2026/5/28
江尻宿はなぜ港と街道の要衝となったのか

静岡の江尻の歴史について知りたい。宿場町として有名だが、どういう場所だったのか。
キュリオす
静岡市清水区にあった江尻宿は、東海道の宿場町としてだけでなく、古くから湊としても栄えた。戦国時代の城下町から江戸時代の物流拠点へと変遷し、陸と海の交通網が交差する要衝として発展した歴史を辿る。
静岡市清水区の中心部に位置する江尻は、東海道五十三次の江戸日本橋から数えて18番目の宿場町だった。しかし、単なる街道筋の宿場というだけでは、その本質を見誤るだろう。巴川の河口に開けたこの地は、古くから湊としての顔も持ち合わせていた。旅人は陸路で、物資は水路で、それぞれがこの地を目指した。なぜ、江尻はこれほど多様な機能を持つ場所として発展したのか。その背景には、地理的な優位性と、時代ごとの変遷が複雑に絡み合っている。
江尻の歴史は、東海道の整備よりも古い時代にまで遡る。平安時代には巴川対岸の「入江浦」の外港として機能し、鎌倉時代後期には江尻津が巴川河口部の湊として隆盛したという。戦国時代に入ると、甲斐武田氏が駿河支配の拠点として重視した。1568年(永禄11年)末、武田信玄が駿河侵攻を開始した際に、家臣の馬場信春によって江尻城が築かれ、城下町としての繁栄が始まったとされる。江尻城は武田氏の駿河経営の拠点となり、一説には織田信長の安土城よりも早く「観国楼」という天守閣があったとも言われているが、詳しい史料は戦災で焼失したため、定かではない。
江戸時代に入り、徳川家康が駿府に拠点を置くと、江尻は東海道の宿場町として整備された。巴川の「尻(下流)」に位置することから「江尻」の名がついたこの地は、清水湊を外港として発展した。駿府町奉行支配の蔵が多数立ち並び、江戸へ物資を運ぶ水運の拠点として活気に満ちていたという。元禄期には船手奉行や軍船が置かれ、甲州年貢米の輸送や西国の中継も担い、駿府の外港としての役割を強化していった。 天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によれば、江尻宿は戸数1,340軒、人口6,498人、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒を数え、東海道五十三次の宿場の中でも8番目の規模を誇る大きな宿場であった。
江尻宿が繁栄した要因は、陸路である東海道と、水路である清水湊が密接に連携していた点にある。巴川の河口部に位置する清水湊は、駿河湾奥・折戸湾に臨む天然の良港であり、古くから海運の中継地として、また水軍の基地として発展してきた。 江戸時代には、大坂から木綿、油、綿、酢、醤油といった品々が船で運ばれ、廻船問屋が商業活動を展開した。特に、山間部の多い駿河で慢性的な米不足を補うため、甲州から富士川水運を利用して集められた年貢米が、清水湊に集積され江戸へ輸送されるという重要な役割を担っていた。
宿場町としては、旅籠が軒を連ね、街道を行き交う人々の休憩や宿泊の場を提供した。宿場内には本陣や脇本陣といった公的な宿泊施設も整備され、大名行列や幕府の役人の宿泊にも対応した。江尻はまた、駿河と甲斐を結ぶ身延道と東海道が交差する交通の要衝でもあったため、人や物の往来が絶えず、情報が行き交う場所でもあった。 この陸と海の結節点としての機能が、江尻に物資の集積地、商業の中心地、そして旅人の拠点という多面的な性格を与えたのだ。
東海道には多くの宿場が存在したが、江尻のように港を併せ持つ宿場は、その機能において独特の性格を持っていた。例えば、東海道最大の宿場であった「府中宿」は駿府城の城下町として栄え、行政と商業の中心であった。 一方、由比宿のように薩埵峠の東麓に位置し、規模は小さくとも桜えびなどの特産品で知られる宿場もあった。
江尻と類似した水陸交通の要衝としては、例えば琵琶湖と東海道を結ぶ「草津宿」が挙げられる。草津宿もまた、陸路と水路の結節点として栄え、物資の集積地、交通の要衝としての役割を担った。しかし、草津が内陸の湖上交通を主としていたのに対し、江尻は駿河湾という外洋に面した港を擁していた点で異なる。海運はより大量の物資を長距離輸送できるため、江尻の物流拠点としての重要性は、内陸の宿場とは一線を画していたと言えるだろう。また、古くから湊が開かれていた江尻津が、明応年間(1492~1500年)の大地震による地形変化でその機能を失い、清水湊が新たに発展したという経緯も、他の宿場町には見られない特徴である。 災害を契機とした場所の変遷が、その後の発展の方向性を決定づけた一例と言える。
現代の江尻、すなわち静岡市清水区の中心部には、かつての宿場町の面影がそのまま残る場所は少ない。 しかし、その歴史は今も様々な形で息づいている。巴川の河口は現在も清水港として機能し、国際拠点港湾に指定され、外国船が行き交う活気あるベイサイドエリアとなっている。
江尻の歴史を語る上で欠かせないのが、幕末から明治にかけて活躍した侠客、清水次郎長である。次郎長は清水港の振興に尽力し、その生家や菩提寺である梅蔭禅寺、そして晩年に開業した船宿「末廣」が今も残されている。 戊辰戦争の際には、新政府軍に逆賊とされた咸臨丸乗組員の遺体を収容し、丁重に葬ったという次郎長の義侠心は、幕臣の山岡鉄舟に深く感動を与えたと伝わる。 また、江尻宿名物として300年の伝統を持つ「追分羊かん」は、徳川家光の時代に明の僧から製法を教わったのが起源とされ、徳川慶喜も好んだという逸話を持つ。 これらの物語や産品が、かつて陸と海の交通の要衝として栄えた江尻の記憶を現在に繋ぎとめている。
東海道の宿場町、という言葉から連想されるのは、旅人が一時的に立ち寄る「通過点」としての機能かもしれない。しかし、静岡の江尻は、その枠を大きく超えた重層的な性格を持っていた。単に旅人が休憩するだけでなく、清水湊を介した大規模な物流の拠点であり、戦国時代には城下町として、そして江戸時代には駿府の外港として、常に地域の経済と文化を動かす原動力であり続けた。
江尻が「巴川の尻」という地理的条件によって湊として発展し、それが東海道の宿場としての役割と融合したことで、独自の発展を遂げた事実は、交通の要衝が単なる道の途中ではなく、それ自体が生命力を持つ場所となりうることを示している。街道と港という二つの異なる交通網が交差することで、江尻は多様な人、物、情報が流入・流出し、それがまた新たな物語や文化を生み出す土壌となった。かつての江尻宿の賑わいは、現代の清水港の活気の中に、形を変えて受け継がれているのかもしれない。## 巴川のほとり、港と街道が交わる宿
静岡市清水区の中心部に位置する江尻は、東海道五十三次の江戸日本橋から数えて18番目の宿場町だった。しかし、単なる街道筋の宿場というだけでは、その本質を見誤るだろう。巴川の河口に開けたこの地は、古くから湊としての顔も持ち合わせていたのだ。旅人は陸路で、物資は水路で、それぞれがこの地を目指した。なぜ、江尻はこれほど多様な機能を持つ場所として発展したのか。その背景には、地理的な優位性と、時代ごとの変遷が複雑に絡み合っている。
江尻の歴史は、東海道の整備よりも古い時代にまで遡る。平安時代には巴川対岸の「入江浦」の外港として機能し、鎌倉時代後期には江尻津が巴川河口部の湊として隆盛したという。戦国時代に入ると、甲斐武田氏が駿河支配の拠点として重視した。1568年(永禄11年)末、武田信玄が駿河侵攻を開始した際に、家臣の馬場信春によって江尻城が築かれ、城下町としての繁栄が始まったとされる。江尻城は武田氏の駿河経営の拠点となり、一説には織田信長の安土城よりも早く「観国楼」という天守閣があったとも言われているが、詳しい史料は戦災で焼失したため、定かではない。
江戸時代に入り、徳川家康が駿府に拠点を置くと、江尻は東海道の宿場町として整備された。巴川の「尻(下流)」に位置することから「江尻」の名がついたこの地は、清水湊を外港として発展した。駿府町奉行支配の蔵が多数立ち並び、江戸へ物資を運ぶ水運の拠点として活気に満ちていたという。 元禄期には船手奉行や軍船が置かれ、甲州年貢米の輸送や西国の中継も担い、駿府の外港としての役割を強化していった。 天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によれば、江尻宿は戸数1,340軒、人口6,498人、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒を数え、東海道五十三次の宿場の中でも8番目の規模を誇る大きな宿場であった。
江尻宿が繁栄した要因は、陸路である東海道と、水路である清水湊が密接に連携していた点にある。巴川の河口部に位置する清水湊は、駿河湾奥・折戸湾に臨む天然の良港であり、古くから海運の中継地として、また水軍の基地として発展してきた。 江戸時代には、大坂から木綿、油、綿、酢、醤油といった品々が船で運ばれ、廻船問屋が商業活動を展開した。特に、山間部の多い駿河で慢性的な米不足を補うため、甲州から富士川水運を利用して集められた年貢米が、清水湊に集積され江戸へ輸送されるという重要な役割を担っていた。
宿場町としては、旅籠が軒を連ね、街道を行き交う人々の休憩や宿泊の場を提供した。宿場内には本陣や脇本陣といった公的な宿泊施設も整備され、大名行列や幕府の役人の宿泊にも対応した。江尻はまた、駿河と甲斐を結ぶ身延道と東海道が交差する交通の要衝でもあったため、人や物の往来が絶えず、情報が行き交う場所でもあった。 この陸と海の結節点としての機能が、江尻に物資の集積地、商業の中心地、そして旅人の拠点という多面的な性格を与えたのだ。
東海道には多くの宿場が存在したが、江尻のように港を併せ持つ宿場は、その機能において独特の性格を持っていた。例えば、東海道最大の宿場であった「府中宿」は駿府城の城下町として栄え、行政と商業の中心であった。 一方、由比宿のように薩埵峠の東麓に位置し、規模は小さくとも桜えびなどの特産品で知られる宿場もあった。
江尻と類似した水陸交通の要衝としては、例えば琵琶湖と東海道を結ぶ「草津宿」が挙げられる。草津宿もまた、陸路と水路の結節点として栄え、物資の集積地、交通の要衝としての役割を担った。しかし、草津が内陸の湖上交通を主としていたのに対し、江尻は駿河湾という外洋に面した港を擁していた点で異なる。海運はより大量の物資を長距離輸送できるため、江尻の物流拠点としての重要性は、内陸の宿場とは一線を画していたと言えるだろう。また、古くから湊が開かれていた江尻津が、明応年間(1492~1500年)の大地震による地形変化でその機能を失い、清水湊が新たに発展したという経緯も、他の宿場町には見られない特徴である。 災害を契機とした場所の変遷が、その後の発展の方向性を決定づけた一例と言える。
現代の江尻、すなわち静岡市清水区の中心部には、かつての宿場町の面影がそのまま残る場所は少ない。 しかし、その歴史は今も様々な形で息づいている。巴川の河口は現在も清水港として機能し、国際拠点港湾に指定され、外国船が行き交う活気あるベイサイドエリアとなっている。
江尻の歴史を語る上で欠かせないのが、幕末から明治にかけて活躍した侠客、清水次郎長である。次郎長は清水港の振興に尽力し、その生家や菩提寺である梅蔭禅寺、そして晩年に開業した船宿「末廣」が今も残されている。 戊辰戦争の際には、新政府軍に逆賊とされた咸臨丸乗組員の遺体を収容し、丁重に葬ったという次郎長の義侠心は、幕臣の山岡鉄舟に深く感動を与えたと伝わる。 また、江尻宿名物として300年の伝統を持つ「追分羊かん」は、徳川家光の時代に明の僧から製法を教わったのが起源とされ、徳川慶喜も好んだという逸話を持つ。 これらの物語や産品が、かつて陸と海の交通の要衝として栄えた江尻の記憶を現在に繋ぎとめている。
東海道の宿場町、という言葉から連想されるのは、旅人が一時的に立ち寄る「通過点」としての機能かもしれない。しかし、静岡の江尻は、その枠を大きく超えた重層的な性格を持っていた。単に旅人が休憩するだけでなく、清水湊を介した大規模な物流の拠点であり、戦国時代には城下町として、そして江戸時代には駿府の外港として、常に地域の経済と文化を動かす原動力であり続けた。
江尻が「巴川の尻」という地理的条件によって湊として発展し、それが東海道の宿場としての役割と融合したことで、独自の発展を遂げた事実は、交通の要衝が単なる道の途中ではなく、それ自体が生命力を持つ場所となりうることを示している。街道と港という二つの異なる交通網が交差することで、江尻は多様な人、物、情報が流入・流出し、それがまた新たな物語や文化を生み出す土壌となった。かつての江尻宿の賑わいは、現代の清水港の活気の中に、形を変えて受け継がれているのかもしれない。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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