2026/6/23
甲州市はなぜ葡萄とワインの産地になったのか?街道が拓いた歴史

甲州市の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
山梨県甲州市の歴史を、縄文時代から武田氏の時代、そして近代のワイン産業まで辿る。盆地の地理的条件と甲州街道が、葡萄栽培と地域文化の発展に果たした役割を明らかにする。
山が育む盆地の記憶
山梨県の東端に位置する甲州市を訪れると、目に飛び込んでくるのは、なだらかな斜面に広がる果樹園の風景だ。特に春には桃の花が淡いピンク色に染め上げ、秋には葡萄の葉が紅葉し、四季折々にその表情を変える。この豊かな農業景観は、一見すると自然の恵みのみによって育まれたように見えるが、その背後には千数百年にわたる人々の営みと、幾多の歴史が刻まれている。甲府盆地という内陸の閉鎖的な地形でありながら、なぜこの地が日本の歴史の重要な局面で存在感を示し、独自の文化を花開かせたのか。その問いの答えは、土と水、そして人々が切り拓いてきた道筋の中に隠されている。
古代から戦国へ、甲斐の道のり
現在の甲州市は、2005年(平成17年)に旧塩山市、旧勝沼町、旧大和村の3市町村が合併して誕生した。その市域は、太古の昔から人々の生活の場であったことが、数多くの縄文時代の遺跡から窺える。例えば、中央自動車道建設に伴い発掘された釈迦堂遺跡群からは、縄文時代中期を中心とする土器や土偶が大量に出土しており、その数は国の重要文化財に指定された5,599点にも及ぶという。特に土偶は1,116点と、一つの遺跡からの出土数としては日本有数を誇る。この地域が、縄文時代には既に活発な文化が育まれる拠点であったことを示しているのだ。
古墳時代に入ると、甲府盆地南縁に畿内色の影響を受けた大型古墳が築造され、ヤマト王権の東国における進出拠点であったことが指摘されている。 平安時代には「甲斐国」の名が文献に現れ、律令制のもとで東海道に属する国として位置づけられた。 勝沼地域は、当時の山梨郡野呂郷や巨摩郡の一部に含まれ、在庁官人である三枝氏が大きな影響力を持っていたとされる。三枝氏と深い繋がりのある大善寺が勝沼に現存することは、その歴史的な背景を裏付けるものだろう。
中世、甲斐国は京都と関東の中間に位置することから、両政権にとって防衛上の要衝とされた。 やがて甲斐源氏が盆地各地に進出し、その中でも武田氏が甲斐守護職を独占するようになる。戦国時代、武田信虎は永正16年(1519年)に居館を石和から躑躅ヶ崎(現在の甲府市)に移し、天文元年(1532年)頃までには甲斐国内の統一を果たす。 その嫡男である武田信玄(晴信)の時代には、信濃国への侵攻を本格化させ、川中島の戦いを経て北信濃までを支配下に収めるに至った。 武田氏は、海がなく平地に乏しい甲斐国という地理的制約の中で、領土拡大と内政の安定を両立させる必要があった。そのため、信玄は治水事業や道路整備、そして甲州金と呼ばれる独自の通貨制度を確立するなど、積極的にインフラ投資を行ったとされている。
甲州市域は、この武田氏の領国経営において重要な役割を担った。恵林寺や向嶽寺など、武田信玄や勝頼にゆかりの深い寺社が数多く存在し、武田家の保護を受けて栄えた歴史を持つ。 特に恵林寺は信玄の菩提寺と定められ、武田家終焉の地である田野には勝頼の供養のための景徳院が建立された。 これらの寺社は、単なる信仰の場に留まらず、地域の文化の中心として機能し、多くの歴史文化遺産や伝統行事が今日まで継承されている。甲州市は、国宝3件をはじめとする指定・登録文化財の数が山梨県一を誇るという事実が、この地の歴史の深さを物語っている。
盆地の恵みと街道が拓いた道
甲州市の歴史を語る上で欠かせないのが、その地理的条件と、そこから生まれた産業である。甲府盆地の東端に位置する甲州市域は、北部の秩父多摩甲斐国立公園から連なる大菩薩嶺をはじめとする雄大な山々に囲まれている。 これらの山々から流れ出る複数の河川が形成した複合扇状地は、水はけの良い土壌と豊かな日照時間に恵まれ、果樹栽培に適した土地となった。 古くからこの地では、桃、李、柿などの「甲州八珍果」と呼ばれる農産品が栽培されてきたが、中でも葡萄は特筆すべき存在である。
甲州における葡萄栽培の起源には諸説あるものの、約1300年前、シルクロードを経て中央アジアのコーカサス地方から中国、そして日本へと伝来したと考えられている。 特に勝沼地域は、日本における葡萄栽培発祥の地とされており、古刹・大善寺を開創した僧行基が夢の中で薬師如来から葡萄を授かり、これを薬草として広めたという「行基説」や、雨宮勘解由が自生の山葡萄とは異なる蔓植物を発見し、栽培を始めたという「雨宮勘解由説」などが伝わっている。
江戸時代に入ると、甲州街道の整備がこの地の産業に大きな影響を与えた。甲州街道は江戸幕府によって整備された五街道の一つであり、江戸日本橋から信濃国下諏訪宿までを結ぶ約205キロメートルの主要幹線道路であった。 当初は江戸城に何かあった際の軍用路や避難路としての役割が重視されたが、江戸時代中期以降には、甲州・信州から江戸へ農産物を運ぶ流通の道としての重要性が増した。 勝沼宿は、甲州街道沿いの宿場町として栄え、特に葡萄や桃などの果物が豊富に獲れることから、多くの旅人が甘味を目当てに立ち寄ったという記録も残る。 江戸市場での需要の高まりを受け、勝沼地域の葡萄は「献上葡萄」として幕府に献上されるほどになり、甲州街道は葡萄の産地としての勝沼の名を広める上で不可欠な存在であった。
また、甲州市の一部である旧塩山市域は、古くから「塩ノ山」に由来する地名を持ち、古今和歌集にも詠まれるなど、宮廷歌人からは「桃源郷」のように考えられた歴史を持つ。 塩ノ山は、室町時代に創建された向嶽寺の山号「塩山」の由来ともなっている。 このように、甲州市の歴史は、豊かな自然条件と、それを活かした人々の知恵、そして外部との交流を可能にした街道というインフラが複雑に絡み合いながら形成されてきたのである。
街道が繋いだ、二つの「甲州」
甲州街道は、江戸と甲斐国を結ぶ幹線道路として、軍事的な意味合いだけでなく、文化や経済の交流を促す重要な役割を担った。江戸の「五街道」として整備された他の街道、例えば東海道や中山道と比較すると、甲州街道は山間部を縫うように進む難所が多く、特に笹子峠や小仏峠などは「甲州街道最大の難所」として知られていた。 しかし、この地理的な特徴が、甲斐国独自の文化形成に影響を与えた側面もある。
東海道が海沿いを走り、全国各地からの物資や情報が比較的容易に行き交ったのに対し、甲州街道は内陸の山国である甲斐国と江戸を結ぶ、ある意味で「閉じた」動脈であった。これにより、甲斐国は独自の文化圏を維持しつつ、江戸の文化や流行を適度に取り入れることができた。例えば、江戸時代中期以降には、甲府産の綿や葡萄が江戸へ運ばれる一方で、江戸大歌舞伎の興行が沿道の人々を刺激し、地芝居や村芝居の流行を促したという。 街道は、単なる物流の道ではなく、文化の伝播路でもあったのだ。
また、甲斐国は「甲州金」と呼ばれる独自の通貨制度を持っていたことでも知られる。 戦国時代に武田信玄が整備したとされるこの通貨は、金山の開発と結びつき、甲斐国の経済的自立を支えた。これは、全国的に統一された貨幣経済が浸透する中で、地域独自の経済圏を築いた稀有な例と言える。他の大名領国が幕府の貨幣制度に依存する度合いを高めていく中で、甲斐国が一定の経済的独立性を保てたのは、山々に囲まれた地形と、それを逆手に取った信玄の統治手腕の賜物だろう。
現代においても、「甲州」という言葉は、山梨県全体を指す代名詞として使われることが多いが、特に甲州市の地域名としても残っている。これは、単なる地名の一致以上の意味を持つ。甲州街道が「甲州」の名を冠した幹線道路であったこと、そしてその道が、戦国時代の武田氏の支配から江戸時代の幕府直轄領、そして近代の産業発展に至るまで、常に甲斐国の中心的な役割を担ってきた地域と密接に結びついていたことを示唆している。つまり、「甲州」という名は、この地の歴史的連続性と、街道が果たした役割の大きさを象徴しているのだ。
ワインの丘に息づく、現代の挑戦
現在の甲州市は、その歴史が育んだ「果樹園交流都市」としての姿を強く打ち出している。特に勝沼地区は、日本における葡萄栽培とワイン醸造の発祥地として知られ、広大な葡萄畑の中に40社を超えるワイナリーが点在する、日本一のワイン生産地となっている。
明治10年(1877年)、政府の殖産興業政策のもと、勝沼町に日本初の民間ワイン醸造会社「大日本山梨葡萄酒会社」が設立されたことが、近代ワイン産業の幕開けとなった。 この会社は、高野正誠と土屋龍憲という二人の青年をワインの本場フランスへ派遣し、本格的な醸造技術を学ばせた。 その後、宮崎光太郎が自宅にワイナリー「宮光園」を開設し、醸造所の見学や葡萄・ワインの飲食・購入ができる観光ぶどう園のスタイルを確立した。 これらの先人たちの情熱と努力が、現在の甲州市のワイン文化の礎を築いたのである。
今日、勝沼地域では約140種類の葡萄が栽培され、日本固有の品種である「甲州種」から造られるワインは、近年国際的にも高い評価を得ている。 多くのワイナリーでは工場見学や試飲が可能であり、宿泊施設を兼ねる「勝沼ぶどうの丘」では常時180種類のワインが試飲できるなど、ワインツーリズムが盛んに行われている。 また、大日影トンネル遊歩道やトンネルワインカーヴ、旧田中銀行博物館といった近代産業遺産も整備され、地域の歴史と産業を結びつけた観光資源として活用されている。
しかし、現代の甲州市のワイン産業もまた、課題に直面している。農業従事者の高齢化や新規就農者の減少は、葡萄栽培の縮小や耕作放棄地の増加を招き、地域農業の持続的な発展が危惧されているのだ。 このため、甲州市では「甲州市ワイン振興計画」を策定し、原料葡萄の安定確保と品質向上、栽培農家への生産支援、そして地域に根ざしたワイン文化の醸成に取り組んでいる。 歴史と伝統を守りつつ、新たな時代への適応を模索する姿が、現在の甲州市にはある。
幾層もの時間が語る、甲州市の風景
甲州市の歴史を辿ると、山に囲まれた盆地という地理的条件が、時に閉鎖性をもたらし、時に独自の発展を促してきたことが見えてくる。縄文時代から続く人々の営みは、肥沃な土壌と水資源に恵まれたこの地で、独自の文化と産業を育んできた。特に、葡萄栽培とワイン醸造は、千数百年の時を超えてこの地に根付き、地域経済の柱となっている。
かつて甲斐国が武田氏の統治下にあった時代、信玄は限られた資源の中で領国を豊かにするため、治水や街道整備といったインフラ投資を積極的に行った。この取り組みは、単なる軍事的な目的だけでなく、後の時代に葡萄などの農産物が江戸へと運ばれる流通経路の基礎となり、地域の経済発展に寄与した。甲州街道という一本の道が、江戸という大消費地と甲斐国の豊かな産物を結びつけ、文化交流の動脈として機能したことは、この地の歴史を語る上で欠かせない要素だろう。
現代の甲州市は、その豊かな歴史的遺産と、先人たちが築き上げたワイン産業を背景に、新たな挑戦を続けている。ワインツーリズムの推進や近代産業遺産の活用は、過去の物語を現代の観光資源へと昇華させる試みである。同時に、農業従事者の高齢化といった喫緊の課題に対し、地域全体で解決策を模索する姿は、歴史が単なる過去の記録ではなく、現在と未来を形作る力であることを示している。甲州市の風景は、幾層にも重なる時間の中で育まれた人々の知恵と努力が、今も息づいていることを静かに伝えているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。