2026/6/23
山梨の黒曜石交易と甲斐源氏の勃興:古代から平安時代の地域史

山梨県の歴史について詳しく教えてほしい。古代から平安時代まで。
キュリオす
山梨県は古代、黒曜石の交易拠点として栄え、縄文時代から広域ネットワークを形成。古墳時代には銚子塚古墳が築かれ、律令制下では馬の産地として中央に貢献。平安時代には甲斐源氏が台頭し、地域の力を育んだ。
山塊に抱かれた盆地の太古
甲府盆地の中央に立つと、周囲をぐるりと山々に囲まれていることに気づく。南には富士山、西に南アルプス、北には八ヶ岳と秩父山地。この山塊に閉ざされた地形が、古くからこの地に住む人々の暮らしと文化をどのように形作ってきたのか、その疑問は尽きない。現代の高速交通網が発達する以前、この盆地は孤立していたのか、それとも独自の交流圏を築いていたのか。古代から平安時代にかけての甲斐の国には、その問いを解く鍵が隠されている。
黒曜石が拓いた縄文の道
山梨の歴史は、まず黒曜石を抜きにして語れない。八ヶ岳南麓から富士山にかけて広がる地域は、日本列島有数の黒曜石産地であり、特に「星ヶ塔」「和田峠」「麦草峠」といった産地は質・量ともに優れていた。縄文時代、人々はこの硬く鋭利な石器の材料を求めて、遠くからこの地を訪れたという。県内には、縄文草創期から晩期に至るまで、数多くの遺跡が残されており、特に南アルプス市にある御勅使川扇状地では、大規模な集落跡や環状列石が発見されている。
縄文時代前期には、既に黒曜石の広域的な流通ネットワークが形成されていたことが、出土する石器の分析から明らかになっている。例えば、山梨県産の黒曜石は、遠く離れた関東地方や東海地方、さらには東北地方の遺跡からも見つかっているのだ。これは、単なる物々交換に留まらず、特定のルートや交易集団が存在した可能性を示唆している。山塊に囲まれた盆地という地理的条件は、むしろ黒曜石という希少資源を管理し、その交易を独占的に行うための拠点として機能したのかもしれない。
弥生時代に入ると、水稲農耕が日本列島に広がるが、山梨県のような内陸の盆地では、その受容は緩やかであった。しかし、釜無川流域や笛吹川流域では、弥生時代中期の水田跡や集落跡が確認されており、稲作が徐々に導入されていったことがわかる。この時期には、黒曜石の交易に加えて、新たな技術や文化が外部からもたらされ、地域社会に変化をもたらした。例えば、土器の様式や集落の形態に、東海地方や関東地方の影響が見られるようになる。
古墳時代になると、地域社会の統合が進み、有力な首長層が出現する。甲府盆地東部には、4世紀後半から5世紀前半にかけて造られたと考えられている銚子塚古墳がある。全長約169メートルにも及ぶこの前方後円墳は、東日本最大級の規模を誇り、当時の甲斐の国の政治的・経済的な中心地であったことを示している。古墳からは、銅鏡や鉄製品、玉類などの副葬品が出土しており、これらが畿内の中央政権との交流を示すものとされている。また、盆地西部には丸山塚古墳も存在し、複数の勢力が並立していた可能性も指摘されている。これらの巨大古墳の築造は、後の「甲斐国」の基盤となる地域統合の動きが、この時期に既に始まっていたことを物語っている。
律令制下の甲斐国と中央の眼差し
7世紀後半から8世紀にかけて、日本列島には律令国家体制が確立される。この流れの中で、現在の山梨県域は「甲斐国」としてその名を中央の歴史に刻むことになった。大宝元年(701年)に制定された大宝律令によって、甲斐国は正式な行政区分として位置づけられ、国司が派遣され、中央政府の統治下に組み込まれることになる。
甲斐国の国府は、現在の笛吹市春日居町に置かれたとされている。国府は、国司が政務を執る役所の中心であり、税の徴収、民衆の統治、軍事の指揮など、国の行政全般を担う重要な拠点であった。国府の周辺には、国分寺や国分尼寺も建立され、仏教を通じた国家鎮護の思想が地方にも浸透していった。甲斐国分寺跡からは、伽藍の基壇や瓦などの遺構が発掘されており、当時の規模を偲ばせる。
律令制下における甲斐国は、中央政府にとって重要な役割を担っていた。特に、朝廷に貢納された特産品として知られるのが「甲斐の馬」である。甲斐は古くから馬の産地として知られ、その品質の良さから、軍馬や運搬用の馬として重宝された。また、絹織物や鉄、そして古代から続く金などの鉱物資源も中央への貢納品として記録に残されている。これらの資源は、律令国家の経済を支える上で不可欠なものであり、甲斐国が単なる辺境の地ではなかったことを示している。
しかし、山塊に囲まれた甲斐国は、その交通の便が必ずしも良いわけではなかった。中央との主要な交通路は、東海道や東山道を通じていたが、甲斐国へ直接通じる主要な官道は整備されていなかったと考えられている。そのため、甲斐国へ赴任する国司や、貢納品を運ぶ人々は、険しい山道や峠を越えなければならなかった。この地理的な制約は、中央の統制が及ぶ一方で、地域独自の文化や慣習が温存されやすい土壌ともなったのではないだろうか。
海と山、異なる風土が育む地域性
甲斐国が律令体制に組み込まれていく過程を、他の地域と比較することで、その独自性がより明確になる。例えば、畿内に近い平野部に位置する大和国や河内国といった地域は、中央政府の直接的な支配下にあり、律令制の導入も早く、その影響も直接的であった。彼らは早くから中央集権的な統治機構の恩恵と制約を享受していたと言える。
一方で、海に面した地域と比較すると、甲斐の特性はさらに際立つ。例えば、九州の筑前国や豊前国は、大陸や朝鮮半島との交流の窓口として、早くから国際的な影響を受け、防衛の最前線でもあった。瀬戸内海に面した地域では、海上交通が発達し、物資や文化の交流が活発であった。これらの地域では、海の恵みや交易が経済基盤となり、その社会構造も海を介したネットワークに大きく依存していた。
これに対し、甲斐国は内陸の山間盆地という地理的条件が、その発展の方向性を規定した。古代から黒曜石という稀少な資源を擁し、それを基盤とした交易ネットワークを独自に築き上げてきた歴史は、海の民が海の幸や交易品で生計を立てたのと同様に、山間部の資源を活かした生業の形であった。畿内から遠く、海からも隔絶されたこの地は、中央の統制が比較的緩やかであった時期には、独自の文化圏を形成し、黒曜石という「山の資源」を媒介に広域的な交流を続けていた。律令制導入後も、馬や金といった「山の資源」が中央への重要な貢納品となり、甲斐国の存在感を保ち続けたのである。
また、同じ内陸国である信濃国(現在の長野県)との比較も興味深い。信濃国もまた広大な山間部に位置するが、善光寺街道や中山道といった主要な交通路が早くから整備され、東山道の要衝として中央との結びつきが強かった。甲斐が独自の山岳ルートや資源に特化していたのに対し、信濃はより広範な交通網の中継点としての役割を担っていた面がある。このように、地理的条件が類似していても、特定の資源の有無や交通路の整備状況によって、律令体制下での地域の役割や発展の仕方は大きく異なっていたことがわかるだろう。
甲斐源氏の胎動と地方の力
平安時代に入ると、律令制は徐々に形骸化し、地方では国司の権限が弱まり、有力な貴族や寺社が荘園を開発して力を蓄えるようになる。甲斐国でもこの流れは例外ではなかった。国司による地方支配が緩む中で、土着の豪族や、中央から下向した貴族の子孫が、自らの領地を拡大し、武力を背景に地域社会の主導権を握っていく。
この時期に甲斐の地に深く根を下ろしたのが、清和源氏の一族である甲斐源氏である。源義光(新羅三郎義光)の子である源義清が、大治5年(1130年)に常陸国から甲斐国に配流され、その子である清光が現在の北杜市須玉町若神子に館を構えたのが、甲斐源氏の始まりとされる。彼らは、甲斐の豊かな土地と、古くから培われてきた馬の飼育技術、そして武士としての実力を背景に、勢力を拡大していった。
甲斐源氏は、単なる武力集団ではなく、地方開発にも積極的に関わった。彼らは荘園の管理や開墾を進め、新たな水利施設の整備を行うなど、農業生産力の向上に貢献した。これにより、甲斐の国は経済的な基盤を強化し、甲斐源氏の勢力拡大を後押しした。彼らは、中央の権力闘争とは一定の距離を保ちつつも、その動向を注視し、自らの勢力基盤を磐石なものとしていった。
また、平安時代には、仏教がさらに地方へと広がり、甲斐国でも多くの寺院が建立された。例えば、現在の甲州市塩山には、平安時代後期に創建されたと伝わる恵林寺がある。これらの寺院は、信仰の拠点であると同時に、文化の中心地でもあり、地域の精神生活に深く影響を与えた。中央から伝わる文化と、甲斐独自の風土が融合し、この地の文化を豊かにしていったのである。
山が育んだ内なる強さ
古代から平安時代にかけての甲斐の国を辿ると、山塊に囲まれた盆地という地理的条件が、決して「辺境」や「孤立」を意味するものではなかったことが見えてくる。むしろ、それは独自の資源と文化を育む土壌となり、外部との独特な関係性を築き上げてきたのだ。
縄文時代における黒曜石の広域流通は、内陸の地が持つ資源が、いかに広大なネットワークを生み出し得るかを示している。それは、海に面した地域が海の産物を流通させたのと同様に、山が育んだ恵みを基盤とした、もう一つの交易圏の形であった。律令制下で甲斐国が「馬の産地」として中央に認識され、重要な役割を担ったことも、この地の資源と技術が中央の視線を引きつけた証拠である。
そして、平安時代に甲斐源氏という武士団がこの地で力を蓄え、後の鎌倉幕府創設に大きな影響を与えることになるのは、単なる偶然ではない。古くからの資源、特に馬の飼育技術と、それを支える強固な地域基盤があったからこそ、中央の権力変動の中で自立した勢力として成長できたと言えるだろう。
甲斐の歴史は、地理的な制約を乗り越えるのではなく、その制約を自らの強みへと転化させてきた人々の営みの記録である。山に抱かれた盆地は、外からの影響を遮断する壁であると同時に、固有の文化と力を内包し、熟成させる器でもあった。この内なる強さが、その後の日本の歴史においても、甲斐の国を重要な存在たらしめる土台となったのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。