2026/6/28
串本の歴史は、黒潮とトルコ軍艦遭難が結んだ「縁」の記憶だった

和歌山の串本の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
和歌山県串本町の歴史は、黒潮の恵みと本州最南端の地理的条件が育んだ。中世から港町として栄え、江戸時代には廻船の寄港地となった。明治時代のトルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件では、島民の献身的な救助活動が両国を結びつけた。
橋杭岩に立つ波の音
本州最南端の地、和歌山県串本町。ここを訪れると、まず目に飛び込んでくるのは、海中に整然と並ぶ奇岩群「橋杭岩」だろう。その姿は、まるで巨大な橋の杭が打ち込まれたかのように見える。波が打ち寄せるたびに、岩肌に砕ける飛沫の音だけが響き、悠久の時を思わせる。この景観は、弘法大師が一夜にして橋を架けようとしたが、天邪鬼に邪魔されて未完成に終わったという伝説も持つ。しかし、この伝説の裏には、約1400万年前の地質活動に起因する壮大な自然の営みがあるのだ。
串本の地名は、細長く突き出した半島状の地形に由来すると言われている。「串」は岬や砂州、半島を意味し、「本」は根元や中心地を指す。 この名が示す通り、串本は古くから太平洋に突き出した地理的条件によって、独特の歴史を刻んできた。黒潮が直接打ち寄せる温暖な気候は、豊かな漁場をもたらし、同時に海上交通の要衝としても機能した。 しかし、その恵みは同時に、時に荒れ狂う海の厳しさをも意味していた。この地が「海の難所」として知られ、多くの海難事故の舞台ともなったことは、その歴史を語る上で避けて通れない事実である。
黒潮が刻んだ航路と人々の営み
串本の歴史を紐解くと、その地理的条件が常に人々の営みに深く影響を与えてきたことがわかる。中世にはすでに「串本」の地名が確立されており、熊野水軍や紀伊沿岸航路の拠点となる港集落として発展していたという。 紀伊半島を巡る海上交通において、本州最南端に位置する串本は、風待ちや避難のための天然の良港として機能したのである。
江戸時代に入ると、串本は紀州藩領の漁村・港町としてさらにその存在感を増した。 大坂と江戸を結ぶ菱垣廻船や樽廻船の定期航路が寛永元年(1624年)に始まると、紀伊大島は重要な寄港地となり、周辺の浦々で獲れた鰹節や海産物が集められ、廻船で大坂や江戸へと運ばれていった。 大島には船宿が軒を連ね、明治10年頃には32軒もの船宿と6軒の旅館があったと記録されており、商業と漁業が活発な港町であったことがうかがえる。 本土側の串本浦もまた、慶長6年(1601年)の検地帳に家数24とあるが、江戸後期には家数404、人数1,789にまで増加しており、鰹漁を中心に急速な発展を遂げた漁村であったことがわかる。 潮風の強いこの地では、家々に寒竹が植えられ、一般的な漁村とは異なる独特の景観を呈していたという。
近代に入ると、串本の歴史に大きな転換点をもたらす出来事が起こる。明治23年(1890年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦「エルトゥールル号」が、台風による強風と高波のため紀伊大島の樫野埼沖で座礁・沈没したのだ。 この大海難事故では500名以上の乗組員が犠牲となったが、地元の住民たちは献身的な救助活動を行い、69名の生存者を救出した。 この出来事は、遠く離れた日本とトルコとの間に深い友好関係を築くきっかけとなり、今日に至るまで語り継がれている。 遭難現場を見下ろす樫野埼には、殉難将士の慰霊碑が建立され、5年ごとに追悼式典が催されている。
また、鎖国が解かれた明治初期には、海上交通の安全を確保するため、潮岬と紀伊大島の樫野埼に日本最古の石造り灯台の一つとされる樫野埼灯台が建設された。 これは、国際的な航路における日本の役割の変化を示す象徴的な出来事でもあった。
三つの偶然と海の要衝
串本が海上交通の要衝として、また漁業の町として発展した背景には、複数の地理的・歴史的要因が偶然のように重なり合った結果がある。一つ目は、本州最南端という地理的な位置である。 紀伊半島が太平洋に突き出す形は、黒潮の恵みを直接受けることを意味し、年間平均気温が17℃前後と温暖で、冬季でも雪を見ることはほとんどない。 この温暖な気候と、黒潮と沿岸流が交わる「潮目」が形成されることで、カツオやマグロ、アジ、サバ、イワシなど多様な暖流系の魚が集まる好漁場が生まれた。 また、荒磯が続く地先ではイセエビやアワビ、根付き魚が豊富に獲れ、年間を通じて漁獲物に恵まれていたのである。
二つ目の要因は、複雑に入り組んだリアス式海岸と、それに伴う天然の良港の存在だ。 潮岬や紀伊大島といった地形は、時に荒れる熊野灘において、風待ちや避難のための安全な停泊地を提供した。特に紀伊大島の大島港は、古くから避難港として賑わい、「廻船ここに泊して風候を待つ者常に十百群をなす」と江戸末期の「紀伊続風土記」に記されるほどであった。 こうした地形的な利点は、遠洋航海が一般的でなかった時代において、海上交通の結節点としての役割を強化したと言える。
三つ目は、江戸時代における紀州藩の政策と、それに伴う経済的発展である。紀州藩領として、大坂や江戸への海産物輸送拠点となったことで、串本や大島は単なる漁村に留まらず、商業活動も活発な港町へと成長した。 鰹節をはじめとする加工品が廻船によって各地へ運ばれ、物資の集散地として栄えたのである。この時代、串本は口熊野江田組に属し、大島・須江・樫野は古座組に属していた。 それぞれの地域が漁業や商業の拠点として機能し、地域経済を支えていたことがわかる。
これらの地理的条件と歴史的経緯が複合的に作用し、串本は単なる本州最南端の地というだけでなく、海と共に生き、海によって栄えた独自の文化を育んできたのだ。
遥か異国の難破船が結んだ絆
串本の歴史を語る上で、明治23年(1890年)のエルトゥールル号遭難事件は、単なる海難事故以上の意味を持つ。オスマン帝国からの親善使節団を乗せた軍艦が、台風により紀伊大島沖で座礁、沈没し、587名もの犠牲者を出したこの悲劇は、しかし同時に日本とトルコという遠く離れた二つの国を結びつける契機となった。
この事件における串本町大島島民の行動は、特筆に値する。彼らは荒れ狂う嵐の中、自らの危険を顧みず、遭難者の救助に奔走した。 衣服を脱ぎ、焚き火で暖め、食料や水を提供し、手厚く看護したという。生存者69名が救出されたのは、ひとえに彼らの献身的な活動の賜物であった。 この出来事は、トルコ国内でも長く語り継がれ、一時は教科書にも掲載されたほどだという。
後の時代、イラン・イラク戦争中の1985年には、テヘランに取り残された日本人を救出するため、トルコ航空機が救援に駆けつけるという「エルトゥールル号の恩返し」とも呼ばれる出来事があった。 タイムリミットが迫る中、トルコは自国民の避難を後回しにして日本人を救出し、この際にトルコ大使が「トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」と語ったという逸話は、両国の絆の深さを象徴している。
串本には、遭難現場を見下ろす樫野埼に「トルコ軍艦遭難慰霊碑」が建立され、5年ごとに追悼式典が執り行われている。 2008年には、当時のトルコ大統領が初めて串本を訪問し、式典に参加した。 地元の小中学校では月命日に献花が行われるなど、この歴史的な出来事は今もなお、地域の人々の心に深く刻まれているのだ。
ケンケン漁と宇宙港が交差する現在地
現在の串本町は、その豊かな自然と歴史的背景を活かし、様々な形で地域振興に取り組んでいる。本州最南端の地である潮岬には、望楼の芝生と潮岬灯台が広がり、地球の丸さを実感できる景観が観光客を惹きつける。 黒潮が直接接岸するため、真冬でも水温が15℃を下回ることが少なく、温帯と熱帯の生物が混在する独特の海中景観は、スキューバダイビングのメッカとしても知られている。 また、1970年には日本で最初の海中公園に指定された串本海中公園センターがあり、水族館や海中展望塔を通じて、串本の豊かな海の生態系を学ぶことができる。
漁業においては、古くからカツオの「ケンケン漁」発祥の地として知られてきた。 ケンケン漁とは、船を走らせながら疑似餌でカツオを一尾ずつ釣り上げる漁法で、最盛期には町内外から約800隻もの釣り船が集まる関西有数の基地であった。 近年の漁獲量減少という課題に直面しながらも、串本町ではケンケン漁で水揚げされたカツオを「しょらさん鰹」としてブランド化し、地域経済の活性化を図っている。
さらに、串本は新たな挑戦の地としても注目されている。2021年には、民間による日本初のロケット発射場「スペースポート紀伊」が建設され、宇宙産業の拠点としての可能性を秘めているのだ。 これは、古くから海上交通の要衝として、また漁業の町として発展してきた串本の歴史に、新たな「空の道」を加える試みと言えるだろう。海と空、二つのフロンティアが交差する地点として、串本は現代における役割を模索している。
海と大地が織りなす「縁」の記憶
串本の歴史を振り返ると、そこには常に海と大地、そして人々の「縁」が深く刻まれていることに気づかされる。橋杭岩の奇観が1400万年前の地質活動に由来するように、この地の成り立ちは、太古の地球の営みと不可分である。その上に、黒潮がもたらす豊かな海の恵みと、本州最南端という地理的条件が重なり、古くから海上交通の要衝として、また漁業の拠点として発展してきた。
エルトゥールル号遭難事件は、地理的には遠く離れたトルコとの間に、国境を越えた深い「縁」を結びつけた。それは、災害という悲劇的な出来事を通じて、人間の普遍的な善意と助け合いの精神が発揮された記憶として、今もなお地域に根付いている。単なる外交関係の構築ではなく、具体的な人々の行動が、世代を超えて語り継がれる絆を生み出したのだ。
現代の串本は、伝統的な漁業を守りながら、宇宙港という未来への扉を開いている。この一見異質な二つの要素が共存する背景には、常に新しいものを受け入れ、厳しい自然環境の中で生き抜いてきたこの地の歴史がある。海を通じて世界と繋がり、海から恵みを受け、そして海を越えて助け合う。串本の歴史は、その地名が示す「細長く突き出した場所」が、実は多様な繋がりを生み出す「結節点」であったことを静かに物語っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。