2026/6/2
日本の儒学・朱子学:時代と共に変遷した思想の軌跡

日本の儒学と朱子学の歴史についておさらいしたい。時代系列と個々の人物の特徴について網羅的に教えて。
キュリオす
飛鳥時代から伝来した儒学が、室町・江戸時代に朱子学として日本に深く浸透。藤原惺窩、林羅山を経て幕府公認の学問となり、陽明学や古学といった多様な展開を見せた。その思想は、近代日本の国家形成や倫理観にも影響を与えた。
平安の都に雅が花開いた後、武士の時代が長く続いた日本において、思想の表層は仏教が覆っていたかに見える。しかし、その奥底には常に、人間社会のあり方、統治の道、個人の修養といった根源的な問いが横たわっていた。それらの問いに対し、中国大陸から伝来し、日本の土壌で独自の変容を遂げた思想が、時代を動かす大きな力となっていった。それが儒学であり、特に室町末期から江戸時代にかけて深く浸透した朱子学である。京の五山文学僧たちの間でひそかに宋学が学ばれ始めた頃、彼らはまさか、その学問が日本の政治、社会、そして人々の心性までをも規定する基盤となるとは考えていなかっただろう。大陸で完成されたその体系が、海を渡り、日本の歴史の中でどのように受容され、変革され、そして新たな問いを生み出していったのか。その軌跡を辿ることは、日本の思想史の深層に分け入ることに他ならない。
日本の歴史において、儒学は仏教よりも早く、飛鳥時代には既に大陸から伝来していた。例えば聖徳太子が制定したとされる十七条憲法には、儒教の徳目である「和」や「礼」が明確に盛り込まれており、「以和為貴(和を以て貴しと為す)」の一節は、儒教的倫理観が国家の基本理念に取り据えられた初期の証左である。大宝律令や養老律令といった律令国家の法体系においても、官僚育成のための大学寮では儒教の経典が必修科目とされ、儒学は国家運営の基盤を支える学問として機能した。しかし、奈良・平安時代の儒学は、あくまで律令制を支える実用的な知識としての性格が強く、思想としての深遠な探求は、主に仏教が担っていたと言える。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、貴族社会の衰退と武士の台頭という社会変革の中で、儒学は一時的にその勢いを失う。大学寮の機能が形骸化し、儒学を専門とする家は細々と学統を維持するに留まった。しかし、中国では宋代に入り、仏教や道教の思想を取り込みながら、宇宙論から人間論、政治倫理に至るまでを包括する新たな儒学体系が確立された。これが「宋学」、特に朱熹(朱子)によって大成された「朱子学」である。朱子学は、それまでの儒学が現実の政治や倫理に重きを置いたのに対し、宇宙の根源原理である「理」と、個々の事物や現象を構成する「気」の概念を提示し、万物の生成変化から人間の本性までを一貫して説明しようとした。また、「格物致知」(事物の理を窮めて知識を極める)や「敬」(心を集中し、雑念を払う)といった修養論を重視し、内面的な自己完成を目指す側面も強かった。
この宋学が日本に伝来したのは、鎌倉時代末期から室町時代にかけてのことであった。禅宗の僧侶たちが、中国の宋や元から帰国する際に、禅籍と共に朱子学の書物を持ち帰ったのが始まりである。特に、京都の五山を中心とする禅林では、禅僧たちが朱子学を「宋学」と呼び、漢詩文の教養を深めるための学問として積極的に受容した。彼らは宋学の宇宙論や倫理思想を禅の修行や仏教理解の補助として学んだが、その段階ではまだ朱子学が独立した思想体系として日本社会に大きな影響を与えるまでには至らなかった。しかし、この禅僧たちによる受容が、後の江戸時代に朱子学が日本の支配的学問となるための土壌を静かに耕していたことは確かである。特に、南宋から元にかけて活躍した清拙正澄や東明恵日といった渡来僧が朱子学の知識を日本にもたらし、彼らの弟子たちがその学統を受け継いでいった。室町時代には、義堂周信や絶海中津といった高僧たちが朱子学に通じ、その影響は次第に武家社会にも及び始める。例えば、足利学校では禅僧以外の者も朱子学を学ぶ機会を得るようになり、その裾野は広がりつつあったのだ。
室町時代後期から安土桃山時代にかけて、日本は戦乱の時代を迎える。この混乱期において、旧来の社会秩序や価値観が揺らぎ、新たな思想的基盤が求められるようになった。この時代に朱子学を本格的に受容し、その後の日本儒学の礎を築いたのが、藤原惺窩(ふじわらせいか)である。惺窩はもともと禅僧であったが、中国の儒学書に触れる中で朱子学の体系に深く魅了され、還俗して儒学者としての道を歩んだ。彼は、禅が個人の悟りを追求するのに対し、朱子学が人間社会の秩序や倫理を説く点に、乱世を収めるための新たな思想的支柱を見出したのである。惺窩は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前年には徳川家康に謁見し、天下泰平の道を説いたと伝えられている。しかし、惺窩自身は仕官せず、門弟の育成に力を注いだ。
惺窩の門下から出たのが、林羅山(はやしらざん)である。羅山は、惺窩の推挙もあって徳川家康に仕え、以後、徳川幕府の初代儒官としてその地位を確立した。羅山は、朱子学を幕府の教学として採用させることに尽力し、政治顧問、外交文書の作成、法令の起草、歴史書の編纂など多岐にわたる役割を担った。彼の働きにより、朱子学は単なる学問に留まらず、幕府の統治理念、すなわち「文治政治」の精神的支柱となったのである。羅山は、朱子学の「大義名分論」や「君臣の義」といった概念を強調し、将軍を頂点とする幕藩体制の秩序を正当化する理論的根拠を提供した。また、神道と儒教を融合させようとする「儒家神道」を提唱し、日本の伝統的な信仰と朱子学を結びつける試みも行った。
羅山以降、林家は代々幕府の儒官を務め、昌平坂学問所(昌平黌)を運営するなど、幕府教学の中枢を担った。朱子学は、武士道精神の涵養や、士農工商という身分制度の維持、家族道徳の確立といった面で、江戸幕府の安定に大きく貢献した。例えば、朱子学の「五倫の教え」(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の間の道徳)は、武士のみならず一般庶民の倫理規範としても広く浸透していった。朱子学の普及は、寺子屋や藩校といった教育機関の整備にも繋がり、学問の振興と識字率の向上にも寄与したのである。
しかし、朱子学が幕府公認の学問となったことは、その後の儒学の発展に両義的な影響を与えた。一方で、学問としての基盤が安定し、多くの学者が輩出されるきっかけとなったが、他方で、幕府の権威を支えるための教義として固定化される傾向も生まれた。これに対し、朱子学の教義に疑問を抱き、新たな儒学の道を模索する動きも、江戸時代を通じて現れることになる。それは、朱子学が提供した秩序という枠組みの中で、個々の学者がいかに自らの思想を確立していくかという、学問的探求の始まりでもあったのだ。
江戸時代に入ると、朱子学は幕府の教学として確立される一方で、その教義に対する批判や新たな解釈が生まれ、多様な儒学の潮流が形成されていった。主なものとして、朱子学、陽明学、そして古学の三つの学派が挙げられる。
朱子学は、林羅山によって幕府公認の学問となって以降も、その体系をさらに深め、日本の社会状況に合わせた展開を見せた。例えば、山崎闇斎(やまざきあんさい)は、朱子学の「敬」の思想を徹底的に追求し、厳格な修養論を説いたことで知られる。彼は、心に一切の邪念を抱かず、ひたすら自己の内面を省察することで、理を窮めるという実践を重視した。闇斎の学派は「崎門学派(きもんがくは)」と呼ばれ、その門下からは多くの尊王論者が輩出されたことでも注目される。闇斎はまた、神道と朱子学を融合させた「垂加神道(すいかしんとう)」を提唱し、日本の伝統的な神道を朱子学の理の思想で体系化しようと試みた。これは、単なる学問としてではなく、日本独自の精神性を探求する動きでもあった。
中期の朱子学者としては、新井白石(あらいはくせき)が挙げられる。白石は、林家の学統ではないが、幕府の儒官として徳川家宣・家継の時代に政治顧問を務め、「正徳の治」と呼ばれる改革を主導した。彼は朱子学を実学として捉え、経済、地理、歴史など多岐にわたる分野で、その知識と理論を現実の政治に応用した。例えば、彼は『読史余論』を著して日本の歴史を朱子学的な大義名分論に基づいて再解釈し、また、長崎貿易の制限や貨幣改鋳といった経済政策にも関与した。白石の朱子学は、観念的な思弁に留まらず、具体的な政策立案にまで及ぶ実践的な性格を持っていた。
次に、陽明学(ようめいがく)である。陽明学は、中国の王陽明によって提唱された学問で、朱子学の「格物致知」が外的な事物を通して理を究めるのに対し、人間の心そのものに理(良知)が内在すると考え、「致良知(ちりょうち)」(良知を極限まで発揮する)と「知行合一(ちこうごういつ)」(知ることと行うことは一体である)を説いた。このため、陽明学は、内面的な自覚と実践を重視する点が特徴である。日本では、中江藤樹(なかえとうじゅ)が陽明学の祖とされる。藤樹は、近江の小村で私塾を開き、質素な生活の中で人々に道徳を説いた。彼は「孝」を最も重要な徳目とし、日常生活における実践を通して良知を発揮することを重視した。その教えは「近江聖人」として慕われ、多くの人々に影響を与えた。
藤樹の弟子である熊沢蕃山(くまざわばんざん)もまた、陽明学の代表的な学者である。蕃山は、岡山藩主池田光政に仕え、藩政改革を主導した。彼は陽明学の精神に基づき、身分制度にとらわれずに人材を登用し、治水事業や産業振興といった具体的な政策を通して、民衆の生活向上に努めた。蕃山は、知行合一の思想を政治実践へと結びつけ、陽明学が持つ実践的側面を明確に示したのである。
そして、朱子学・陽明学の思弁的な傾向に批判的な立場から、直接儒教の古典に立ち返ろうとしたのが、古学(こがく)である。古学は、朱子学や陽明学が宋代以降の解釈に過ぎないと捉え、孔子や孟子の原典に立ち返り、その真意を読み解こうとした。この学派は、山鹿素行(やまがそこう)、伊藤仁斎(いとうじんさい)、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の三者によって大成された。
山鹿素行は、朱子学を学んだ後、兵学と儒学を教授する中で、朱子学が中国の思想であり日本の実情に合わないと批判し、孔子・孟子の教えに回帰すべきだと主張した。彼は特に武士の倫理を重視し、武士が単なる戦闘者ではなく、社会の模範となるべき存在であるという「士道」の概念を提唱した。
京都で活躍した伊藤仁斎は、朱子学の「理気説」や「性即理」といった形而上学的な議論を退け、孔子の『論語』や孟子の『孟子』を直接研究した。仁斎は、儒教の本質を「仁愛」と「活発な活動」に見出し、人間関係における実践的な倫理を重視した。彼の学問は「古義学(こぎがく)」と呼ばれ、京都を中心に大きな影響力を持った。
そして、古学を最も体系的に深化させたのが、荻生徂徠(おぎゅうそらい)である。徂徠は、林家の門下で朱子学を学んだが、後に朱子学や仁斎の古義学をも批判し、孔子・孟子以前の古代中国の聖人たちの「道」(礼楽刑政)こそが、天下を治める真の道であると説いた。彼は、道とは人間が作ったものであり、自然の理ではないと考え、聖人が制定した具体的な制度や規範を研究することで、現実の政治を改善できると考えた。徂徠の学問は「古文辞学(こぶんじがく)」とも呼ばれ、その徹底した文献学的アプローチと、現実政治への関心は、当時の学界に大きな衝撃を与えた。彼の思想は、後の経世致用(けいせいちよう)の学や、幕末の改革思想にも影響を与えたのである。
このように、江戸時代の儒学は、幕府教学としての朱子学を基盤としつつも、陽明学の実践性、そして古学の原典回帰といった多様な展開を見せ、それぞれが日本の社会や思想に深く根を下ろしていった。これらの学派間の論争は、単なる学術的対立に留まらず、当時の社会が抱える問題意識や、理想とする社会像の違いを反映していたと言えるだろう。
日本の儒学は、中国大陸で生まれた思想を輸入しつつも、日本の歴史的・社会的文脈の中で独自の変容を遂げた。この変容は、大陸の儒学との比較において、その特徴をより明確にする。
中国における朱子学は、北宋の周敦頤、程頤・程灝兄弟を経て、南宋の朱熹によって大成された。その核心は、宇宙の根源原理である「理」と、個々の事物や現象を構成する「気」の概念を提示し、万物の生成変化から人間の本性までを一貫して説明しようとする壮大な宇宙論と形而上学にあった。また、「格物致知」による学問的探求と、「敬」による内面的な修養を重視し、聖人を目指す個人主義的な側面も強かった。科挙制度を通じて、朱子学は官僚登用の基準となり、知識人層の教養として深く浸透した。
これに対し、日本の朱子学は、当初から国家統治の理念としての性格が強かった。藤原惺窩から林羅山へと続く初期の朱子学は、戦乱の世を収め、安定した社会秩序を築くための「経世済民(けいせいさいみん)」の学として受容された。中国の朱子学が個人修養を通じた聖人への道を強調する一方、日本の朱子学は、将軍を頂点とする幕藩体制における「君臣の義」や「忠孝」といった縦の秩序を正当化する理論として機能した。例えば、林羅山が提唱した「儒家神道」は、朱子学の理の概念を日本の神道の神々に結びつけ、国家の起源と正当性を儒学的に説明しようとする試みであった。これは、中国には見られない、日本の固有の文化や信仰と儒学を結びつけようとする動きであり、儒学を単なる輸入思想ではなく、日本の文脈に適合させようとする努力の表れである。
また、日本の儒学は、仏教や神道といった在来の思想との関係においても、大陸とは異なる展開を見せた。中国では、朱子学が仏教や道教の形而上学を取り込みつつも、最終的にはそれらを異端として排斥する傾向が強かった。しかし、日本では、特に禅僧を通じて朱子学が伝来したこともあり、仏教との共存関係が長く続いた。山崎闇斎の垂加神道のように、儒学と神道を積極的に融合させようとする試みも日本の特徴である。これは、中国の儒学が「儒仏道三教合一」という形で他の思想とせめぎ合いながらも、最終的には儒教が主導権を握ったのに対し、日本では儒学が他の思想と柔軟に共存し、あるいは融合しながら独自の思想空間を形成していったことを示している。
さらに、古学の勃興も日本の儒学の独自性を示す好例である。荻生徂徠の古文辞学は、朱子学の観念的な形而上学を批判し、孔子や孟子の原典、さらには周の時代の「先王の道」に直接立ち返ることを主張した。徂徠は、道とは自然の理ではなく、聖人たちが社会を治めるために制定した「礼楽刑政」という具体的な制度であると考えた。この思想は、中国の儒学が普遍的な「天理」を追求する傾向が強かったのに対し、日本の儒学が現実の社会問題解決や具体的な政治制度の設計に深く関心を持ったことを示している。徂徠の学問は、中国の清代考証学と共通する文献学的アプローチを持ちながらも、その目的が現実の「経世済民」にあった点で、日本の儒学の独自性を際立たせている。
これらの比較から見えてくるのは、日本の儒学が、中国から輸入された普遍的な思想体系を、日本の特定の歴史的・社会的要請に応える形で「異種交配」させていったという事実である。普遍性よりも具体性、形而上学よりも実践性、そして排他的独占よりも在来の思想との共存。これらは、日本の儒学が、単なる模倣に終わらず、日本の思想史に深く刻み込まれる独自の思想として発展した証左と言えるだろう。
江戸時代の儒学は、幕府公認の学問としてだけでなく、藩校や私塾を通じて広く社会に浸透し、人々の生活や意識に深く影響を与えた。これは、儒学が単なる知識人の学問に留まらず、教育の基盤として機能したことの表れである。
幕府は、林家を筆頭に朱子学を教学の柱とし、昌平坂学問所(昌平黌)を設置して直轄の教育機関とした。ここでは、幕臣の子弟が儒学を学び、官僚としての素養を身につけた。しかし、儒学の普及はこれに留まらなかった。各藩においても、藩士の子弟を教育するために藩校が次々と設立された。例えば、岡山藩の「花畠教場」(熊沢蕃山が関与)、米沢藩の「興譲館」、水戸藩の「弘道館」などが有名である。これらの藩校では、朱子学が正統とされつつも、藩によっては陽明学や古学、国学なども教授され、多様な学問が併存する場となった。藩校は、単に知識を教えるだけでなく、武士としての倫理観や忠誠心を涵養する役割も担っていた。
藩校が武士階級の教育を担った一方で、庶民の教育を支えたのが私塾や寺子屋である。寺子屋では読み書き算盤が中心であったが、私塾では儒学の初歩的な教えが広く学ばれた。中江藤樹の「藤樹書院」や、伊藤仁斎の「古義堂」、荻生徂徠の「蘐園塾(けんえんじゅく)」などがその代表例である。これらの私塾には、身分を問わず多くの人々が学びに来た。特に、陽明学の中江藤樹は、近江の農村で「孝」を説き、実践的な道徳を人々に教えた。彼の教えは、農民や商人といった庶民の生活倫理に深く根ざし、儒学が階級を超えて浸透する一因となった。
儒学の普及は、社会全体に倫理規範としての影響を与えた。朱子学の「五倫の教え」(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の間の道徳)は、武士道精神の根幹をなし、また、家族制度や村落共同体における人間関係の基盤としても機能した。忠孝の精神は、個人の行動規範として重んじられ、社会の安定に寄与した。例えば、武士の家訓や、農村における「村掟」の中にも、儒学的な倫理観が色濃く反映されている。
しかし、儒学の社会への浸透は、単に秩序維持に貢献しただけでなく、新たな思想的動向を生み出すきっかけともなった。幕末期になると、朱子学の大義名分論は、尊王攘夷運動の思想的根拠として利用され、幕府体制を揺るがす力となった。吉田松陰の「松下村塾」では、朱子学、陽明学、国学などが混然一体となって教えられ、明治維新を担う多くの志士を輩出した。彼らは、儒学から得た知識や倫理観を基盤として、日本の未来を憂い、行動を起こしたのである。
このように、江戸時代の儒学は、幕府の政策、藩の教育、そして庶民の生活倫理に至るまで、多岐にわたる側面で日本社会に深く根を下ろした。それは、単に中国の思想を模倣するのではなく、日本の風土や社会状況に合わせて解釈され、実践されていった結果である。藩校や私塾という多様な教育機関が、その思想の普及と定着に決定的な役割を果たしたと言えるだろう。
明治維新は、日本の近代化を推し進める中で、それまでの儒学を中心とした思想体系に大きな転換を迫った。しかし、儒学は完全に消滅したわけではなく、形を変えて近代日本に影響を与え続けた。
維新の原動力となった尊王攘夷運動は、朱子学の「大義名分論」や「忠君思想」を思想的基盤の一つとしていた。例えば、水戸学派の藤田東湖や会沢正志斎は、朱子学的な忠誠と日本の国体論を結びつけ、天皇を中心とする国家統一を主張した。吉田松陰もまた、陽明学的な実践主義と朱子学的な忠誠心を兼ね備え、幕末の志士たちに大きな影響を与えた。彼らにとって儒学は、単なる学問ではなく、国家の危機を救うための行動原理であった。
しかし、明治政府が成立すると、西洋の近代思想が積極的に導入され、儒学は一時的に「旧弊な思想」として批判の対象となる。福沢諭吉のように、儒学的な身分制度や封建的倫理を批判し、個人の自由と平等を説く思想家も現れた。大学の教育課程からも儒学は外され、西洋哲学や科学が主流となった。この時期、儒学は「学問」としての地位を大きく後退させたのである。
一方で、儒学が持つ倫理的側面は、近代日本の国家形成において別の形で再評価された。明治政府は、西洋の制度を導入しつつも、国民の精神的統合を図るため、儒教的倫理、特に「忠孝」の精神を重視した。その象徴が、明治23年(1890年)に発布された教育勅語である。教育勅語は、儒教の五倫の教えを基盤とし、「忠」と「孝」を国民道徳の最高規範として位置づけた。これは、儒学が持つ規範意識が、近代国家の国民道徳として再編された例と言える。学校教育では、修身科を通じて教育勅語が徹底され、儒教的倫理観は国民の間に広く浸透した。
さらに、実業界においても、儒学は重要な役割を果たした。渋沢栄一は、『論語と算盤』を著し、儒教の道徳(論語)と資本主義経済(算盤)の融合を説いた。彼は、私利私欲を追求するだけでなく、公共の利益を重んじる「義」の精神が、健全な経済活動には不可欠であると考えた。これは、儒学が持つ倫理観が、近代経済活動の精神的基盤として再解釈された例であり、現代日本の企業倫理や経営哲学にもその影響を見出すことができる。
第二次世界大戦後、教育勅語は廃止され、儒学は公的な教育の場から姿を消した。しかし、家族制度における年長者への敬意、組織における上下関係、集団内の調和を重んじる姿勢など、儒学が培ってきた価値観は、日本人の行動様式や社会意識の深層に、無意識のうちに残り続けている。これは、儒学が単なる外来の思想としてではなく、日本の風土の中で深く根を下ろし、日本人の精神性の一部として定着した証拠である。儒学は、近代化の波の中でその姿を変えつつも、その遺産は現代日本社会の様々な側面に静かに息づいているのである。
日本の儒学、特に朱子学の歴史を辿ると、そこには常に「普遍的な真理」と「日本固有の現実」との間の緊張関係が見て取れる。中国大陸で完成された宇宙論や倫理体系が、海を渡り、日本の土壌に根を下ろす過程で、それは単なる模倣に終わることなく、独自の問いと回答を生み出してきた。
まず、日本の儒学は、その受容の初期から「経世済民」という実践的な側面に強く傾倒していた。中国の朱子学が宇宙の根源原理である「理」の探求や、個人修養を通じた聖人への道を重視したのに対し、日本の儒学者は、戦乱の世を収め、安定した社会秩序を築くための具体的な方策を求めた。林羅山による幕府教学としての朱子学の確立は、その典型であり、将軍を頂点とする幕藩体制の正当化に朱子学の「大義名分論」が利用された。これは、普遍的な倫理を特定の政治体制に適用しようとする試みであり、その過程で、忠誠心が個人の内面的な修養よりも、社会的な秩序維持の徳目として強調される傾向が強まったと言える。
次に、日本の儒学は、在来の思想や文化との融合を積極的に試みた点も特徴的である。山崎闇斎の垂加神道は、朱子学の「理」の概念を日本の神道に結びつけ、神道の教えを儒学的に体系化しようとした。また、林羅山による儒家神道の提唱も、日本の神々を儒学の枠組みで解釈する試みであった。これは、中国の儒学が仏教や道教を排斥する傾向があったのに対し、日本では儒学が他の思想と柔軟に共存し、あるいは融合しながら、日本独自の精神性を探求する手段となったことを示している。このような異種交配は、儒学が日本の風土に深く根を下ろすための戦略でもあっただろう。
さらに、江戸時代中期に現れた古学の思想は、朱子学や陽明学の解釈学的な側面を批判し、孔子や孟子の原典に立ち返ろうとした。荻生徂徠の古文辞学は、儒教の「道」を自然の理ではなく、古代の聖人たちが社会を治めるために制定した「礼楽刑政」という具体的な制度と捉え、現実の政治改革を志向した。この思想は、普遍的な「天理」を追求する中国の儒学に対し、日本の儒学が具体的な「制度」や「規範」の探求へと向かったことを示している。それは、観念的な議論よりも、現実的な問題解決に資する学問としての儒学を追求する姿勢の表れであった。
明治維新以降、儒学は一旦その公的な地位を失ったものの、教育勅語や渋沢栄一の『論語と算盤』に見られるように、その倫理観は近代日本の国民道徳や企業倫理の形成に間接的に影響を与え続けた。これは、儒学が持つ普遍的な道徳原理が、時代や体制の変化を超えて、日本人の心の奥底に深く刻み込まれていたことの証左である。
日本の儒学の歴史は、普遍的な思想体系を、特定の文化や社会の文脈の中でいかに受容し、変容させ、そして新たな意味を与えていくかという、知的格闘の記録である。それは、単に過去の学問としてだけでなく、現代社会において、グローバルな価値観とローカルなアイデンティティの狭間で揺れ動く私たちに、未だ多くの問いを投げかけている。普遍的な「道」を日本固有の「道」として捉え直そうとした先人たちの試みは、思想が生き物のように変化し、土地の条件によって多様な姿を見せることを示しているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。