2026年5月20日
1300年の歴史を持つ長良川鵜飼、その継承と現代の課題
長良川鵜飼は1300年以上続く伝統漁法。奈良時代から続く歴史の中で、織田信長や徳川家康の庇護を受け、現代まで継承されてきた。しかし、近年は観覧客の減少や後継者不足といった課題に直面している。
篝火が照らす、1300年の川面
長良川の川岸に立つと、夕闇に包まれるにつれて、遠くから燃え盛る篝火の匂いがかすかに漂ってくることがある。それは、これから始まる「鵜飼」の気配であり、清流と炎、そして人と鳥が織りなす幽玄な光景の序章でもある。なぜこの古くからの漁法が、現代までこの地で受け継がれてきたのか。単なる観光資源として語るには、あまりにも深い歴史と、そこに生きる人々の営みが長良川の底に横たわっている。
黒潮と山風が交わるまで
長良川における鵜飼の歴史は、1300年以上に及ぶとされている。その起源は奈良時代にまで遡り、大宝2年(702年)に正倉院に納められた美濃国の戸籍には、「鵜養部目都良売(うかいべのめづらめ)」という、鵜飼を生業としていたと推定される人物の名が記されている。これは、この地で古くから鵜を操る漁が行われていた確かな証拠の一つである。古墳時代に鵜飼を表現した埴輪が出土していることや、『隋書』『古事記』『日本書紀』といった古代の文献にも鵜飼に関する記述が見られることから、その歴史的深さがうかがえる。
鵜飼が単なる生活の糧としての漁法から、観覧の対象へとその性格を変え始めるのは、中世以降のことである。室町時代には、将軍足利義教が長良川で鵜飼を観覧した記録が残る。そして戦国時代、この地の鵜飼に決定的な転機が訪れる。天下統一を目指した織田信長は、永禄11年(1568年)に武田信玄の使者を鵜飼でもてなしたという。信長は鵜匠たちに「鵜匠」という地位を与え、鵜飼を保護したと伝えられている。
江戸時代に入ると、徳川家康もまた長良川の鵜飼を深く愛した。大坂夏の陣からの帰途、岐阜に滞在した際に鵜飼を観覧し、その際に食した鮎鮨を気に入った家康は、以降、将軍家への鮎鮨献上を命じたという。これに伴い、鵜匠には川の自由な航行や、冬場の鵜の餌飼いが許されるなど、様々な特権が与えられ、手厚い保護を受けることになった。 この将軍家や尾張徳川家による庇護が、長良川の鵜飼が現代までその伝統を継承できた大きな要因の一つである。 明治維新により一時その保護を失い、消滅の危機に瀕するが、明治23年(1890年)には岐阜県知事の要請を受け、宮内省(現在の宮内庁)が鵜匠を職員として雇用し、「御料鵜飼」としてその伝統を継承することとなる。
炎と鵜、三位一体の漁
長良川の鵜飼は、鵜匠が飼い慣らした鵜を巧みに操り、川魚、特に鮎を捕獲する伝統漁法である。この漁は単独で行われるものではなく、鵜匠、鵜、そして鵜舟を操る船頭たちの連携によって成り立つ。
