2026/6/23
サントリーはなぜ「霧の山崎」でウイスキー造りを始めたのか

サントリーの歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
サントリーの創業者が、日本の気候と味覚に合わせた酒造りを模索し、ウイスキー事業に長期的な赤字覚悟で挑んだ歴史を辿る。赤玉ポートワインの成功を元手に、ビール事業の多角化や森林保全にも取り組み、時間と水という資産を管理してきた。
霧が溜まる場所の必然
京都から大阪へと向かう東海道本線の車窓を眺めていると、山崎駅を過ぎたあたりで急に視界が湿り気を帯びる瞬間がある。右手に天王山が迫り、左手には桂川、宇治川、木津川という三つの大河が合流して淀川へと姿を変える、地理的な結節点だ。この場所には、一年を通じて独特の霧が立ち込める。かつて千利休がこの地に茶室「待庵」を構え、名水「離宮の水」を愛したという歴史は、単なる風流の産物ではない。水の質と、それを包み込む湿潤な空気が、この土地の価値を決定づけてきたのだ。
1923年、この山崎の地に日本初のモルトウイスキー蒸溜所の建設が始まった。サントリー(当時は壽屋)の創業者、鳥井信治郎が全国を歩き回り、最終的にこの地を選んだ理由は、単に水が良かったからだけではない。ウイスキーという酒が、樽の中で十数年という歳月をかけて眠る際、乾燥しすぎず、かつ適度な寒暖差があるこの「霧の溜まり場」こそが、熟成に不可欠な条件だと見抜いたからである。
現地に立つと、蒸溜所の背後に控える山の緑と、川面から上がってくる湿気が混じり合い、肌にまとわりつくような重厚な空気を感じる。この重みこそが、サントリーという企業の通奏低音となっている。なぜ彼らは、一世紀以上もの間、気の遠くなるような時間を必要とする事業を続けてこられたのか。その答えを探ると、単なる成功物語ではない、緻密な経営戦略と、土地の条件を執拗に読み解く観察眼の歴史が見えてくる。
赤玉のルビー色に託した軍資金
サントリーの歴史を語る際、多くの人は「山崎」や「響」といったウイスキーの名を挙げるが、その壮大な物語の「種銭」を作ったのは、1907年に発売された「赤玉ポートワイン」である。1899年、鳥井信治郎が20歳で興した鳥井商店は、当初、輸入品の葡萄酒を扱っていた。しかし、当時の日本人の口には本場のワインは渋すぎ、酸っぱすぎた。葡萄酒は「薬」として飲まれるのが関の山で、嗜好品としての地位を築けずにいたのだ。
鳥井はここで、ある種の「翻訳」を試みる。日本人の繊細な味覚に合わせ、甘みと香りを調整した「赤玉」を開発したのだ。これが爆発的なヒットとなる。1922年には、日本初のヌードポスターとして知られる大胆な広告戦略を展開し、赤玉は日本の洋酒市場を席巻した。この成功によって得られた莫大な利益がなければ、その後のウイスキー事業は影も形もなかっただろう。
ウイスキー造りは、投資をしてから商品が売れるまでに最低でも数年、通常は十年以上の「空白」が生じる。その間、人件費も設備維持費もかかり続ける。経営的には極めてリスクの高い「死に金」を抱える事業だ。鳥井が1923年に山崎蒸溜所の建設に着手した際、周囲の役員たちは猛反対したという。しかし鳥井は「やってみなはれ」という言葉とともに、赤玉で稼いだ資金を惜しみなく注ぎ込んだ。
1929年、ついに日本初の本格ウイスキー「サントリーウイスキー白札」が発売される。だが、結果は惨敗だった。スコットランドの製法を忠実に再現しようとした結果、当時の日本人には「焦げ臭い(ピート香が強すぎる)」と敬遠されたのだ。ここからさらに数年の試行錯誤が続く。鳥井は、本場の模倣ではなく、日本の食事や気候に合う「洗練された原酒」を求めてブレンドを重ねた。
その結実が、1937年に誕生した「角瓶」である。亀甲型のカットが施されたボトルは、薩摩切子をヒントにデザインされたという。この酒が、ようやく日本人の舌を捉えた。戦時中の資材不足や空襲を乗り越え、戦後の混乱期においても、サントリーは「オールド」や「ローヤル」といった銘柄を次々と世に送り出していく。赤玉という甘い葡萄酒から始まった挑戦は、数十年の歳月を経て、日本の夜の風景を琥珀色に塗り替えていったのである。
四十五年の赤字を飲み込む構造
サントリーという企業を語る上で、もう一つの避けて通れない「異常な」歴史がある。それがビール事業への参入と、それに続く45年連続の赤字という記録だ。1963年、二代目社長の佐治敬三は、すでにキリン、サッポロ、アサヒの三社によって固められていたビール市場への参入を決断した。周囲からは「自殺行為」と言われたが、佐治は「ウイスキーの利益があるうちに、次の柱を建てる」という信念を曲げなかった。
この45年という数字は、一人の社員が新卒で入社してから定年退職するまでの期間を上回る。普通、これほどの長期間赤字を出し続ける事業があれば、株主や市場からの圧力で撤退を余儀なくされる。しかし、サントリーは非上場という形態を維持し、創業家の強いリーダーシップのもとで「ビールの赤字をウイスキーと清涼飲料の利益で埋める」という構造を維持し続けた。
なぜそこまでビールにこだわったのか。それは、ウイスキーが「時間の酒」であるのに対し、ビールは「鮮度の酒」であり、回転の速いキャッシュフローを生み出すからだ。一度シェアを確保できれば、ウイスキーのような長期熟成のリスクを補完する強力な経営基盤になる。彼らは、他社が手を出していなかった「純生」というカテゴリーを切り開き、1980年代には「モルツ」、そして2003年には「ザ・プレミアム・モルツ」を投入した。
このプレミアムビールの成功が、ついに2008年、参入から46年目にしてビール事業を黒字へと転換させた。この粘り強さは、単なる根性論ではない。サントリーは、清涼飲料水部門においても「ボス(BOSS)」や「伊右衛門」「サントリー天然水」といった強力なブランドを育成し、収益源を多層化させていた。一つの事業が冬の時代を迎えても、他の事業がそれを支える。この「相互扶助」のポートフォリオこそが、彼らの言う「やってみなはれ」の実態である。
また、1950年代から全国に展開した「トリスバー」の存在も見逃せない。戦後の貧しい時代、安価なウイスキーである「トリス」を提供し、サラリーマンが気軽に洋酒を楽しめる文化を醸成した。柳原良平が描いた「アンクルトリス」というキャラクターは、高度経済成長期の日本人の哀愁と希望を象徴するアイコンとなった。文化を売り、場を作り、その上がりで次の時代の「種」を育てる。この循環構造こそが、サントリーを単なる飲料メーカーから、独自の生態系を持つ巨大企業へと変貌させたのである。
北の職人と西の商人が分かれた道
サントリーの歴史を相対化するために、避けて通れないのがニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝との比較である。竹鶴はスコットランドでウイスキー造りを学び、鳥井信治郎に招かれて山崎蒸溜所の初代工場長を務めた人物だ。いわば、日本のウイスキーの「技術的始祖」である。しかし、二人はやがて袂を分かつことになる。この決別には、日本のウイスキー文化を形作った決定的な論点が含まれている。
竹鶴が求めたのは、あくまでスコットランドの風土を再現することだった。彼は、気候がスコットランドに似た北海道の余市こそが理想の地であると主張した。一方、鳥井は「消費者に近い場所」である山崎にこだわった。鳥井の視点は、技術者である以上に「商い」の視点だった。どんなに良いものを作っても、人々に届き、飲まれなければ文化にはならない。彼は、大阪や京都に近い山崎に蒸溜所を置くことで、人々に製造工程を見せ、ウイスキーという未知の飲み物への信頼を築こうとしたのだ。
また、味の設計においても両者は対照的だった。竹鶴は、重厚で力強いピート香(煙の匂い)こそがウイスキーの本質であると信じて疑わなかった。対して鳥井は、日本人の繊細な食卓にその「煙たさ」は合わないと判断し、より華やかで滑らかな、いわば「和のウイスキー」へと舵を切った。これは、本場の伝統を重視する「職人」と、現地の市場に適応させる「演出家」の対立でもあった。
この対比は、後のビール事業におけるアサヒビールとの関係にも似ている。アサヒが「スーパードライ」という単一の強力なブランドで市場の覇権を握ったのに対し、サントリーは多種多様な原酒を造り分ける「ブレンディング」の技術を磨き、多様なニーズに応える戦略をとった。山崎蒸溜所には、形状の異なる蒸留釜がいくつも並んでいる。これは、単一の味を大量生産するためではなく、性格の異なる原酒を無数に生み出すための工夫だ。
竹鶴のニッカが「北の厳しい自然」の中で純粋性を守り抜いたとすれば、鳥井のサントリーは「西の商都」の柔軟さをもって、洋酒という外来文化を日本の日常へと溶け込ませていった。どちらが正しいという話ではない。ただ、サントリーが今日のようなグローバル企業になり得たのは、この「徹底した現地適応」と「多角的なリスク分散」という、鳥井信治郎が山崎の地で下した商人的な決断が根底にあったからだろう。
境界を越えて「水の山」を繋ぐ
2014年、サントリーは米国の蒸留酒大手ビーム社を約1.7兆円という巨額の資金で買収した。このニュースは、日本の同族経営企業が世界のトッププレーヤーへと躍り出た瞬間として記憶されている。かつて赤玉ポートワインを売り歩いていた大阪の商店が、世界一のバーボン「ジムビーム」や、スコッチの名門「ラフロイグ」を傘下に収めることになったのだ。
しかし、この巨大化の裏側で、彼らが執拗に守り続けているものがある。「水」である。2003年から始まった「天然水の森」プロジェクトは、単なるCSR(企業の社会的責任)の枠を超えている。彼らは全国各地の工場の水源エリアを特定し、合計1万2000ヘクタール以上の森林を整備している。これは、工場で汲み上げる地下水の量よりも、その森が育む水の量の方を多くするという、極めて具体的な数値目標に基づいた事業だ。
山崎での経験から、彼らは「良い酒は良い水からしか生まれない」という事実を、骨身に染みて理解している。水は、代替のきかない原材料であると同時に、その土地の生態系そのものである。森林が荒れれば地下水の質は変わり、ウイスキーの熟成環境も損なわれる。サントリーにとって、森を守ることは、数十年後の商品在庫を守ることに直結しているのだ。
現在のサントリーは、新浪剛史というプロ経営者を外部から招き、創業家による統治と近代的なガバナンスを融合させている。しかし、その経営判断の軸には、依然として「水」と「時間」という、自然界の摂理が居座っている。ビームサントリーの誕生によって、彼らはケンタッキーの乾燥した大地と、山崎の湿った空気の両方を管理することになった。異なる風土から生まれる酒を一つのポートフォリオに収めるという行為は、世界中の「水」の物語を編集する作業に近い。
旅行者が山崎蒸溜所を訪れると、リニューアルされたテイスティングラウンジで、世界中の原酒を味わうことができる。そこには、100年前の鳥井信治郎が見た夢の続きがある。だが、その華やかな琥珀色の液体の背景には、今も山崎の山々で竹林を伐採し、広葉樹を植え、土壌をフカフカに保とうとする地道な人の営みが続いている。巨大なグローバル資本と、一本の苗木を植える手。その両端を繋いでいるのが、サントリーという企業の現在地である。
歳月という資産を管理する
サントリーの歴史を振り返って見えてくるのは、彼らが「飲み物」を作っている以上に、「歳月」という資産を管理しているという事実だ。ウイスキーの樽の中で、あるいはビールの赤字が続く四半世紀の中で、彼らはひたすら「待つ」という行為を経営の核に据えてきた。
「やってみなはれ」という言葉は、しばしば向こう見ずな挑戦の代名詞として使われる。しかし、その実態は、緻密に計算された「待機」の哲学ではないか。赤玉の利益でウイスキーの熟成を待ち、ウイスキーの利益でビールの黒字化を待つ。この時間軸のズレを利用した経営は、短期的な利益を追い求める現代の市場原理とは真っ向から対立する。だが、その対立こそが、サントリーという企業の固有の強さを生んでいる。
山崎蒸溜所の貯蔵庫に入ると、ひんやりとした空気の中に、樽から蒸発したアルコールの香りが満ちている。これを「天使の分け前(エンジェルズ・シェア)」と呼ぶ。一年に数パーセントずつ、中身は消えていく。だが、その失われる分こそが、熟成という対価を支払っている証拠でもある。サントリーの歴史とは、この「失われるもの」を受け入れながら、それ以上の価値が宿る瞬間をじっと待ち続けてきた記録に他ならない。
私たちが居酒屋でハイボールを飲み、コンビニで天然水を手に取る時、その背景には山崎の霧や、数十年前の経営者の忍耐、そして100年後の森を見据える科学者の視線が重なっている。それは単なる企業の沿革ではなく、日本の風土と資本主義が、いかにして「時間」という手に負えない怪物を飼い慣らしてきたかという、一つの文明の形式ですらある。
最後に、山崎蒸溜所の近くを流れる三つの川に目を向けてみる。合流した水は淀川となり、大阪湾へと注ぎ、やがて海を越えて世界へと繋がっていく。鳥井信治郎がこの場所に蒸溜所を建てた時、この水の流れの先に、世界三位の蒸留酒メーカーとなる未来を見ていたかどうかはわからない。ただ、彼はこの湿った空気の中に、永続する何かの予感を感じ取っていたはずだ。その予感は今、琥珀色の液体となって、世界中のグラスの中で静かに揺れている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。