2026/6/27
石馬寺はなぜ「石馬」と呼ばれるのか?聖徳太子伝説と戦乱を乗り越えた歴史

滋賀の石馬寺について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
滋賀県にある石馬寺は、聖徳太子が乗っていた馬が石になったという伝説に由来する。創建から戦乱、宗派変更を経て、近江商人にも信仰された歴史を持つ。平安・鎌倉時代の仏像群や枯山水庭園が見どころだ。
馬が石と化した瑞相
石馬寺の創建は飛鳥時代の推古天皇2年、西暦594年に遡ると伝わる。聖徳太子が鎮護国家と仏法興隆を祈る霊地を求めて近江国を巡っていた際、現在の繖山(きぬがさやま)の麓で、乗っていた馬が突如として歩みを止めたという。太子は馬を傍らの松の木に繋ぎ、単身で山上に登った。そこで太子は「積年の望みをこの地に得たり」と山の霊異に深く感動し、山を下りてきた。戻ると、そこに繋がれていた馬は石と化し、池に沈んでいたという伝承が残る。 太子はこの現象を瑞相、つまり神仏の出現を示す吉兆と捉え、この地に道場を開くことを決意したとされる。寺号の「石馬寺」も、この「石と化した馬」の伝説に由来する。 また、山号の「御都繖山」もその際に名付けられたものだ。 現在も、寺に至る石段の麓にある蓮池には、石と化した馬の背中が水面に見えていると伝えられ、本堂には太子が馬を繋いだという「太子駒繋ぎの松」が安置されている。 聖徳太子自ら筆を執ったとされる「石馬寺」の三文字の木額も、寺の重要な寺宝として今日まで伝えられている。
兵火と再興の歴史
石馬寺は聖徳太子による創建後、当初は法相宗、次いで天台宗へと宗派を変えながら、近江源氏の佐々木氏や六角氏といった有力武将の庇護を受けてきた。 しかし、戦国時代に入ると、近江国を舞台とした争乱に巻き込まれることになる。特に織田信長が六角義賢を打ち破った「観音寺城の戦い」の際には、石馬寺もその影響を受け、伽藍の全てが焼失したと記録されている。 江戸時代に入り、徳川家康によって門前に高札が立てられ、寺の復興が始まった。この再興の過程で、大きな転換期を迎える。宮城県松島の国宝寺院である瑞巌寺の雲居希膺(うんごきよう)国師を中興の祖として招き、天台宗から臨済宗妙心寺派の禅寺へと改宗したのだ。 この改宗により、石馬寺は禅宗寺院としての新たな歩みを始めることになる。現在、拝観受付のある寺務所や方丈建築は、1634年(寛永11年)に江戸幕府三代将軍徳川家光の上洛に際して造営された御茶屋御殿(伊庭御殿)を移築したものとされ、約400年の歴史を持つ建築物として現存している。 江戸時代以降は、近隣の五個荘金堂の近江商人たちからも篤い信仰を集め、「三方よし」の精神を最初に掲げたとも言われる中村治兵衛家など、地域の経済を支えた人々によって支えられてきた側面もある。
仏像群と石庭が語るもの
石馬寺が今日まで守り伝えてきたものの中核には、数多くの貴重な仏教美術がある。大仏宝殿には、国指定重要文化財に指定されている11体もの仏像が安置されている。これらは主に平安時代から鎌倉時代にかけて制作されたもので、その中には平安時代後期の作とされる像高274cmの丈六阿弥陀如来坐像や、力強い彫りの十一面観音菩薩立像2躯が含まれる。 特に十一面観音菩薩立像の2躯は、それぞれ衣文の表現に違いが見られ、平安時代前期と後期という制作時期の差が、作風の変遷を如実に示しているという指摘もある。 さらに、水牛に乗った姿が特徴的な大威徳明王牛上像や、役行者大菩薩腰掛像、その脇を固める前鬼・後鬼像なども重要文化財に指定されている。 これらの仏像群は、観音正寺や教林坊といった周辺の聖徳太子ゆかりの寺院群の中でも、特に充実した内容を持つと言えるだろう。また、本尊の十一面千手観世音菩薩立像は市指定文化財の秘仏であり、鎌倉時代の作と伝わるが、聖徳太子作という江戸時代の記録も残っているという。 書院に面して広がる「石馬の石庭」もまた、寺の重要な見どころの一つである。昭和中期に京都の造園家・小川寿一によって作庭されたこの枯山水庭園は、禅の精神を具現化したもので、白砂と石組、苔の緑が織りなす空間は、訪れる者に静謐な印象を与える。 この石庭は、随筆家・白洲正子の著書『かくれ里』にも紹介され、その後の岩山が見事だと評された。
遠景を望む山の寺と、里に開かれた信仰
石馬寺のように、山中に位置し、長い石段を登りつめた先に伽藍が広がる寺院は、日本の各地に点在する。例えば、同じ滋賀県内の観音正寺もまた、繖山の中腹に位置し、聖徳太子ゆかりの寺として知られる。こうした立地は、古くから山そのものを神聖視する「山岳信仰」と仏教が結びついた「修験道」の拠点となった背景を持つ場合が多い。石馬寺の創建伝説における聖徳太子の馬が石と化すという「霊異」も、そうした山岳信仰的な要素と深く結びついていると見ることができるだろう。 一方で、石馬寺は、近江商人の町として栄えた五個荘金堂の町並みからほど近い場所に位置している。五個荘金堂は、国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定される歴史的な景観を残す地域だ。多くの山岳寺院が世俗から隔絶された環境にあるのに対し、石馬寺は、そのような商業活動の中心地からも比較的アクセスしやすい距離にある点が特徴的である。これは、寺が単なる信仰の場に留まらず、近江商人たちの精神的な支えとなり、経済的な支援を受けることで、その歴史と文化を継承してきたことを示唆している。 また、寺宝の仏像群に見られる平安時代前期から後期にわたる作風の変遷は、同じ時代に畿内や周辺地域で制作された仏像と比較することで、石馬寺が当時の仏教美術の潮流をどのように受容し、独自の形で発展させてきたかを窺い知ることができる。例えば、翻波式衣文の十一面観音と、より穏やかな衣文の十一面観音の並存は、仏像様式の多様性と、それが地方寺院にもたらされた経緯を物語るものだ。
現代に息づく古刹の姿
今日の石馬寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺として、その歴史と伝統を現代に伝えている。拝観は原則として土日祝日に限定されているが、境内は自由に散策できるため、静かな環境の中で古刹の雰囲気に触れることが可能だ。 参道の石段を登りきると、苔むした庭園や風情ある茅葺の本堂が現れ、紅葉の時期には特に美しい景観を見せる。 寺では年間を通じて修正会や涅槃会、施餓鬼会などの伝統的な法要が行われるほか、近年では寺庭(寺の奥様)がガイドを務めるヨガサロンが開催されるなど、現代のニーズに応じた取り組みも見られる。 また、本堂の屋根修繕が喫緊の課題となっており、約1億円という多額の費用が見込まれる中、寄付が募られている。 この修繕活動は、1400年続く石馬寺の歴史と信仰を未来へ引き継ぐための重要な営みであり、地域の人々や寺を訪れる参拝者によって支えられている。 寺の周辺には、近江商人屋敷の町並みが広がる五個荘金堂など、観光スポットも点在しており、石馬寺は東近江地域の歴史と文化を巡る旅の重要な拠点の一つとなっている。
石馬が示す信仰の深層
聖徳太子の馬が石と化したという石馬寺の伝説は、単なる奇譚として片付けられない。それは、古代日本において自然の現象や特定の場所に宿る「霊異」を、いかに人々が畏れ敬い、信仰の対象としてきたかを示す一つの証左である。馬が歩みを止めた場所、そして石と化した場所が、そのまま寺院の建立地となり、その名となったという事実は、この地が持つ本来的な霊性を、聖徳太子という歴史上の人物の権威を借りて仏教的な物語へと昇華させたものと捉えることができる。 この「石馬」の伝説は、他の地域に見られる「神の使い」や「聖なる動物」が、その役目を終えたり、あるいは何らかの理由で姿を変えたりするという伝承と共通する構造を持つ。しかし、石馬寺の場合、それが聖徳太子という実在の人物と結びつき、さらに「石」という永続的な存在へと変化したことで、その物語はより強固なものとして地域に根付いたのだろう。寺が幾度かの変遷と荒廃を経験しながらも、この伝説とそれに付随する寺宝が守り伝えられてきた背景には、そうした物語の持つ力と、それが人々の心に深く刻み込まれてきた歴史がある。石馬寺の石段を登り、枯山水庭園を眺める時、私たちは千四百年前の「霊異」と、それを受け継ぎ、形にしてきた人々の確かな営みの痕跡を見出すことになる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 午年なら行かねば!聖徳太子の馬が石になって沈む 石馬寺 - カイザーベルク びわ湖|ツーリングをサポートするレッドバロンredbaron-kaiserberg.jp
- 石馬寺 | 滋賀 おすすめの人気観光・お出かけスポット - Yahoo!トラベルtravel.yahoo.co.jp
- 石馬寺 | 旅サラダPLUS 観光・お出かけSPOTtsplus.asahi.co.jp
- 石馬寺庭園「石馬の石庭」 ― 国重要文化財の仏像も11体…!滋賀県東近江市・五個荘の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】oniwa.garden
- 石馬寺について | 御都繖山 石馬寺ishibaji.jp
- 聖徳太子の足跡めぐりomi-st1400.com
- 馬の寺「石馬寺」 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!biwako-visitors.jp
- 石馬寺 - Wikipediaja.wikipedia.org