2026/6/23
平城京時代、大阪の難波京はなぜ「もう一つの首都」になったのか

平城京があった頃の難波京はどのような場所だったのだろうか?役割は?
キュリオす
平城京の副都として機能した難波京。外交・物流の拠点として、また聖武天皇の理想を体現する「もう一つの首都」となった経緯と、その都市構造を平城京や唐の制度と比較しながら辿る。
ビル群に沈む巨大な基壇
大阪城のすぐ南側、中央区法円坂の一角に、拍子抜けするほど広大な空地が広がっている。周囲をマンションやオフィスビル、そして阪神高速の高架に囲まれたその場所は、難波宮跡公園として整備されている。園内に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは、整然と並んだ巨大な石の基壇だ。かつてここに、天皇が儀式を執り行う「大極殿」が鎮座していた。
奈良の平城京については、誰もが修学旅行や教科書を通じてその名を記憶しているだろう。しかし、その平城京が都であった時代、わずか数十キロ離れたこの大阪の地にも、平城京に匹敵する規模の「京」が存在していた事実は、案外見落とされがちだ。平城京時代の難波京は、単なる地方都市ではなかった。それは天皇が「もう一つの都」として公式に認めた副都であり、ある時期には平城京を差し置いて正式な首都にまで昇格した場所である。
なぜ、奈良に盤石な都がありながら、わざわざ海に近いこの場所に巨大な宮殿を再建する必要があったのか。上町台地の北端に立ち、かつてここから見えたであろう大阪湾の水平線を想像してみると、平城京という内陸の都が抱えていた「限界」と、難波という土地が果たした代替不可能な役割が見えてくる。そこには、古代日本の外交戦略と、聖武天皇という一人の統治者が抱いた理想、そして執念が、重層的な歴史の地層となって埋もれている。
難波宮の焼失と聖武天皇による再建
難波京の歴史を紐解くとき、まず「前期」と「後期」という二つのフェーズを区別しなければならない。平城京時代の難波京は、正確には「後期難波宮」と呼ばれる。前期難波宮は、大化の改新の直後に孝徳天皇が造営したもので、日本で初めて本格的な「宮」と「京」の形を備えた都だった。しかし、この前期の宮殿は、天武天皇の時代の686年に火災によって全焼してしまう。発掘調査では、焼けた柱の根元や灰の層が今も確認されており、その火勢の凄まじさを物語っている。
その後、都が藤原京、それから710年に平城京へと移り変わる中で、難波の地はしばらくの間、廃墟同然の姿を晒していた。文武天皇が難波を行幸した際にも、焼けた跡がそのまま残っていたという記録がある。ところが、724年に即位した聖武天皇は、この忘れ去られた地に再び光を当てた。726年、聖武天皇は藤原不比等の息子の一人である藤原宇合(うまかい)を「造難波宮司」に任命し、宮殿の再建に着手させたのである。
なぜ、聖武天皇は半世紀も放置されていた難波の再建を急いだのか。そこには、天武天皇がかつて掲げた「複都制」という構想への回帰があった。天武天皇は生前、「都城は一箇所に留まるべきではない。必ず複数造るべきだ」という詔を発していた。聖武天皇はこの祖父の遺志を継ぐ形で、平城京を主都としつつ、難波を正式な副都(陪都)として位置づけ直そうとしたのである。
再建の責任者となった藤原宇合は、遣唐使として唐へ渡った経験を持つ国際派の人物だった。彼が手がけた後期難波宮は、前期の掘立柱建物とは異なり、礎石の上に太い柱を立て、屋根に瓦を葺くという、当時の最新技術を駆使した大陸風の様式で設計された。734年には宅地の班給が行われ、上町台地上には碁盤の目状の街並みである「条坊」が整えられていく。平城京が完成して間もない時期に、これほど大規模な都市建設を並行して進めた事実は、当時の国家財政にとって大きな負担であったはずだが、それでもなお、難波は必要とされていた。
この時期の難波京の地位を決定づけたのが、744年(天平16年)の出来事である。聖武天皇は、平城京を離れて恭仁京(くにきょう)や紫香楽宮(しがらきのみや)を転々とする「彷徨の五年」の最中に、突如として難波への遷都を宣言した。わずか一年足らずの期間ではあったが、難波は名実ともに日本の首都となったのである。この遷都は、藤原氏の影響力が強い平城京から距離を置き、天皇独自の政治基盤を確立しようとする聖武天皇の意図があったとも言われている。
しかし、聖武天皇の心は定まらず、翌年には再び平城京へと戻ることになる。首都としての難波京は短命に終わったが、その後も平城京が存続する限り、難波は「副都」としての機能を維持し続けた。平城京の役人たちが難波の役所に派遣され、あるいは天皇の行幸を支えるために、二つの都の間を人々が絶え間なく往来する。平城京時代の難波京とは、奈良の都という「内」の論理を、海という「外」の世界へ接続するための、不可欠なインターフェースだったのである。
平城京から大極殿を移築した意図
平城京時代の難波京が果たした役割を具体的に見ると、そこには単なる「予備の都」を超えた、極めて高度な機能分担が存在していたことがわかる。その最たるものが、外交と物流の拠点としての役割だ。当時の難波京の北側には「難波津」と呼ばれる巨大な港があり、瀬戸内海を通じて西日本や大陸へと繋がっていた。
遣唐使や遣新羅使といった外交使節団は、平城京で天皇から任命を受けた後、まず難波京へと向かった。彼らはここで船を整備し、航海の安全を祈願し、そして風を待った。逆に、大陸からやってくる使節団を最初に迎えるのも難波だった。彼らは難波津に上陸し、難波宮に設けられた迎賓施設で饗応を受けた後、淀川を遡って平城京へと入る。つまり、難波京は日本の「表玄関」であり、外国人の目に触れる最初の「日本の威信」そのものだったのである。
この「威信」を物理的に担保していたのが、平城京から移築された大極殿の存在である。聖武天皇の時代、平城京にあった最初の大極殿(第一次大極殿)は、一度解体されて恭仁京へと運ばれ、さらにそこから難波京へと移築されたという説が有力だ。当時の技術で、巨大な木造建築を解体し、川を使い、人力で山を越えて運び出すという作業がどれほど過酷なものであったか、想像に難くない。
なぜ、新しく建て直すのではなく、わざわざ平城京の建物を「運ぶ」必要があったのか。そこには、大極殿という建物自体が持つ宗教的・政治的な象徴性があったのだろう。天皇が座す高御座(たかみくら)を置く大極殿は、国家の魂とも言える存在だ。その魂を難波へと移動させることで、聖武天皇は難波という土地を、平城京と同等の神聖な空間へと格上げしようとしたのではないか。
また、物流の面でも難波京の役割は圧倒的だった。全国から集められた租庸調の物資は、海路を通じて難波津に集積された。そこには巨大な倉庫群が立ち並び、官僚たちが物資の検品や管理に追われていた。発掘調査で見つかった法円坂の大型倉庫群は、一棟の床面積が約90平方メートルもあり、それが16棟も整然と並んでいた。これは、平城京内にある倉庫群に匹敵する規模である。
難波京には、こうした物流を支えるための専門の役所「摂津職(せっつしき)」が置かれていた。通常の地方行政は「国司」が担当するが、都である平城京には「京職」、そして副都である難波京には「摂津職」という、特別な官職が配属された。これは、難波が単なる摂津国の一都市ではなく、国家直轄の特別な行政区画であったことを示している。
さらに、難波京は宗教的なネットワークの結節点でもあった。聖武天皇が全国に建立を命じた国分寺・国分尼寺の制度において、難波京の周辺には四天王寺という巨大な古刹が既に存在していた。四天王寺は聖徳太子以来の伝統を持つ寺院だが、平城京時代には難波京の都市計画の一部として組み込まれ、外交使節の饗応や仏教儀礼の場として重要な役割を果たした。
このように、平城京時代の難波京は、外交の窓口、物流のハブ、そして天皇の権威を示す儀礼の場という、三つの機能を同時に担っていた。それは、平城京という「静かなる政治の中心」に対し、難波京という「動ける経済・外交の最前線」という、明確な役割分担の上に成り立つ二頭体制だったのである。聖武天皇がこの地に固執したのは、海を制する者が国を制するという、古代における地政学的な真理を直感していたからに他ならない。
唐の複都制をモデルとした都市構造
平城京時代の難波京という存在をより深く理解するためには、当時の他の「都」や、同時代の東アジアの都市構造と比較してみるのが有効だろう。まず、平城京との対比において最も顕著なのは、その「指向性」の違いである。
平城京は、四方を山に囲まれた大和盆地の北端に位置し、防御と安定を重視した「内向き」の都だった。一方、難波京は上町台地という、かつては大阪湾に突き出した半島のような地形の上に築かれた。その視線は常に海に向けられており、外界に対して開かれた「外向き」の性質を持っていた。この二つの都の関係は、後の時代の江戸と長崎、あるいは現代の東京と横浜の関係に近いものがある。しかし、難波京の場合は単なる港町ではなく、天皇の宮殿を備えた「京」であったという点が決定的に異なる。
この「複都制(両京制)」という仕組みは、当時の中国・唐の制度を強く意識したものだった。唐には主都である長安のほかに、副都として洛陽が存在した。長安が政治と軍事の中心であるのに対し、洛陽は運河を通じて物資が集まる経済の中心であり、皇帝は頻繁にこの二つの都を行き来した。聖武天皇の難波京再建は、唐の「長安・洛陽」の関係を日本において再現しようとする試みだったのである。
一方で、同じ「外向き」の拠点として比較されるのが、九州の太宰府だ。太宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、大陸からの使節を迎え、国防を担う重要な官庁だった。しかし、太宰府には天皇が常駐するための正式な「宮」は存在しなかった。太宰府が「出先機関」としての性格が強かったのに対し、難波京はあくまで「もう一つの首都」であり、天皇がいつでもそこで政務を執れる体制が整えられていた。この「格」の違いこそが、難波京を特別な存在にしていた。
また、同時期に聖武天皇が造営を試みた恭仁京や紫香楽宮とも比較してみよう。恭仁京は山城国に位置し、平城京からの脱却を目指した実験的な都だった。紫香楽宮は近江国にあり、大仏造立という宗教的理想を実現するための聖地としての性格が強かった。これらがいずれも内陸の、やや閉鎖的な土地を選んでいるのに対し、難波京だけが唯一、海という無限の広がりに接続されている。
恭仁京や紫香楽宮が、聖武天皇の個人的な理想や政治的混迷の中で浮かんでは消えた「徒花」のような都であったのに対し、難波京には、仁徳天皇や孝徳天皇以来の「難波」という土地が積み重ねてきた歴史的な正統性があった。天武天皇が複都制の詔で「まず難波を都とせん」と述べたように、難波は常に、大和の都に対する第一のオルタナティブであり続けたのである。
平城京との構造的な違いでいえば、難波京の条坊制(街画)は、地形の制約を強く受けていた点も興味深い。平城京が広大な盆地に理想的な碁盤の目を広げることができたのに対し、難波京は細長い上町台地の上に無理やり都市を当てはめなければならなかった。その結果、難波京の東西の幅は極めて狭く、南北に長い歪な形をしていたと考えられている。この「理想と現実の妥協点」としての都市構造は、平城京のような抽象的な美しさとは異なる、実務的で切迫した都市の姿を浮かび上がらせる。
このように比較してみると、平城京時代の難波京とは、唐の先進的な統治モデルを模倣しつつ、日本独自の外交・物流の必要性に突き動かされて維持された、極めて実利的で国際的な空間であったことがわかる。それは、奈良という土地が持つ「伝統」や「宗教」の重みから解放され、海を通じて世界と対峙するための、古代日本における唯一の「グローバル・シティ」だったのである。
法円坂の遺構と現代の大阪
現在の難波宮跡公園を歩くと、かつての壮大な副都の姿を想像するのは容易ではない。広大な芝生の上に再現された大極殿の基壇は、子供たちの遊び場や市民の憩いの場となっており、その背後には大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の巨大なビルがそびえ立っている。しかし、この公園が今の形で残されていること自体が、一つの奇跡に近い。
戦前、この場所には陸軍の施設が置かれており、難波宮の存在は文献の中にのみ記された「幻」に過ぎなかった。それを掘り起こしたのは、山根徳太郎という考古学者の執念である。彼は「われ、難波宮を掘らん」と宣言し、戦後の混乱期から発掘を続け、ついに1961年、後期難波宮の大極殿跡を発見した。この発見がなければ、この広大な一等地は、今頃すべて高層ビルや道路に埋め尽くされていたに違いない。
現在、公園の東側に目を向けると、復元された巨大な高床式倉庫を見ることができる。これは「法円坂遺跡」として知られる、難波宮に先行する古墳時代の倉庫群を再現したものだ。平城京時代の難波京もまた、こうした古い物流拠点の記憶の上に築かれていた。復元された倉庫の太い柱と重厚な造りは、ここが単なる儀礼の場ではなく、膨大な物資が動く「国家の胃袋」であったことを視覚的に伝えてくれる。
しかし、現代の難波京が直面しているのは、その歴史的価値と都市開発の狭間での葛藤だ。難波宮跡公園のすぐ下には、今も未発掘の遺構が眠っていると言われるが、その全容を解明するのは難しい。公園を貫くように走る道路や、周囲に立ち並ぶビルは、かつての条坊制のラインを無残に断ち切っている。平城京が「平城宮跡」として広大な空間を確保し、世界遺産として守られているのに対し、難波京の遺構は常に、現代の都市機能に浸食される危機に晒されてきた。
それでも、大阪歴史博物館の10階に上り、眼下に広がる宮殿跡を見下ろすと、平城京時代の人々がこの場所で何を見ていたのかが少しだけ分かる気がする。博物館の展示では、聖武天皇が難波遷都を宣言した際の儀礼が、原寸大の模型と映像で再現されている。朱色の柱、色鮮やかな几帳、そして居並ぶ官僚たちの姿。その背後の窓越しには、本物の難波宮跡の基壇が見える。この「再現」と「実物」が重なる瞬間、1300年前の副都が、単なる知識ではなく、確かな手触りを持って迫ってくる。
現在、難波宮跡ではさらなる整備計画が進められている。大極殿以外の建物の基壇を復元し、より当時の宮殿の広がりを体感できるようにする試みだ。しかし、それはかつての栄華を懐古するためだけのものではないはずだ。難波京が現代の大阪という都市の「核」となり、その歴史的なアイデンティティを支える装置として機能し始めている。
かつて難波津を行き交った遣唐使の船は、今や巨大なコンテナ船やクルーズ客船へと姿を変えた。しかし、この場所が「外の世界」へと開かれた日本の窓口であるという本質は、平城京の時代から何ら変わっていない。法円坂の倉庫群の跡地に立ち、ビル風に吹かれていると、古代の役人たちが木簡に物資の数を書き付けていた、その忙しない筆の音が、都会の喧騒の中に混じって聞こえてくるような錯覚に陥る。
外交と物流を担った「表の顔」
平城京時代の難波京を巡る旅を終えて見えてくるのは、私たちが抱きがちな「古代の都」というイメージの偏りである。都とは、静謐な寺院の中に天皇が鎮座し、古典的な美しさが保たれた空間だけを指すのではない。少なくとも、奈良時代の日本において、都は「内」と「外」の二つの顔を必要としていた。
平城京が、律令という法体系と仏教という精神的支柱によって国家を内側から固めるための装置であったとするならば、難波京は、その国家を東アジアという巨大なシステムの中に位置づけ、他者と交信するための装置だった。聖武天皇が大極殿を平城京から難波京へと運ばせたのは、単なる気まぐれではなく、国家の「魂」を、海という外の世界に直接触れさせるための、ある種のリスクを伴う儀式だったのではないか。
比較を通じて浮き彫りになったのは、難波京の持つ圧倒的な「実務性」だ。唐の両京制を模倣しながらも、上町台地という限られた地形で物流と外交を最大化させようとしたその姿は、理想を追求した平城京よりも、どこか人間臭く、切実なエネルギーに満ちている。それは、伝統に守られた内陸の都では決して成し遂げられない、変化と摩擦を恐れない都市の姿だった。
私たちは、難波京を「平城京の影に隠れた副都」と呼ぶべきではないのかもしれない。むしろ、難波京こそが、当時の日本が「文明国」として世界に名乗りを上げるための、最も重要な「表の顔」だった。外国からの使節が、難波津に立ち並ぶ巨大な倉庫群と、台地の上に整然と広がる条坊、そして最新の大陸様式を纏った難波宮の大極殿を見たとき、彼らはそこに、単なる極東の小国ではない、野心に満ちた新興国家の意志を感じ取ったはずだ。
聖武天皇が最終的に平城京へ戻り、難波京が首都としての地位を失った後も、その機能は長岡京、そして平安京へと引き継がれていく。難波京の建物は、後に長岡京の造営のために解体され、再び運ばれていったという。建物は消えても、難波という土地が果たした「海へのインターフェース」という役割は、日本の歴史の中に深く刻み込まれた。
現在、難波宮跡公園の基壇の上に立っても、そこには屋根も壁もない。あるのは、かつてそこに巨大な何かが存在していたという、石の記憶だけだ。しかし、その何もない空間こそが、平城京という完成された都の「余白」を埋めるために必要だった、もう一つの日本の姿を雄弁に語っている。難波京は、完成されることのない、常に外部へと開かれ続ける「未完の都」であり、その未完さこそが、古代日本を動かす原動力となっていた。
大阪のビル群の合間に沈む、あの巨大な基壇の列。それは、かつてこの国が、海を越えてやってくる未知なるものに対して、真正面から向き合おうとした時代の、確かな足跡である。平城京という静かなる中心を支えていたのは、間違いなく、この潮風の吹く台地の上で躍動していた、もう一つの都の存在だった。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- (91)恭仁京遷都と平城還都 - なぶんけんブログnabunken.go.jp
- (140)平城京と難波京 - なぶんけんブログnabunken.go.jp
- 天平文化のど真ん中「平城京」(コラム)|記紀・万葉でたどる奈良pref.nara.lg.jp
- 平城京への遷都/ホームメイトtouken-world.jp
- 後期難波宮|聖武天皇が再建した副都。藤原式家との奇妙な関係とは? - 史跡ナビshisekinavi.com
- 東アジア世界に開かれた“海の都”、難波京|日本古道紀行kodokiko.com
- i-repository.net
- 「奈良から見た大阪〜平城京と難波京〜」 - セミナーレポートnakanoshima-daigaku.net