2026/6/27
木曽三川の治水と宿場町・港町としての桑名

桑名の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
木曽三川の河口に位置する桑名は、中世の港町から江戸時代の東海道宿場町へと発展した。しかし、度重なる水害と、薩摩藩が犠牲を払った宝暦治水など、水との闘いの歴史も持つ。現代では鋳物産業などを中心に、水辺の歴史を活かしたまちづくりが進む。
木曽三川が育む水辺の気配
三重県北部に位置する桑名に足を踏み入れると、まずその水辺の気配に気づかされるだろう。木曽川、長良川、揖斐川という「木曽三川」が伊勢湾へと流れ込む河口に広がるこの土地は、古くから水とともに歩んできた歴史を持つ。川の流れは時に恵みをもたらし、時に脅威となり、そのたびに人々は水との共存の道を模索してきた。桑名の歴史を紐解くことは、この水辺の土地がどのようにして独自の文化と産業を育んできたのか、その問いへの答えを探る旅でもある。
湊から城下へ、水運が拓いた道
桑名の歴史は、まずその地理的条件によって形作られてきた。木曽三川の河口に位置し、伊勢湾に面するこの地は、古くから海上交通の要衝であった。平安時代にはすでに、後の桑名港よりもやや上流の多度地区が伊勢から尾張への渡し場として機能していたという。やがて三大川の下流部に土砂が堆積し、桑名が陸地化すると、平安時代中期には人々が住み着き始めた。室町時代には「十楽の津」と呼ばれる自由な港町として発展し、堺や博多と並ぶ日本屈指の貿易拠点として栄えたとされている。この頃の桑名は、商人たちによる自治都市としての性格を強く持っていたようだ。
戦国時代に入ると、桑名は武士の支配下に置かれるようになる。1574年(天正2年)に織田信長の伊勢侵攻を受け、信長の家臣である滝川一益が桑名城を与えられた。 その後、豊臣秀吉の時代を経て、1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康の命により、徳川四天王の一人である本多忠勝が桑名藩の初代藩主として入封する。 忠勝は、すぐに桑名城の築城と城下町の整備に着手し、「慶長の町割」と呼ばれる大規模な都市計画を断行した。 桑名城は4層の天守閣と51もの櫓を備え、海に向かって開いたその姿から「扇城」とも称された。 忠勝は城郭と居住区を堀で区切り、町の中に東海道を通し、港町、城下町、そして東海道の宿場町として桑名の基盤を築いたのである。
江戸時代に入ると、桑名は東海道五十三次の42番目の宿場町として、さらに重要な役割を担うことになる。特に、41番目の宮宿(現在の名古屋市熱田区)との間を結ぶ「七里の渡し」は、東海道唯一の海上路であり、約7里(約27km)の距離を船で渡る難所として知られた。 参勤交代制度が確立した1635年(寛永12年)頃には、桑名宿は旅籠数で東海道第2位、脇本陣数で第1位の規模を誇る活気あふれる城下町・宿場町へと発展した。 美濃方面からの年貢米や木曽山からの木材など、木曽三川を利用した物資の集積地としても栄え、桑名から各地へと運ばれる流通の拠点となった。 桑名城下の町割りや地名の一部は、現在もその面影を残しているという。
三つの川が織りなす宿命と治水の歴史
桑名が水運の要衝として発展した背景には、木曽三川の存在が不可欠であった。伊勢湾に注ぐ木曽川、長良川、揖斐川は、豊かな水資源と肥沃な土地をもたらす一方で、しばしば水害という形で人々に脅威を与えてきた。特に、木曽川の川底が揖斐川底より約1メートル高かったという地形的な特徴に加え、「御囲堤」と「輪中」の問題が水害を深刻化させていたとされる。 御囲堤は、尾張側を洪水から守るために木曽川左岸に築かれた約50kmに及ぶ堤防だが、美濃・伊勢側にはこれより低い堤防しか築くことが許されなかったため、洪水時には美濃・伊勢側に水が流れ込みやすくなったのだ。
こうした状況に対し、江戸幕府は1753年(宝暦3年)に大規模な治水工事を決定する。これが「宝暦治水」である。 幕府は薩摩藩にこの工事を命じたが、これには大名の財力を削ぐ目的もあったと言われている。当時の薩摩藩は莫大な累積赤字を抱えていたにもかかわらず、幕府の命には逆らえず、総奉行に家老の平田靭負を据え、約1,000人もの藩士や下働きを桑名に派遣した。 工事の目的は、破損した堤防の復旧と、木曽・長良・揖斐川の流れをそれぞれ独立させる「三川分流」であった。
しかし、この難工事は薩摩藩に多大な犠牲を強いることになった。工事中に病死した者32名、そして幕府や桑名藩との軋轢から自刃した者が52名に上るなど、合計約80名の命が失われたという。 平田靭負自身も工事完了後に自刃し、その墓は桑名市の海蔵寺にある。 この宝暦治水によって、桑名を含む木曽三川下流域の水害は一定程度軽減されたが、その代償は大きく、薩摩藩と桑名藩の間には深い遺恨を残したと言われている。 また、三川分流によって各河川が堤防で区切られ、桑名港が長良川・木曽川と直接結ばれなくなったことで、水運のあり方にも変化が生じた。 桑名が水害に苦しみながらも、水運を活かして発展を遂げた歴史は、この宝暦治水という重い史実と切り離して語ることはできない。
治水の困難と他の水辺都市の姿
桑名が直面した水害と治水の困難は、日本の他の水辺都市が経験してきた歴史と対比することで、その特異性がより明確になる。例えば、大阪は古くから「水の都」として知られ、淀川の分流や運河の整備によって商業都市として発展してきた。しかし、大阪の治水は、多くの場合、都市の発展と商業活動を促進するための積極的な水路開発という側面が強かった。一方、桑名の場合は、木曽三川という複数の大河川が合流する特異な地形に加え、尾張藩の「御囲堤」のような周辺地域の都合による制約が、治水を一層複雑にしていた点がある。 桑名側からすれば、尾張側の安全が自らの水害リスクを高める構造になっていたのだ。
また、江戸の利根川東遷事業や、新潟平野の信濃川・阿賀野川の治水事業も、大規模な河川改修によって水害を軽減し、新田開発を促した点で共通する。しかし、これらの事業が主に幕府や藩の主導で行われ、比較的スムーズに、あるいは長期的な計画のもとで進められたのに対し、宝暦治水は、幕府が財政難に苦しむ薩摩藩に「御手伝普請」として命じたという、政治的・経済的な思惑が色濃く反映されたものであった。 その結果、薩摩藩士の多大な犠牲を生み、工事後も長きにわたって地域間の感情的なしこりを残した点は、他の大規模治水事業とは異なる桑名固有の歴史的文脈と言えるだろう。
さらに、京都のような内陸の都市が、鴨川の氾濫に悩まされつつも、都市の景観や文化と一体化した形で治水を進めてきたのとは対照的に、桑名の治水は、純粋に生存と経済活動の基盤を確保するための、より切実な問題であった。水との闘いは、桑名の産業構造、特に米の流通や、後述する鋳物産業の発展にも影響を与えた可能性も考えられる。治水が単なる土木工事に留まらず、地域間の政治力学、経済状況、そして人々の命運を左右するものであったという点で、桑名の歴史は日本の治水史における一つの重い事例として位置づけられるのではないか。
鉄道と産業の変遷、現代の桑名
明治時代に入ると、桑名の街は新たな局面を迎える。東海道の宿場町としての役割は、鉄道の開通によって大きく変化した。1888年(明治21年)に開通した東海道本線は、桑名を通らずに関ヶ原方面へ抜けるルートが採用されたため、桑名は宿場としての機能を失っていく。 その後、1895年(明治28年)に関西鉄道(現在のJR関西本線の一部)が開通し、名古屋と草津を結ぶ路線ができたものの、幹線鉄道にはなりえなかった。 「七里の渡し」もまた、鉄道や道路交通の発達によりその役割を終え、かつての賑わいは失われた。
しかし、桑名は水運の利を活かした独自の産業を育んできた。その一つが「くわな鋳物」である。 鋳物づくりの起源は、本多忠勝が初代藩主となった1601年(慶長6年)に鉄砲作りを命じたことに始まるとされている。 桑名では、木曽三川の砂鉄や燃料となる木炭が容易に入手できたこと、そして水運によって製品を各地へ輸送できたことが、鋳物産業の発展を後押ししたと考えられる。最盛期には200社もの鋳物工場があったというが、バブル崩壊やリーマンショックなどの影響を受け、現在では約30社に減少しているものの、梵鐘など伝統的な製品は海外からも注文が入るほどだ。
現代の桑名市は、2004年(平成16年)に桑名市、長島町、多度町が合併して誕生した。 木曽三川や多度山などの豊かな自然に恵まれながら、名古屋へのアクセスも良いことから、ベッドタウンとしての側面も持つ。 かつての城下町や宿場町の面影は、戊辰戦争や空襲、伊勢湾台風などによる災害で多くが失われたものの、九華公園(桑名城跡)や七里の渡跡、「伊勢国一の鳥居」、蟠龍櫓の復元など、歴史的な遺構や景観は大切にされている。 また、桑名市は近年、「産業観光」を新たな地方創生の柱として推進しており、市内の工場見学などを通じて年間3,000人以上の海外からの企業研修団を受け入れている。 「ものづくりのまち」としての伝統を現代に活かそうとする試みが続いているのである。
水の恩恵と代償が刻む時間
桑名の歴史をたどると、この地が常に「水」と深く結びついてきたことがわかる。木曽三川の河口という地理的な条件は、中世の「十楽の津」としての繁栄、江戸時代の東海道随一の宿場町としての賑わい、そして「くわな鋳物」に代表される産業の発展を支えてきた。水は生命線であり、物流の大動脈であった。
しかし、その恩恵は常に代償を伴っていた。度重なる水害、そしてそれを克服するための大規模な治水工事は、地域の人々に多大な労力と犠牲を強いた。特に「宝暦治水」において薩摩藩が払った代償は、単なる財政的な負担に留まらず、多くの人命と深い遺恨を残した。 この治水工事は、桑名が単なる経済的な要衝であっただけでなく、日本の政治史や地域間の関係性をも映し出す場所であったことを示唆している。
現代の桑名に立つと、水辺の風景は穏やかに見えるかもしれない。しかし、その地下には、幾度となく繰り返された水との闘いの記憶、そして治水のために捧げられた無数の時間と命が刻まれている。桑名の歴史は、自然の恵みを享受しつつも、その圧倒的な力と向き合い、時には抗い、時には受け入れてきた人々の営みの記録である。この水辺の街が持つ静かな深みは、そうした歴史の堆積によって形作られたものだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。