2026年5月19日
なぜ熊本・天草は車海老養殖で全国一の地位を築いたのか
熊本県天草地方が車海老養殖で全国的な地位を確立した背景には、藤永元作博士による人工産卵・孵化技術の開発、温暖な気候、遠浅で餌生物豊富な地形、そして有明海などの複雑な潮汐による良好な海水交換といった複合的な条件がある。これらの要素が地域に根差した養殖ノウハウと共に、熊本の優位性を支えている。
潮の香りと車海老の跳ねる音
鮨屋で出される熊本産の車海を食べると、身の締まりと強い甘みに驚く。天然ものも流通するが、多くは養殖だ。しかし、養殖と聞いても、その背景にある土地の条件や人の営みを意識することは少ない。なぜ熊本、特に天草地方が、車海老の養殖で全国的な地位を確立したのか。その問いの答えは、複雑な潮流と、ある研究者の執念に裏打ちされたものだった。
養殖の夜明け、天草の海で
車海老養殖の歴史は、日本全体で見ても比較的浅い。その本格的な幕開けは、1960年代に熊本県天草で訪れた。きっかけは、水産庁の技官であった藤永元作博士の研究である。藤永博士は、天然の車海老の生態を詳細に観察し、人工的な環境下での産卵や孵化、稚エビの育成に成功した。これは、それまで天然資源に頼りきりだった車海老の供給に、画期的な転換をもたらすものだったと言える。
博士の研究成果をもとに、1963年、天草郡大矢野島に「日本栽培漁業協会天草事業場」が設立され、車海老の本格的な種苗生産と養殖技術の開発が始まった。この事業場は、後の全国各地の養殖業の基盤を築くことになる。天草の温暖な気候と、複雑に入り組んだリアス式海岸が、稚エビの育成に適した条件を備えていたことも、この地が選ばれた理由の一つだろう。
車海老を育む三つの条件
車海老がよく育つには、いくつかの条件が不可欠だ。熊本、特に天草地方がこの産業で優位に立つのは、それらの条件が複合的に揃っているためである。
まず、温暖な気候と安定した水温が挙げられる。車海老は熱帯・亜熱帯性のエビであり、水温が20度から28度程度の範囲で活発に活動し、成長する。天草地方は年間を通じて比較的温暖であり、冬場の水温低下も他の地域に比べて緩やかだ。これにより、養殖期間を長く確保でき、安定した成長が見込める。
次に、遠浅で穏やかな地形と豊富な餌生物である。車海老は海底の砂泥中に潜り、ゴカイや貝類などの小型底生生物を捕食する。天草の有明海や八代海に面した地域は、遠浅の干潟が広がり、波が穏やかで、これらの餌生物が豊富に生息している。養殖池においても、底質管理が容易であり、自然に近い環境を再現しやすい。
