2026/5/28
丸子宿ととろろ汁、広重の浮世絵が描く東海道の旅

静岡の丸子について詳しく知りたい。どういう場所だったのか?
キュリオす
鎌倉時代の「麻利子」に始まる丸子の歴史。江戸時代には東海道の宿場町となり、宇津ノ谷峠越えの旅人を支えた。名物とろろ汁と、広重の浮世絵に描かれた風景が、この地の魅力を今に伝えている。
丸子の歴史は、東海道の整備よりもはるかに古い時代に遡る。鎌倉時代、文治5年(1189年)に源頼朝が奥州平定の功績として、駿河の武士、手越平太家綱に「麻利子」の地を与え、「駅家」を設けたことが、この地域の交通の要衝としての始まりとされる。この「麻利子」が、現在の「丸子」の語源の一つだと考えられている。
戦国時代に入ると、この地は軍事的にも重要な拠点となる。応永年間(1394~1428年)には、駿河国守護今川氏の家臣である斎藤安元によって丸子城が築かれた。この城は、今川氏の拠点である駿府の西側の入口を守る要害として機能し、後に武田信玄が駿河に侵攻した際には、田中城とともに駿河西部攻略の拠点となった。今川氏親が一時、丸子城を居館としたという説も存在し、この地域の戦略的な価値の高さがうかがえる。最終的に丸子城は、天正18年(1590年)に徳川家康の関東移封に伴い廃城となったと見られているが、その遺構は現在も良好な状態で残されている。
江戸時代に入り、慶長6年(1601年)に徳川家康によって東海道伝馬制が定められると、丸子は江戸から数えて20番目の宿場町として正式に指定された。天保14年(1843年)の記録によれば、宿場の戸数は211軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒を数え、人口は795人であったという。東海道の中でも規模は比較的小さい宿場であったが、宇津ノ谷峠を控えた立地から、旅人にとっては重要な休憩地であったのだ。
そして、地名の表記については、まさに問いの核心に触れる部分となる。江戸時代には「鞠子宿」と書かれることが多かったとされるが、歌川広重の浮世絵「東海道五拾三次」の初版では「丸子」と表記され、後摺り版で「鞠子」に改変された経緯がある。これは「丸子」が「まるこ」と誤読されやすかったため、誰もが「まりこ」と読めるように「鞠子」を当てたという推測がある一方で、広重以前に葛飾北斎がすでに「鞠子」と表記していたこともあり、その変遷は一筋縄ではいかない。つまり、特定の時期に一斉に変わったというよりは、両方の表記が混在し、時代や作者によって選好が分かれたと見るのが実情に近いだろう。
丸子が東海道の宿場町として独特の性格を確立した背景には、その地理的条件と、そこから派生した文化が深く関わっている。まず、宿場の東には安倍川、西には難所として知られた宇津ノ谷峠が控えていた。この宇津ノ谷峠は、静岡市と藤枝市の境に位置し、旧東海道の面影を色濃く残す地域である。旅人たちはこの峠を越える前後に、丸子宿で休息を取るのが常であった。
そのような立地条件の中で、丸子宿の名物として広く知られるようになったのが「とろろ汁」である。丸子周辺の山間部では古くから良質な自然薯が豊富に採れた。自然薯をすりおろし、だし汁と味噌で割って麦飯にかけて食べるこの料理は、栄養価が高く、疲れた旅の体を癒し、精をつけるものとして重宝された。室町時代の連歌師宗長が「年の暮れ 茶、炭、薪の山の芋 寝てのよるよる むつごとにして」と山の芋を歌に詠んでいることから、江戸時代よりもはるか昔からこの地で自然薯が食されてきたことがうかがえる。
このとろろ汁を提供し続けたのが、慶長元年(1596年)創業の老舗「丁子屋」である。丁子屋は、歌川広重の浮世絵「東海道五拾三次之内 鞠子 名物茶店」にも描かれ、その存在は旅の案内記や文学作品にも登場した。松尾芭蕉が「梅若葉丸子の宿のとろろ汁」という句を詠み、十返舎一九が『東海道中膝栗毛』の中で、弥次さん喜多さんがとろろ汁を食べ損ねる滑稽な場面を描いたことからも、丸子ととろろ汁が切っても切れない関係にあったことがわかる。現在の丁子屋の建物は、1970年(昭和45年)に江戸初期の古民家を移築し、浮世絵に描かれた茅葺き屋根の風景を再現したもので、2022年には国登録有形文化財に指定されている。
丸子宿は、東西約800メートルという比較的小規模な宿場であったものの、その道筋は「鉤の手(かぎのて)」と呼ばれる直角に曲がる狭い道など、江戸時代の面影を今に伝える特徴的な構造を残している。これは宿場防衛の観点から設けられたものとされ、旅人たちはその曲がりくねった道を歩むことで、宿場特有の空間認識を深めていったことだろう。
東海道五十三次には、丸子宿の他にも個性豊かな宿場町が点在していた。例えば、江戸から数えて最も大きい宿場であった府中宿(現在の静岡市中心部)は、駿府城の城下町として政治・経済の中心であり、多くの大名や商人が行き交う賑やかな場所であった。また、箱根宿のような山間部の宿場は、その険しい地形ゆえに旅人にとっては難所の入り口、あるいは出口としての役割が強く、宿場そのものよりも峠越えの記憶と結びつくことが多い。
丸子宿は、これらとは異なる存在感を放っていた。規模は小さく、華やかな城下町の賑わいとは無縁であったが、宇津ノ谷峠という具体的な「難所」のすぐそばに位置することで、旅人にとっての物理的な休息地、そして精神的な区切りとなる場所であった。とろろ汁という、土地の自然の恵みを活かした名物が、その役割を象徴している。これは、旅の疲れを癒し、明日への活力を与える「食」が、宿場のアイデンティティと直結していた稀有な例と言えるだろう。
静岡県内には、とろろ汁を食べる文化自体は丸子に限らず広く根付いている。しかし、丸子のとろろ汁は、京都の白味噌と田舎味噌の特徴を併せ持つ「相白味噌(あいじろみそ)」を使い、焼津が近いことからカツオだしで割るという、この地域独自の調理法が特徴である。富士川以東の地域では味噌ではなく醤油を使うことが多く、だし汁も伊勢エビ、アユ、ボラ、ハゼなど、その土地の特産品が用いられるという。この比較から見えてくるのは、丸子が単に「とろろ汁がある宿場」なのではなく、「丸子ならではのとろろ汁」を通じて、その土地の風土と歴史が凝縮された食文化を提供してきたという点だ。宿場という普遍的な機能の中に、地理と風土が生み出した固有の価値を埋め込んでいたのである。
現代の丸子宿は、かつての喧騒とは異なる表情を見せている。しかし、東海道の面影は今も随所に息づいている。旧東海道沿いには、江戸時代の雰囲気を色濃く残す建物が点在し、特に宇津ノ谷地区には昔の街並みが保存されている。観光客は「歴史国道」にも認定されたこのエリアを散策することで、当時の旅人の気分を追体験できるだろう。
丸子のシンボルともいえる「丁子屋」は、創業から400年以上を経た今も変わらず営業を続け、名物のとろろ汁を多くの人々に提供している。その茅葺き屋根の店構えは、歌川広重の描いた浮世絵の世界を彷彿とさせ、訪れる人々に強い印象を与える。店内には「広重さんの部屋」と名付けられた空間もあり、浮世絵を通じて東海道の旅を追体験できる工夫が凝らされているという。
また、丸子には歴史的な建造物だけでなく、現代の地域文化を伝える施設も存在する。「駿府の工房 匠宿」では、今川・徳川時代から受け継がれてきた静岡の伝統工芸を体験できる。これは、かつて駿府城の築城のために全国から職人が集められ、「ものづくりのまち」として発展した静岡の歴史と繋がるものである。丸子は単なる通過点ではなく、ものづくり文化が根付いた土地の一部としてもその姿を現代に伝えている。
地域の人々もまた、丸子の歴史と文化を守り、次世代に伝えようと活動している。「丸子宿場まつり」のようなイベントが開催され、地域の語り部が丸子の魅力を伝える「丸子語り部マップ」なども作られている。これらの取り組みは、丸子が単なる過去の遺産ではなく、今も生き続けるコミュニティの核となっていることを示している。
丸子という土地がどのような場所であったかという問いは、単なる歴史的事実の羅列では答えきれない。そこには、旅の安全を願う人々の思い、土地の恵みを享受し生活を築いた人々の知恵、そしてそれを表現しようとした文化人たちの視線が重なり合っている。
「丸子」と「鞠子」という表記の揺れは、この土地が持つ多層的な時間の堆積を象徴しているのかもしれない。鎌倉時代の「麻利子」から、江戸時代の「丸子」そして「鞠子」へ。読みは一貫して「まりこ」であったとしても、時代や人々の認識、あるいは出版の都合といった様々な要因によって、その表記は変化してきた。これは、地名が固定的なものではなく、常に解釈され、再構築されていく生きた存在であることを教えてくれる。どちらが「正しい」というよりも、両方の表記がこの土地の歴史の一部として受け止められるべきだろう。
丸子宿は、東海道五十三次の中で最も小さい宿場の一つでありながら、その規模以上の存在感を放ってきた。それは、宇津ノ谷峠という自然の難所が旅人に与える疲労と、それに対する「とろろ汁」という土地固有の恵みが提供する癒やし、そしてその情景を文学や芸術が切り取ったことによって、旅人の記憶に深く刻み込まれたからに他ならない。現在の丸子を歩くと、その静かな佇まいの中に、かつて多くの旅人が行き交い、土地の恵みに舌鼓を打ったであろう情景が、ふと脳裏に蘇るような感覚がある。それは、歴史が単なる過去ではなく、今もなお息づいている証左と言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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