2026/5/28
伊豆の廣瀬神社は三嶋大社の元宮?遷座の謎を辿る

伊豆の廣瀬神社について知りたい。三嶋大社が元々あった場所と聞いた。どういう意味?
キュリオす
伊豆の廣瀬神社に伝わる「三嶋大社元宮」の伝承。三嶋大社は伊豆諸島から白浜、廣瀬を経て現在の三島へ遷座したとされる。この遷座の背景には、信仰の変遷や地理的・政治的要因が関わっていた。
三嶋大社の創建は詳らかではないが、その鎮座地については古くから諸説が唱えられてきた。現在、通説として知られているのは、伊豆諸島、特に三宅島周辺の「賀茂郡三島郷」に始まり、次いで伊豆半島の南端に近い賀茂郡「大社郷白浜」(現在の伊古奈比咩命神社付近)へと移り、最終的に現在の三島市(当時の田方郡小河郷)に遷座したというものだ。この「海から陸へ」という移動の物語は、伊豆諸島の噴火による造島信仰や、伊豆半島と諸島を結ぶ海上交通の信仰を背景としているとされる。
特に重要なのは、平安時代初期に編纂された『延喜式神名帳』に「伊豆三嶋神社」が賀茂郡に所在すると記されている点である。現在の三嶋大社がある三島市は当時、田方郡に属していたため、この記述は、平安時代の中頃以降に現在の地へ移った可能性を示唆している。伊豆の国府が現在の三島市付近にあったことから、国府の近くに主要な神社を置く必要性があったのかもしれない。源頼朝が伊豆に流された際、三嶋大社に戦勝を祈願し、源氏再興を成し遂げたことは広く知られているが、その頃にはすでに現在の地に鎮座していたようだ。
伊豆の国市田京に鎮座する廣瀬神社は、『延喜式神名帳』に記される式内社であり、古くからこの地域の重要な社であった。その祭神は、三嶋大社の祭神である三嶋大神の后神とされる溝樴姫命(みぞくいひめのみこと)を主とする。廣瀬神社の社伝によれば、三嶋大社は下田の白浜から現在の三島へ遷座する途上、一時的にこの廣瀬の地に祀られていたという。この伝承は、三嶋大社が白浜から現在の地へ移る際の経路として、廣瀬神社が位置付けられていたことを意味する。
廣瀬神社が一時的な遷座先として選ばれた背景には、この地の歴史的な重要性が挙げられるだろう。当時、廣瀬神社は「田方一の大社」と称されるほどの大社であり、天平年間(729-749年)の創建とも伝えられる古社である。また、三嶋大神の后神を祀ることから、三嶋信仰と深く結びついていたことは想像に難くない。現在の三嶋大社が田方郡に遷座するにあたり、既存の有力な三嶋系神社がその受け皿となった可能性は十分にある。この地が「国府」と現在の三島市の間に位置することも、その役割を補強する要因だったかもしれない。
三嶋大社が現在の三島市に鎮座するに至る過程では、いくつかの要因が重なり合ったと考えられる。まず、伊豆国の国府が現在の三島市付近に置かれていたことから、国府の近くに国の中心となる神社を配置しようとする動きがあっただろう。これは、国家的な祭祀を円滑に行うため、また、国司が参拝しやすい地理的条件を求めるためである。古代において、中央の権力は地方の有力神社を通じてその支配を確立しようとした側面も持つ。
一方、廣瀬神社が一時的な遷座先となったのは、その地の利と既存の権威によるものと推測できる。白浜から内陸へ向かう主要な街道沿いに位置し、かつ三嶋大神の后神を祀る由緒ある大社であったため、三嶋大神を一時的に迎えるにふさわしい場所と見なされたのだろう。しかし、最終的に三嶋大社が現在の三島市に落ち着いたのは、より広範な地域の中心性や、交通の要衝としての優位性、さらには湧水が豊かな清らかな地であったことなど、複数の要素が複合的に作用した結果ではないか。この一連の遷座は、単なる物理的な移動ではなく、信仰の形や政治的・地理的中心地の変遷を映し出すものだと言える。
廣瀬神社の伝承を理解する上で、他の地域の「一宮」や「元宮」のあり方と比較すると、その意味合いがより明確になる。例えば、全国各地の一宮には、時代や勢力の変遷によって複数の神社が一宮を称するケースや、本宮と奥宮・里宮が異なる場所に存在するケースが見られる。また、特定の神が複数の場所を「遷座」したという伝承を持つ神社も少なくない。これらは、信仰が単一の場所にとどまらず、人々の移動や生活圏の拡大、あるいは政治的・社会的な要請に応じて形を変えてきたことを示している。
三嶋大社の遷座物語も、まさにこの重層性の一例だ。伊豆諸島から白浜、そして廣瀬を経て現在の三島へという流れは、三嶋信仰が海神信仰から国土開発の神へとその性格を広げ、陸上での展開を強めていった過程とも読み取れる。廣瀬神社が「元宮」として語られることは、三嶋大社が現在の地に直接現れたのではなく、幾つもの重要な拠点を経てその権威を確立していった歴史の痕跡だと言えるだろう。この伝承は、中心となる大社だけでなく、その周辺に存在する古社の歴史にも光を当て、地域全体の信仰の広がりを教えてくれる。
現在の廣瀬神社は、伊豆箱根鉄道田京駅から徒歩圏内にあり、県道19号線からもアクセスしやすい場所にある。境内にはクスノキやムクノキなどの豊かな社叢が広がり、「広瀬神社の杜」として伊豆の国市の天然記念物に指定されている。毎年11月3日には例大祭が行われ、大仁町指定無形文化財の「式三番」が奉納されるなど、地域に根ざした祭祀が今も受け継がれている。社殿は天正18年(1590年)の豊臣秀吉による韮山城攻めの兵火で焼失した後、慶長元年(1596年)に再建されたものだ。
訪れる者は、豊かな緑に囲まれた静謐な空間で、古代から続く信仰の深さに触れることができる。三嶋大社の華やかさとは異なる、しかし確かに歴史の重みを宿したこの場所は、地域の人々にとっての鎮守であり続けてきた。社殿の背後に控える木々が、幾度となくこの地の歴史を見守ってきた証のようにそびえ立つ。廣瀬神社に伝わる「三嶋大社元宮」の伝承は、単なる過去の物語ではなく、現在の風景の中に、脈々と続く信仰の連続性を感じさせるものだ。
廣瀬神社に伝わる三嶋大社の「元宮」としての伝承は、伊豆の信仰が固定されたものではなく、時代や人々の営みと共に形を変え、場所を移してきたことを示している。三嶋大社が伊豆諸島から白浜、そして廣瀬を経て現在の三島へと遷座したという物語は、単に「海から陸へ」という地理的な移動だけでなく、神の性格や信仰の中心が、海上交通の守護から国土開発、そして政治の中心地へと変遷していった過程を象徴している。
廣瀬神社が一時的な鎮座地であったという事実は、三嶋大社という大いなる存在の背後に、多くの「小さな」場所や、そこで営まれてきた信仰の積み重ねがあったことを教えてくれる。伊豆の歴史を紐解けば、中心的な大社の陰に隠れがちな、こうした古社の役割や、地域に根ざした信仰の息遣いが見えてくるだろう。それは、現代に生きる私たちに、信仰の形が常に移ろいゆくものであること、そして、その移ろいの中にこそ、土地ごとの深い歴史が刻まれていることを静かに語りかけている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。