2026/7/2
神戸・長田の番町地区はなぜ「スラム」となり、そして「靴の街」へ変貌したのか

長田の番町地区について詳しく知りたい。
キュリオす
神戸市長田区の番町地区は、かつて日本最大級のスラムであり、被差別部落でもあった。地形がもたらした境界性と近代化政策が、この地を「殺生」と「技術」を抱える場所へと規定した経緯を辿る。
氾濫する川と境界の記憶
神戸市長田区、新湊川のほとりに立つと、川の流れが街の骨格を強引に規定していることに気づく。この川は、明治時代に人工的に付け替えられたものだ。もともとは現在の新開地方面へ流れていた湊川を、度重なる水害を防ぐために会下山(えげやま)をくり抜くトンネルを通し、無理やり西へ曲げて長田の地へと導いた。その付け替えられた新湊川の南側に広がるのが、かつて「番町」と呼ばれた地区である。
五番町、六番町といった地名が今も残るこの一帯を歩くと、整然とした区画の中に、不自然なほど細い路地や、古びた木造家屋が密集する一角が混じる。この場所は、かつて日本最大級のスラムの一つとされ、同時に近畿有数の被差別部落でもあった。なぜ、華やかな港町・神戸のすぐ隣に、これほど巨大な「外部」が形成されたのか。その問いの答えは、地形がもたらした境界性と、近代化という名の都市政策が強いた役割の押し付けに隠されている。
かつてこの地を流れていたのは、新湊川ではなく苅藻川(かるもがわ)という小さな川だった。この川の流域は、古くから「内」と「外」を分かつ境界として機能してきた。そこには、死牛馬の処理や皮革加工という、社会に不可欠でありながら忌避された技術を持つ人々が住み着いていた。彼らがなぜこの場所を選び、あるいは選ばされたのか。その歴史を紐解くと、単なる差別の物語を超えた、都市の生存戦略としての土地の記憶が浮かび上がってくる。
殺生と技術を抱えた中世の河原
番町地区の歴史的淵源は、鎌倉時代まで遡ることができる。この地は、一遍上人が入滅した真光寺や、式内社の長田神社に近接しており、古くから信仰と殺生が隣り合わせにある場所だった。江戸時代の資料によれば、現在の三番町から六番町あたりは「糸木(いとき)」と呼ばれ、長田村に属する皮多村(かわたむら)であったという。
なぜ、この場所だったのか。決定的な要因は、水と地形にある。皮革加工には、原皮を洗浄し、なめすための大量の水が欠かせない。苅藻川の緩やかな流れは、その作業に最適だった。また、この一帯は湊川の氾濫原であり、農業には適さない湿地帯が広がっていた。生産性の低い土地は、必然的に「役」を担う人々の居住地として割り当てられた。
彼らが担っていたのは、単なる清掃や屠畜ではない。武具に欠かせない高級な革製品の製造や、太鼓の革の調製など、高度な軍事的・文化的な技術集団としての側面を持っていた。江戸時代の幕藩体制下では、彼らは「皮役」という公的な役割を負わされ、死牛馬の処理権を独占する代わりに、特定の居住区に縛り付けられた。
この時期の番町(糸木)は、まだ閉鎖的な農村部落としての性格が強かった。しかし、1868年の神戸開港が、この静かな境界の村を激変させることになる。開港とともに押し寄せたのは、異国の文化だけではない。職を求めて全国から集まった貧民層と、爆発的に膨れ上がる「肉」への需要だった。
近代化の波が押し寄せた屠場
明治維新後、1871年の「解放令」によって身分制度は廃止されたが、実態としての差別は解消されなかった。むしろ、近代化の過程で番町は新たな「役割」を強制的に担わされることになる。それが、神戸の肉食文化を支える巨大な屠畜場(とじょう)の集約である。
神戸港の開港により、居留地の外国人や、新しいもの好きの日本人の間で牛肉の需要が急増した。当初、屠畜は市街地の各所で行われていたが、衛生面や景観上の理由から、行政はこれらを一箇所に集約しようとした。その白羽の矢が立ったのが、古くから皮革加工の伝統があり、市街地の西端に位置していた番町周辺だった。
明治20年代から30年代にかけて、兵庫県はスラム対策として、中心市街地の木賃宿を制限し、居住者を番町や葺合(ふきあい)の新川地区へと誘導した。1868年にわずか85戸だった番町の戸数は、1888年には2,000人を超える規模へと急膨張している。この人口増を支えたのは、元来の住民だけでなく、都市開発によって居場所を失った下層労働者たちだった。
さらに1901年、湊川の付け替え工事が完了し、新湊川が番町のすぐ北側を流れるようになった。この川は、市街地を水害から守るための防波堤として機能したが、同時に番町を物理的に隔離する巨大な「壁」ともなった。川底よりも低い土地に密集する家々は、大雨のたびに川の氾濫に見舞われ、汚水が溢れる過酷な衛生環境に置かれた。近代都市・神戸の清潔と繁栄は、この新湊川の向こう側に「不潔」と「苦役」を押し流すことで成立していたといっても過言ではない。
都市の縁に置かれた他の風景
番町が辿った「川と境界と屠畜」という構造は、他の都市の被差別部落と比較すると、その共通点と固有性がより鮮明になる。例えば、京都市の最大規模の部落である崇仁(すうじん)地区は、鴨川の河原に位置し、かつては処刑場や皮革加工の場としての歴史を持っていた。大阪市の浪速区周辺(旧渡辺村)もまた、木津川の湾曲部に位置し、物流と皮革産業の拠点であった。
これらの地区に共通するのは、いずれも大都市の「縁(エッジ)」であり、かつ大規模な河川に面している点だ。水は汚れを洗い流すと同時に、物流の動脈でもあった。皮革という重くて嵩張る原材料を運び、加工し、出荷するためには、川というインフラが不可欠だったのである。
しかし、番町が他の地区と決定的に異なるのは、その後の「産業の転換」にある。京都や大阪の部落が、都市化の波に飲まれながらも皮革や食肉の卸売としての性格を強く残したのに対し、長田の番町は「ゴム」と「靴」という、全く新しい近代産業の心臓部へと変貌を遂げた。
明治42年に神戸でダンロップゴムが設立されたことを契機に、長田一帯にはゴム工場が密集するようになった。皮革加工で培われた「裁断」や「貼り合わせ」の技術は、そのままゴム靴の製造へと応用された。戦後、素材が塩化ビニールへと変わると、それは「ケミカルシューズ」という一大地場産業へと昇華する。番町は、差別の対象としての土地でありながら、同時に世界へ輸出されるファッション・フットウェアの供給源という、極めてダイナミックな生産拠点へと脱皮したのである。
震災の炎と靴の街の変容
この地に最も深い傷跡を刻んだのは、1995年1月17日の阪神・淡路大震災だった。長田区は神戸市内で最も被害が激しかった地域の一つであり、特に番町地区を含む木造住宅密集地は、地震直後の大規模な火災によって焼き尽くされた。
火災の原因の一つとして、ケミカルシューズ工場で使用されていた接着剤や溶剤などの可燃物が指摘された。皮肉なことに、この地を支えてきた産業そのものが、街を焼き払う燃料となってしまったのである。震災前、長田には1,600社を超える関連企業が集積し、区内の就業者の約半数が靴産業に従事していた。震災は、その物理的な基盤を一夜にして破壊した。
震災後の復興過程で、番町の風景は一変した。大規模な区画整理が行われ、狭隘な路地は広大な道路へと広がり、古い長屋の跡には高層の公営住宅が建ち並んだ。かつての「スラム」としての面影は、今では注意深く探さなければ見つからないほどに払拭されている。しかし、その代償として、長田を象徴した「住工混在」の活気もまた、失われつつある。
現在、ケミカルシューズの生産額は最盛期の3割程度まで落ち込んでいる。安価な海外製品の流入に加え、震災で廃業を余儀なくされた零細工場も多い。かつての「番町」という呼び名は、公的な地図からは消え、代わって「新長田」という再開発の記号が街を覆っている。しかし、今も路地の奥から聞こえてくるミシンの音や、ゴムの匂いは、この土地が今なお「作る人々」の場所であることを静かに主張している。
匿名化された地名が語ること
番町地区を歩き終え、再び新湊川の橋を渡る。かつて「差別の川」と呼ばれたこの流れは、今では大規模な改修工事を経て、整備された親水公園のような顔をしている。川を境に、人々の意識の中に引かれていた境界線は、果たして消えたのだろうか。
番町という地名は、ある意味で非常に匿名的な名前だ。一番町から六番町まで、数字で区切られたその呼称には、かつての「糸木」という固有の地名が持っていた生々しさを覆い隠すような、行政的な響きがある。この匿名化こそが、近代日本が被差別部落に対して取ってきた「不可視化」という解決策の象徴のようにも思える。
しかし、この土地が歩んできた道のりは、単なる被害の歴史ではない。氾濫を繰り返す過酷な地形を、皮革からゴム、そしてケミカルシューズへと、時代に合わせて技術を読み替え、生き抜いてきた人々の強固な生存戦略の集積である。差別の構造によって都市の縁に押し込められた人々が、その縁を世界の市場と直結する「窓」へと変えてみせた事実は、土地のハンディキャップを技術の優位性へと転換した稀有な事例といえるだろう。
震災から30年近くが経ち、長田の街は「多文化共生」を新たな看板に掲げている。かつての被差別部落の隣には、戦前から戦後にかけて渡ってきた在日コリアンの集落があり、近年ではベトナムからの移住者も増えている。重層的な「外部」を受け入れてきた番町の懐の深さは、かつて排除の論理で作られた境界線が、皮肉にも多様性を守る防波堤へと変質した結果なのかもしれない。川の流れは変わったが、土地が抱える「内と外を繋ぐ」という役割は、今も形を変えてこの街の底流に息づいている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。