2026/6/2
水戸で納豆が名物になったのはいつから?大豆の味は関係ある?

水戸で納豆が有名なのはなぜ?いつから?水戸の大豆は美味いのか?
キュリオす
水戸駅に漂う納豆の香りの秘密を探る。納豆発祥の伝説から、明治時代の鉄道開通と土産物としての普及、そして現代のブランド化に至るまでの経緯を辿る。
水戸駅の改札を出ると、独特の香りが鼻腔を抜けることがある。それは、発酵食品特有の、どこか懐かしいような、それでいて力強い匂いだ。観光客向けの土産物店が並ぶ一角では、見慣れた藁苞(わらづと)に包まれた納豆が積み上げられ、その存在感を主張している。水戸といえば納豆、という認識は多くの日本人にとって当たり前のものだが、なぜこの地が納豆の代名詞となったのか、いつからその名声が確立されたのか、そして水戸で使われる大豆は、本当に特別なのだろうか。その問いを抱えて、この地の歴史と現状を辿ってみる。
納豆の起源は、諸説あるものの、その多くが平安時代後期にまで遡るとされる。最も広く知られているのは、源義家が奥州征討の途上、水戸に近い水沼の地(現在の茨城県常陸太田市)で偶然納豆が生まれたという伝説である。後三年の役(1083-1087年)の際、義家が兵士の馬糧として煮た大豆を藁苞に入れていたところ、残りが自然発酵して糸を引くようになった。これを食べてみたところ、その美味しさと栄養価の高さから、兵士の食料として重宝されたという逸話だ。この「水沼の納豆」の物語は、水戸納豆のルーツを語る上でしばしば引用されるが、あくまで伝説の域を出ない。
実際に納豆が一般的な食品として広まるのは、室町時代から戦国時代にかけてのことで、寺院での保存食や精進料理の材料として用いられた記録が残る。江戸時代に入ると、庶民の食卓にも登場するようになり、特に水戸藩では、かつて水戸光圀が納豆を好んだという話も伝わっている。しかし、この時点では水戸が特に納豆で名を馳せていたわけではない。水戸納豆が「名物」として全国に知られるようになるのは、明治時代以降、特に鉄道の開通と密接に関わっている。1889年(明治22年)に水戸鉄道(後の常磐線)が開通し、水戸が東京と結ばれると、土産物としての需要が生まれた。この時、水戸の食品業者たちが、日持ちが良く、手軽に持ち運びできる納豆に着目したのだ。
水戸が納豆の産地として名を確立した背景には、複数の要因が複雑に絡み合っている。まず、明治期に鉄道が開通し、水戸が東京圏と直結したことが大きい。新たな交通網は、それまで地域内で消費されていた産品を、遠隔地へ運ぶことを可能にした。この機会を捉えたのが、水戸の食品業者たちである。彼らは、藁苞という伝統的な容器に納豆を詰め、駅のホームや車内で販売することで、旅の土産物としての地位を築いた。この販売戦略は、当時の他の地域産品には見られない積極的なものであり、鉄道網の発展と相まって、水戸納豆の名を全国に広める原動力となった。
さらに、水戸の気候風土も納豆製造に適していたとされる。納豆菌は、高温多湿の環境で活発に活動するため、夏は暑く、冬は比較的温暖な水戸盆地の気候は、発酵食品の製造に適していたのだ。また、納豆の製造に欠かせない良質な地下水が豊富であったことも、生産体制を支える要素となった。しかし、最も決定的な要因は、やはり「藁苞」というパッケージと、それを土産物として売り出すというアイデアだったと言える。藁には納豆菌が付着しており、自然な発酵を促す効果がある。この古くからの知恵と、新しい流通経路が結びついたことで、水戸の納豆は単なる食品から「水戸の顔」へと昇格していったのだ。
水戸納豆の「大豆」について考えるとき、多くの人が「水戸で採れた特別な大豆を使っているのではないか」というイメージを持つかもしれない。しかし、全国に流通する水戸納豆の多くは、必ずしも茨城県産の大豆のみを使用しているわけではない。納豆の原料となる大豆は、その年の収穫量や品質、価格によって、国内外から調達されるのが一般的である。国産大豆としては、北海道産や東北地方産の大豆が多く用いられ、海外産ではアメリカやカナダからの輸入大豆も少なくない。これは水戸に限らず、全国の納豆メーカーに共通する実情だ。
他の地域にも納豆の名産地は存在する。例えば、東北地方には古くから家庭で納豆を作る文化が根付いており、秋田県横手市は「横手納豆」として知られる。また、京都の「都納豆」のように、特定の地域で独自の製法や食文化を持つ納豆もある。これらの地域では、その土地で採れた大豆が使われることもあるが、流通網が発達した現代においては、安定供給やコストの観点から、大豆の産地は多様化している。水戸納豆の特異性は、大豆の産地というよりも、むしろその「ブランド化」と「流通戦略」にあったと言えるだろう。かつては藁苞に付着した納豆菌が発酵の決め手だったが、現在では純粋培養された納豆菌を使用することが一般的である。この変化は、品質の安定と大量生産を可能にした一方で、地域固有の「風土」が納豆の味に与える影響は、かつてより小さくなっているのかもしれない。
現代の水戸市内には、複数の納豆メーカーが軒を連ね、それぞれの製法やブランドを確立している。大手メーカーから、昔ながらの藁苞納豆にこだわる小規模な工房まで、その形態は多様だ。観光客が水戸を訪れると、駅ビルや土産物店で様々な種類の納豆を目にすることができる。藁苞納豆はもちろんのこと、カップ納豆やフリーズドライ納豆、さらには納豆を使った菓子など、その加工品も多岐にわたる。これは、納豆が単なる食品としてだけでなく、水戸の文化や観光資源として、今もなお重要な役割を担っている証拠だろう。
一方で、後継者問題や原材料の高騰といった課題も抱えている。伝統的な藁苞納豆の製造には手間がかかり、熟練の技術が必要とされるため、担い手の育成は喫緊の課題だ。また、国産大豆の価格変動は、メーカーの経営に直接的な影響を与える。こうした状況に対し、各メーカーは新たな商品開発や販路の開拓、あるいは工場見学の実施など、様々な試みを行っている。地域の小学校では納豆作り体験が行われるなど、食育の観点からも納豆文化の継承が図られている。水戸の納豆は、単なる過去の遺産ではなく、現代の食文化の中で常に変化し、生き続けているのだ。
水戸で納豆が有名になったのは、平安時代の伝説的な発祥が語り継がれてきたことだけでなく、明治以降の鉄道開通という近代的な流通網が整備された時期に、土産物として積極的に売り出されたことが大きな要因だった。水戸の大豆が特別に美味いから、というよりは、むしろ「水戸で納豆が作られた」という事実と、それを支える気候、そして何よりも「藁苞に包まれた納豆を旅のお供にする」という文化的な価値提案が、この地を納豆の代名詞へと押し上げたと言えるだろう。
大豆の産地が多様化した現代において、水戸納豆の「水戸らしさ」は、もはや特定の土壌や品種に限定されるものではない。むしろ、古くからの伝承を大切にしつつ、時代に合わせて柔軟に変化してきた生産者の工夫と、それを支える人々の認識そのものが、水戸納豆を「名物」として成り立たせている。水戸の納豆は、発酵食品の奥深さだけでなく、地域ブランドがいかに形成され、維持されていくかを示すひとつの事例なのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。