2026/5/29
宿場は伝馬をどう管理?本陣より問屋が中心だった理由

伝馬は宿場が育てて管理していたのか?宿場の首長は誰だったのか?本陣?
キュリオす
江戸時代の伝馬継立制度において、宿場は幕府から重責を課せられ、問屋を中心とする宿役人が管理を担った。本陣は宿泊施設が主で、直接的な伝馬の管理者ではなかった。宿場全体の住民協力が不可欠で、独特の共同体として運営されていた。
かつて日本の主要街道を旅した人々は、宿場ごとに馬を乗り換え、人足を雇い、あるいは荷物を預け、次の宿場へと向かった。その要となったのが「伝馬継立(てんまつぎたて)」と呼ばれる制度である。現代の高速道路のサービスエリアのように、旅人が立ち寄る場所として宿場を捉えがちだが、その実態は、国家的な物流と通信を支えるための重要なインフラ拠点であった。しかし、この伝馬という重責は、一体誰がどのように担っていたのだろうか。「宿場が育て、管理していた」という漠然とした理解の先に、宿場の首長がその責任者であったのか、あるいはもっと共同体的な運営がなされていたのかという疑問が浮かぶ。
日本の伝馬制度の起源は古く、奈良時代にはすでに駅制が整備され、律令国家の通信網として機能していたとされる。しかし、街道網と宿駅制度が本格的に全国規模で確立されたのは、江戸時代に入ってからである。徳川家康は、関ヶ原の戦いを経て天下統一を果たすと、五街道をはじめとする主要な街道を整備し、その道中に宿場を置くことを命じた。これら宿場には、幕府からの「黒印状(こくいんじょう)」が与えられ、公用旅行者(大名や幕府役人など)のための馬と人足を用意する「伝馬役(てんまやく)」が義務付けられたのである。
この伝馬役は、単に馬と人足を貸し出すという単純なものではなかった。宿場は、常に一定数の馬(伝馬役馬)と人足(伝馬人足)を待機させておかなければならず、これには莫大な費用と労力が伴った。特に大名行列のような大規模な公用旅行者が通過する際には、周辺の村々からも馬や人足が徴発されることも珍しくなかったという。宿場は、幕府の交通・通信網の末端を担う重要な存在であり、その設置と運営は幕府の強力な支配下に置かれていた。この制度は、戦国時代までの自発的な宿の提供とは異なり、幕府によって制度化された強制的な役務であった点が特徴的である。
では、宿場における伝馬の管理は具体的に誰が担っていたのか。宿場の運営において中心的な役割を果たしたのは、「問屋場(とんやば)」と呼ばれる施設であった。問屋場は、公用旅行者の休憩や宿泊の手配、荷物の輸送、そして何よりも伝馬の継立を司る宿場の実務機関である。この問屋場を差配したのが「問屋(とんや)」であり、その下に「年寄(としより)」「帳付(ちょうづけ)」「馬差(うまさし)」「人足指(にんそくさし)」といった役人が置かれ、宿場の運営全般を取り仕切っていた。これらを総称して「宿役人(しゅくやくにん)」と呼ぶ。
問屋は、宿場の最高責任者として、幕府からの指令を住民に伝え、伝馬役の遂行を監督する立場にあった。多くの場合、宿場の有力な名主や地主が世襲でその職を務めることが多かったという。彼らは自身の財力を背景に宿場の運営資金を支え、また住民を動員する権限を持っていた。一方、「本陣(ほんじん)」は、大名や旗本などの高貴な身分の者が宿泊する施設であり、その格式は宿場の中でも最も高かった。本陣の主人は、問屋を兼任することもあったが、本陣そのものは宿泊施設としての機能が主であり、直接的に伝馬の運用を指揮する立場ではなかった。あくまで宿役人が伝馬継立の実務を担っていたのである。伝馬役は宿場全体に課せられた義務であり、問屋以下の宿役人が中心となって、宿場の住民全体にその負担を割り振る形で運営されていたと言える。
江戸時代の伝馬制度は、幕府の公用交通を円滑に進めるための強力なシステムであったが、その実態は、宿場町に大きな負担を強いるものでもあった。伝馬役馬や伝馬人足の維持には多額の費用がかかり、宿場の財政を圧迫した。伝馬役の負担は、宿場ごとにその規模や交通量によって異なり、特に東海道のような主要街道の宿場は、その負担が重かったとされる。
この伝馬制度と類似する仕組みは、世界各地の古代から近代にかけて見られる。例えば、古代ローマ帝国の「クルスス・プブリクス( cursus publicus)」や、中国の「駅伝制」なども、国家の公文書や物資を迅速に運ぶためのシステムであった。これらの制度もまた、沿道の住民に人足や馬の提供を義務付けるなど、その負担は決して軽ではなかった。しかし、日本の伝馬制度が特徴的だったのは、公用輸送だけでなく、民間輸送も制度の中に組み込まれていた点である。宿場は、公用輸送の合間を縫って、一般の旅人や商人に対しても馬や人足を提供し、その運賃収入を宿場の運営費に充てていた。これは、幕府が宿場に対して、ある程度の経済的自立を促す側面も持っていたことを示唆する。
一方で、この民間輸送の自由度が、時に公用輸送との競合を生むこともあった。幕府は公用優先の原則を徹底しつつも、宿場の実情に合わせて、この両者のバランスを取ろうと腐心していたことが窺える。公用優先は絶対的な原則であったが、宿場の存続なくして伝馬役の遂行は不可能であるため、宿場の経済的基盤を確保することも重要であったのだ。
江戸時代の街道と宿場制度は、明治維新とともにその役割を終える。鉄道や自動車といった新たな交通機関の登場により、馬や人足による輸送は姿を消した。しかし、宿場町として栄えた場所の多くは、その後も地域の中心地として発展を続け、あるいはかつての面影を色濃く残す観光地として、現代にその姿を伝えている。例えば、中山道の妻籠宿や馬籠宿、東海道の関宿などは、当時の町並みが保存され、多くの人々が訪れる場所となっている。
これらの宿場町を歩くと、問屋場や本陣跡の看板を目にすることがある。そこには、かつてこの地で人々と馬が行き交い、街道の物流と通信を支えた歴史が刻まれている。現代においては、宿場町の歴史的景観を維持するためのNPO活動や、地域住民による保存運動が活発に行われている。かつて幕府の指令によって強制された伝馬役は消滅したが、宿場が果たした交通結節点としての機能や、人々が集い、文化が育まれた場所としての記憶は、形を変えて受け継がれているのだ。
伝馬は宿場が育て、管理していたのか、という問いへの答えは、単純なイエス・ノーでは割り切れない。宿場は幕府から伝馬継立という重い役目を課せられ、その管理運営は問屋を中心とする宿役人が担っていた。本陣は格式の高い宿泊施設であり、その主人が宿役人を兼ねることはあっても、直接的な伝馬の管理者ではなかった。
しかし、伝馬役の遂行には、宿場全体の住民の協力が不可欠であり、農民からの馬や人足の徴発、宿場内の住民による費用負担は、まさに共同体的な側面を持っていた。幕府の強力な支配下にあった宿場は、単なる行政区分ではなく、公的な役務と民間経済活動が混在し、住民が一体となってその存続と運営を支える、独特の共同体であったと言えるだろう。街道の馬蹄の音が止んで久しい現代、かつての宿場町を訪れると、その歴史の奥に、国家的な要請と地域住民の生活が複雑に絡み合った、もう一つの共同体の姿が見えてくる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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