2026年5月19日
下関のバラック街「トングルトンネ」はどのように生まれたのか
終戦直後の下関で、空襲により壊滅した市街地に人々が築いたバラック街。特に朝鮮半島からの人々が多く住んだ「トングルトンネ」の形成と、復興計画との乖離、そして現代に残る痕跡について辿る。
焼け跡に残る生活の痕跡
下関駅に降り立つと、関門海峡を渡る風が歴史の重みを運んでくる。本州の最西端に位置するこの港町は、古くから朝鮮半島や大陸への玄関口として栄え、多くの人や物資が行き交った土地である。しかし、その繁栄の裏には、戦争という大きな傷跡が刻まれている。終戦直後、焦土と化した市街地には、急ごしらえのバラックが立ち並び、人々はそこから新たな生活を築き始めた。それは、観光パンフレットには載らない、しかしこの町の歴史を語る上で欠かせないもう一つの風景だったのだ。
終戦という転換点
1945年(昭和20年)8月15日、日本の敗戦は下関の町に大きな混乱をもたらした。同年6月29日と7月2日の二度にわたる空襲で、市街地のほぼ全域が焼き尽くされ、壊滅的な被害を受けていたのである。当時の下関市の人口は空襲直前の21万2000人から、直後には15万5000人にまで激減したともいわれる。
そして、下関は外地からの引揚者の主要な上陸港の一つに指定された。終戦から約4年間で、軍人軍属を含む624万人もの日本人が外地から帰還したが、その多くが下関のような港町にたどり着いたのである。しかし、関門海峡には沈没船や機雷が残っていたため、当初は長門市の仙崎港が引揚港として機能した時期もあったという。それでも、下関の駅周辺には帰国を待つ人々や戦災孤児、浮浪者が集まり、食糧難の深刻化と相まって、闇市が立ち並ぶ無法地帯に近い状態が生まれた。
闇市と「トングルトンネ」の形成
敗戦によって生活基盤を失った人々は、焼け残った資材や手に入るものを寄せ集め、駅周辺や港の近くにバラックを建てて住み始めた。これらは単なる仮設住宅ではなく、闇市での商売の場でもあり、生活の拠点そのものだった。特に、旧大坪町(現在の神田町)一帯には朝鮮半島から渡って来た人々が多く集住し、「トングルトンネ(糞窟村)」と呼ばれるバラック集落が形成されたという。この呼称は、当時の下水設備の未整備による劣悪な衛生環境に由来するとされている。
トングルトンネの道は車一台がやっと通れるほどの細い坂道で、家々は不規則な向きに建てられ、その隙間には小さな畑が作られていたという。食糧難が深刻な時代にあって、人々は空き地を利用して野菜を育て、日々の暮らしを必死に支えていたのである。闇市では米や甘諸以外の食料品が取引され、人々は厳しい状況の中でも食料を求めた。また、昭和3年には朝鮮半島から渡来した人々の保護救済施設として「昭和館」が大坪地区に設置されており、この地域が戦前から朝鮮半島との関わりが深かったことを示している。
