2026/5/23
徳島・忌部神社はなぜ市街地に?古代から続く「ものづくり」の系譜

徳島の忌部神社について詳しく知りたい。
キュリオす
徳島市の忌部神社は、古代祭祀を担った忌部氏に由来する。しかし、その所在地は明治時代の論争を経て現在の眉山麓に定められた。本記事では、忌部氏の歴史、麁服調進の伝統、そして現代に息づく「ものづくり」の精神を辿る。
徳島市の眉山南東中腹に、忌部神社は静かに鎮座している。その名は、古代日本の祭祀を司った忌部氏に由来し、阿波国(現在の徳島県)の歴史と深く結びついている。しかし、この神社が現在の場所に落ち着いたのは、実は明治時代に入ってからのことだという。古代からの由緒を持つとされる名社が、なぜ現代の市街地に位置するのか。その背景には、幾度もの変遷と、失われた歴史の痕跡を巡る複雑な経緯があった。かつて「麻植郡(おえぐん)」と呼ばれた吉野川流域の地名に、忌部氏が麻を植えたという伝承が残るように、この一族の存在は、単なる祭祀だけでなく、この地の産業と文化の根幹をなしてきた。忌部神社を訪れることは、古代から現代へと続く、見えにくいが確かな「ものづくり」の系譜を辿る旅でもあるだろう。
忌部氏の歴史は、日本神話の時代にまで遡る。彼らの祖神は、天照大御神が天の岩戸に隠れた際に祭祀を執り行ったとされる天太玉命(あめのふとだまのみこと)であり、特に阿波忌部の祖神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)とされている。天日鷲命は、『日本書紀』や『古語拾遺』において、天の岩戸開きの際に麻や穀(かじ、楮の一種)を植え、白和幣(しろにきて)と呼ばれる白い布を織ったと伝えられる神だ。この伝承は、忌部氏が古くから織物や製紙といった技術と密接に関わっていたことを示している。
神武天皇の時代には、天太玉命の孫である天富命(あめのとみのみこと)が、天日鷲命の子孫を率いて麻や穀の栽培に適した土地を求め、阿波国へやって来たとされる。彼らはこの地を開拓し、麻や楮を植えて布を織り、朝廷へ献上する役割を担うようになった。これが「阿波忌部」と呼ばれる氏族の始まりであり、彼らの本拠地となった地域は、麻を植えたことに由来して「麻植郡」と名付けられたという。現在の吉野川市周辺にあたるこの地域は、古代から麻の栽培が盛んであったことが、地名からも窺えるのだ。
阿波忌部の最も重要な職務の一つが、天皇一代に一度行われる「大嘗祭(だいじょうさい)」に際して、麁服(あらたえ)と呼ばれる大麻の織物を献上することであった。この麁服は、大嘗祭において神が依り憑く神聖な衣として用いられ、その調進は阿波忌部が代々担う重責であった。平安時代の法令集『延喜式』にも、阿波国忌部が織る麁服についての記述が見られる。
しかし、中世以降、戦乱や自然災害によって忌部神社の所在は不明となり、その系譜を巡る混乱が生じる。特に戦国時代には、土佐の長宗我部元親による阿波侵攻の兵火によって焼失した、あるいは地震による崩落で失われたなどと伝えられている。これにより、古代からの重要な式内社でありながら、その実態が曖昧な時期が長く続いたのである。
忌部神社の歴史を語る上で、明治時代に起きた「所在地論争」は避けて通れない。古代からの式内社であり、延喜式神名帳に名神大社として記載されていた忌部神社は、明治維新後の社格制度において国幣中社に列格されたものの、その正確な鎮座地は長く不明のままであった。
この論争は、主に吉野川市山川町(旧麻植郡山崎村)の忌部神社と、美馬郡つるぎ町(旧美馬郡西端山村)の五所神社という、複数の神社が自こそが古来の忌部神社の系譜を引くものと主張したことから激化した。国学者の小杉榲邨(こすぎすんそん)は、1874年(明治7年)に山崎村の天日鷲神社を式内忌部神社と考証したが、その後も論争は収まらなかった。
最終的に、政府は妥協策として、両神社の主張を折衷する形で、徳島市内に新たな社地を設けることを決定した。そして1887年(明治20年)に、現在の眉山南東中腹の地へ遷座祭を行い、国幣中社忌部神社が新設されたのである。この時、五所神社は新しい忌部神社の摂社と位置づけられたという。
この経緯は、古代からの歴史を持つ神社が、近代国家の制度の中でその位置を再定義された事例として注目される。現在の社殿は、1945年(昭和20年)の戦災で焼失した後、1953年(昭和28年)に本殿が、1968年(昭和43年)に拝殿が再建されたものだ。創建の経緯も、社殿の歴史も、幾度かの断絶と再編を経て現在に至っている。
忌部氏が担ってきた役割は、古代の日本において、祭祀に不可欠な「もの」を調達・製作することにあった。特に、天皇の即位儀礼である大嘗祭で用いられる麁服(あらたえ)の調進は、阿波忌部の最も重要な職務の一つであり、この伝統は現代まで続いている。
この麁服は、大麻を原料として織られる粗い麻布であり、その製作には特定の技術と清浄さが求められる。阿波忌部の直系とされ、徳島県美馬市木屋平に居を構える三木家が、この調進を代々担ってきた。大正天皇、昭和天皇、そして平成天皇の即位の際にも、三木家によって麁服が織られ、皇居へ献上されたことは記憶に新しい。
麁服の製作過程は、現代においても厳格な管理のもとで行われる。大麻の栽培は、大麻取締法によって厳しく規制されており、栽培地では24時間体制の警備が敷かれることもあるという。これは、単に法律上の問題だけでなく、神事に供する植物としての清浄さを保つためでもあるだろう。播種から抜麻、精麻、紡績、そして織り上げに至るまで、一連の作業は古式に則って行われ、特に織り上げは「織姫」と呼ばれる女性たちによって、神聖な「織殿」の中で行われる。この一連の作業は、単なる手工業ではなく、古代から続く祭祀の一部として位置づけられている。
大嘗祭に際して、阿波忌部が麁服を、そして紀伊忌部が宮殿の用材を、出雲忌部が玉を、讃岐忌部が盾や矛を調進したと記録されている。これらは、ヤマト王権が各地の特定の氏族に、それぞれの地域の特産品や技術を基盤とした役割を割り当て、国家の祭祀を支える体制を築いていたことを物語る。忌部氏の役割は、祭祀そのものを執り行う中臣氏とは異なり、祭祀に用いる「もの」を供給する実務的な側面が強かったと言える。この分業体制は、古代国家の運営における効率性と、各地の資源・技術の活用という視点から見ることができる。
徳島の忌部神社が象徴する阿波忌部の歴史は、単に一地方の氏族の物語に留まらない。彼らの活動は、古代日本の広範な地域に影響を与えてきた。特に注目されるのは、阿波忌部の一部が海路で東国へ移住したとされる「東遷伝説」である。
『古語拾遺』には、天富命が阿波国を豊かにした後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部の一部を率い、黒潮に乗って房総半島(現在の千葉県南部)へ向かったという壮大な伝承が記されている。彼らが上陸した地は「安房国(あわのくに)」と名付けられ、故郷の阿波を偲んだものとされる。この地には、天太玉命を祀る安房神社や、天日鷲命を祀る下立松原神社などが創建されたという。この伝承は、古代において黒潮が人々の移動や文化の伝播に重要な役割を果たしたことを示唆している。
現代の徳島市に鎮座する忌部神社は、上述の通り、明治時代の所在地論争を経て新設されたものであり、その境内は市街地に位置する。眉山の麓、国道438号線に面した参道入口から階段を上ると、拝殿と本殿が静かに佇む。戦災からの復興を経て、現在の社殿は比較的新しいものだが、境内には「忌部の碑」や「阿波忌部発祥の地」を示す記念碑などが設置され、古代の歴史を今に伝える役割を担っている。
毎年秋には「忌部祭」が斎行され、古式ゆかしい神事が行われる。この祭事では、神前に麻や楮が奉納される儀式が特に注目されるという。これらの行事は、単なる観光行事ではなく、古代から続く忌部氏の伝統と、彼らが担ってきた「ものづくり」の精神を現代に継承する試みと言えるだろう。
徳島の忌部神社と、それに連なる阿波忌部の歴史を辿ることは、古代日本の祭祀と産業がどのように結びついていたかを具体的に示す。天皇の即位を祝う大嘗祭という国家的な儀式が、遠く離れた阿波国の、特定の氏族が育む麻によって支えられてきたという事実は、現代の視点から見れば、意外なほどに実務的で、かつ重層的な構造を浮かび上がらせる。
この物語は、神話的な起源と、明治期の所在地論争という近代的な課題、そして現代における伝統継承の困難さ(例えば大麻栽培の厳格な管理)が交錯している。忌部神社は、古代からの定まった場所に不動の姿で存在し続けてきたわけではない。むしろ、その所在地自体が、歴史の荒波と人々の解釈の中で揺れ動き、再構築されてきたのだ。現在の徳島市の忌部神社は、そうした歴史の変遷と、伝統を現代に繋ごうとする人々の努力の結晶と言えるだろう。
阿波忌部が担ってきた「ものづくり」は、単なる技術ではなく、神聖な「もの」を生み出す行為そのものであった。麻や楮といった自然素材が、人の手によって加工され、祭祀に供される布へと昇華する過程には、古代の人々が自然と神、そして社会の秩序に対して抱いていた具体的な認識が込められている。現代において、その技術と精神を継承しようとする試みは、過去への回帰ではなく、むしろ未来へ向けた「手の記憶」の再発見なのかもしれない。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。