化が進み、牛の役割は肉用へと転換されていく。この頃から、肉質や体格の改良を目指す動きが本格化し始めた。
昭和50年代には、岐阜県内で飼育される和牛の名称統一の気運が高まり、1977年には県下総称して「岐阜牛」という銘柄が誕生する。 しかし、飛騨牛の歴史における決定的な転換点は、その数年後に訪れた。1981年6月16日、兵庫県から一頭の種雄牛が岐阜県に導入されたのだ。その牛こそ、後に「飛騨牛の父」と称される「安福号」である。
安福号は1980年4月1日に兵庫県美方郡村岡町(現在の香美町)で生まれた但馬牛で、岐阜県が県有種雄牛として購入した。 導入後、安福号の産子たちは次々と優れた肉質を示し、子牛市場での取引価格を飛躍的に押し上げた。 1991年には安福号の産子の取引額が70万円を突破し、飛騨子牛市場を全国トップレベルの座へと押し上げたという。
この安福号の功績を背景に、さらなる銘柄推進を図るため、1988年1月23日には「飛騨牛銘柄推進協議会」が設立された。 これにより、岐阜県全域で生産される黒毛和牛の統一名称が正式に「飛騨牛」と決定され、ブランドとしての基礎が確立されたのだ。 協議会は、飛騨牛の定義や認定基準を厳格に定め、生産者や流通業者、関係団体が一丸となってブランド力の向上に取り組んだ。
そして、飛騨牛の名を一躍全国に知らしめる出来事が、2002年に岐阜県で開催された第8回全国和牛能力共進会で起こる。飛騨牛は改良の成果を競う「種牛の部」と肉質を競う「肉牛の部」の両方で、名誉賞である内閣総理大臣賞と最優秀枝肉賞をダブル受賞したのだ。 この快挙は、後発ブランドであった飛騨牛の地位を不動のものとし、日本を代表する和牛ブランドとしての評価を確立する決定打となった。
飛騨牛がなぜこれほどまでに高い評価を得るのか、その理由は複合的である。まず、その肉質はきめ細やかで柔らかく、網目状に広がる「霜降り」の美しさ、そして口の中でとろけるような芳醇な香りと味わいが特徴として挙げられる。
この品質を支えるのが、厳格な認定基準である。「飛騨牛」と名乗るためには、以下の条件をすべて満たす必要がある。品種は黒毛和種であること。 岐阜県内で最も長く飼養され、かつ14ヶ月以上肥育されていること。 そして、公益社団法人日本食肉格付協会が実施する牛枝肉格付において、肉質等級が3等級以上、歩留等級がAまたはBと評価されることだ。 かつては5等級のみが飛騨牛とされていたが、2002年には消費者の健康志向に応える形で3等級以上に基準が緩和され、より多くの消費者に届けられるようになった。
飛騨地方特有の環境も、飛騨牛の肉質形成に大きく寄与している。この地域は夏と冬、そして昼夜の寒暖差が大きい。 特に冬の厳しい寒さの中で牛はゆっくりと脂肪を蓄え、きめ細やかな霜降りと締まった肉質、そして脂の甘みが増すと言われている。 また、豊かな山々から湧き出る清らかな水と澄んだ空気も、牛がストレスなく育つための良好な環境を提供している。
飼育方法においては、血統へのこだわりが際立つ。多くの農場で、安福号の血統を受け継ぐ牛が9割以上を占める場合もあるという。 安福号は生涯で約4万頭もの子を世に送り出し、その血統は全国の和牛に大きな影響を与えたとされている。 飼料も重要で、トウモロコシ、大豆、大麦、米、稲わらなどを牛の成長段階や健康状態に合わせて配合し、栄養バランスを考慮した給餌が行われる。 さらに、清潔な牛舎環境の維持、こまめな健康チェック、そして牛たちとの信頼関係を築くことでストレスを軽減し、安定した品質の肉牛を育てる努力が日々続けられているのだ。
また、飛騨牛には個体識別番号がつけられており、消費者はその牛がどこで生まれ、誰が育てたのかといった情報を追跡できる。 このトレーサビリティは、飛騨牛の安全性と信頼性を高める重要な要素となっている。
日本には「松阪牛」「神戸牛」「近江牛」といった、それぞれに長い歴史と確立されたブランドを持つ和牛が数多く存在する。これらの銘柄牛は「とろけるような霜降り」を前面に押し出すことが多い。飛騨牛もまた美しい霜降りを特長とするが、その品質には微妙な差異がある。
他の和牛が脂肪の「量」で勝負する側面があるのに対し、飛騨牛は脂の「質」に重きを置く傾向が見られる。 その脂は甘く、くどさがなく、後味がすっきりとしていると評される。 この特性から、飛騨牛は「静かな和牛」とも表現され、派手さよりも口に入れた時の自然さや食後の軽さを重視する向きもある。
さらに、飛騨牛の大きな特徴として、霜降りだけでなく赤身そのものが美味しいという点が挙げられる。 噛むほどに旨味が増し、脂に頼らずとも十分な満足感があるため、毎日でも食べられるという声もあるほどだ。 この赤身と脂身の絶妙なバランスは、若い世代から年配の方まで、幅広い層の食好みに対応できる強みとなっている。 ステーキはもちろん、すき焼きやしゃぶしゃぶといった様々な料理法で、その魅力を存分に引き出すことができるだろう。
ブランドの確立という点で見ると、松阪牛や神戸牛が数百年の歴史を持つ伝統的な「蔓牛(つるうし)」の系統改良によって形成されてきたのに対し、飛騨牛のブランド化は、安福号の導入以降、比較的短期間で集中的かつ戦略的に進められてきた。 これは、行政、生産者、流通業者が一体となって、明確な目標設定と科学的な育種改良、そして積極的なプロモーションを展開した結果と言える。
2023年には、飛騨牛は日本の地理的表示(GI)保護制度に登録され、さらに同年9月にはEU域内でもGI産品として保護されることになった。 これは、飛騨牛がその地域ならではの特性を持つ産品として国際的に認められた証であり、他の和牛ブランドとの差別化を一層明確にするものだ。
現在の飛騨牛は、岐阜県の畜産業において極めて重要な位置を占めている。飛騨地域では、肉用牛が農業粗生産額の約30%、畜産粗生産額の約50%を占めるほどだ。 飛騨牛の生産は、高山市や下呂市といった地域の観光産業とも深く結びついており、多くの飲食店や宿泊施設で提供される飛騨牛料理は、観光客を惹きつける大きな要素となっている。 特に、飛騨地方の郷土料理である朴葉味噌と組み合わせた「飛騨牛朴葉味噌焼き」は、地元の風土を感じさせるメニューとして人気を集めている。
飛騨牛の魅力は国内に留まらない。2008年の香港への輸出を皮切りに、アジア、EU、北米、オーストラリアなど、世界各国・地域へと販路を拡大している。 国際的な食品衛生基準に則った食肉処理施設も整備され、海外に50店舗を超える飛騨牛推奨店が存在するまでになった。
しかし、その道のりには課題も存在する。高まる需要と品質維持の努力から、飛騨牛の卸売価格は高騰傾向にあり、地元飲食店や宿泊施設からは価格への批判の声が上がることもある。 また、新型コロナウイルス感染症の拡大期には、外食需要の低迷により大きな打撃を受けた。これに対し、岐阜県が主導した「#おうちで飛騨牛プロジェクト」のような取り組みは、クラウドファンディングで1億円以上を集める成功を収め、地域産品のマーケティングにおける新たな可能性を示した。
さらに、畜産業界全体が抱える後継者不足や労働力確保の問題は、飛騨牛の生産者にとっても無縁ではない。安全で質の高い牛肉を安定供給し続けるためには、生産者のたゆまぬ努力と、地域全体での支援体制が不可欠である。 今日、飛騨牛は単なる食材ではなく、飛騨の自然と人々の情熱が凝縮された地域ブランドとして、その存在感を高め続けている。
飛騨牛の物語をたどると、一つの問いが浮かび上がる。なぜ、これほどまでに特定の地域が、特定の食材で名を馳せるようになったのか。飛騨牛の場合、その答えは、一頭の種雄牛「安福号」の存在抜きには語れない。安福号がもたらした遺伝的改良は、飛騨牛の肉質を劇的に向上させ、その後のブランド化の礎を築いた。彼の血統は、現在も全国の黒毛和種の約3割に受け継がれていると見積もられており、その経済効果は岐阜県内だけでも百億円以上と推計されている。
しかし、安福号の功績だけでは飛騨牛の全てを説明できない。飛騨地方の冷涼な気候、清らかな水、そして昼夜の寒暖差といった自然条件が、牛の成長と肉質の形成に好影響を与えている。 そして何よりも、一頭一頭と向き合い、牛の健康状態や成長段階に合わせて飼料や環境を細やかに調整する生産者たちの地道な努力と愛情が、その品質を支え続けているのだ。
飛騨牛の歩みは、単なる肉牛の改良に留まらず、地域が一体となってブランドを創造し、育て上げてきた歴史でもある。かつての役牛から「岐阜牛」を経て「飛騨牛」へと名称を統一し、厳格な認定基準を設け、全国和牛能力共進会での受賞やGI登録を通じてその価値を高めてきた。この過程は、市場の変化に対応しながらも、品質への妥協を許さない姿勢を示している。
飛騨牛は、特定の遺伝資源を最大限に活かしつつ、その土地の風土と、そこに生きる人々の情熱が結びつくことで、唯一無二の価値を生み出した好例と言えるだろう。食卓に並ぶ飛騨牛の一切れは、単なる美味しい肉ではなく、飛騨の山々が育んだ自然の恵みと、半世紀にわたる人々の知恵と努力が凝縮された結果なのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。