2026/6/14
函館の地形が、なぜ日本の歴史の節目に立ち会ってきたのか

函館の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
函館山が抱く独特の地形は、アイヌとの交易、松前藩の拠点、開港、戊辰戦争の舞台と、日本の歴史の節目に立ち会ってきた。その成り立ちと、幾度もの大火からの再生の歴史を辿る。
函館山が抱く歴史の稜線
函館山から望む夜景は、幾筋もの光の線が漆黒の海に弧を描き、その光の粒がまるで宝石を散りばめたかのようだ、と評されることがある。眼下には市街が広がり、湾が両側から抱え込むように伸びる独特の地形が、この町の輪郭を際立たせる。しかし、この絶景がただの景勝ではないことは、街の成り立ちを知る者には自明だろう。函館の地形は、太古の火山噴火によって生まれた島と、その後に形成された砂州が繋がってできた「陸繋島(トンボロ)」と呼ばれるもので、天然の良港を抱く扇状の平野部が市街地の骨格をなしている。 この地理的条件は、函館が常に外部からの影響を受け入れる「日本の玄関口」としての役割を担ってきたことを物語る。古くはアイヌ民族との交易、近世には松前藩の北方支配の拠点、そして幕末には開国を迫る欧米列強との接点となり、激動の時代の舞台となった。函館の歴史は、その港に吸い寄せられた様々な人々の営みと、幾度となく繰り返された政治的・社会的な転換が、土地の運命と絡み合ってきた物語である。なぜこの町は、これほどまでに日本の歴史の節目に立ち会ってきたのだろうか。その問いは、この街の風景の奥に横たわっている。
北の交易と松前藩の影
函館の地は、もともとアイヌの人々によって「宇須岸(ウスケシ)」、すなわち「湾の端」と呼ばれていたという。 和人との交流が始まるのは室町時代中期に遡る。1454年、津軽の豪族・河野政通がこの地に「館」を築いた際、その姿が箱に似ていたことから「箱館」と呼ばれるようになったと伝わる。 これは北海道の地名としては珍しく、アイヌ語に由来しない固有名詞である。 この時期、アイヌと和人の間では交易が行われる一方で、和人の圧政に対するアイヌの反乱も散発した。1457年にはコシャマインの戦いと呼ばれる大規模な蜂起が発生し、多くの和人居館が陥落したが、蠣崎氏(後の松前氏)の武田信広がこれを鎮圧したとされる。
江戸時代に入ると、蠣崎氏は豊臣秀吉や徳川家康から蝦夷地における交易独占権を認められ、「松前」と改姓し松前藩を成立させた。 松前藩は農業を基盤とする一般的な藩とは異なり、アイヌとの交易を財政基盤としていた点が特異である。 箱館は、松前や江差と並び、松前藩の主要な交易港の一つとして栄えた。当初、北前船にとって箱館の魅力は限定的であったが、東蝦夷地が幕府直轄領となると状況は一変する。
18世紀後半から19世紀初頭にかけて、ロシアの南下政策が活発化し、カムチャツカ半島からベーリング海へと勢力を伸ばす中で、蝦夷地への進出も窺っていた。1792年にはロシア使節ラックスマンが根室、次いで箱館に来航し、通商を要求した。 この動きに危機感を覚えた幕府は、1802年に東蝦夷地を松前藩から直轄領とし、箱館奉行所を設置した。 これにより、箱館は北方防衛の拠点であると同時に、幕府直轄の交易拠点として急速に発展を遂げることとなる。豪商・高田屋嘉兵衛のような人物も現れ、幕府との関係を深めながら、日露間の紛争解決や海運業の発展に貢献した。箱館はこの時期、北前船の寄港も急増し、市街地の整備も進められた。 しかし、この幕府による直轄化は一時的なものであり、松前藩と幕府の間で蝦夷地の支配権は幾度か移り変わることになる。
開港と戊辰の嵐
1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航し、翌1854年に日米和親条約が締結されると、下田とともに「箱館」が開港されることとなった。 燃料や食料を補給するための寄港地としての開港であったが、1859年には日米修好通商条約の発効により、横浜、長崎と並ぶ日本初の本格的な国際貿易港として、箱館は世界に門戸を開く。
開港は箱館の町に大きな変革をもたらした。港には様々な国の船が行き交い、外国人居留地が設けられ、西洋文化が急速に流入した。洋館や教会、和洋折衷の住宅が建てられ、現在の函館西部地区に残る独特の異国情緒あふれる街並みが形成されていく。 当初、幕府が海岸付近に設けた居留地は、眺望を好む外国人領事や商人にはあまり歓迎されず、彼らは函館山の中腹にある高台に居を構えることが多かった。 このような経緯が、現在の元町エリアに教会や領事館が集中する景観を生み出したと言える。
しかし、開港は単に文化的な交流をもたらしただけでなく、日本の政治情勢を一層緊迫させた。外国船の来航に備え、箱館の防備強化が急務となり、1857年には蘭学者の武田斐三郎の設計により、西洋式の星形要塞である五稜郭の築造が開始された。 函館港から約3km離れた亀田村の丘陵地に築かれた五稜郭は、港からの艦砲射撃の射程外にあり、稜堡と呼ばれる5つの角を持つことで死角を減らす設計が特徴であった。 1866年に完成した五稜郭は、そのわずか2年後に幕府が崩壊するという激動の時代を迎える。
大政奉還後、鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争は、遠く蝦夷地へと波及する。1868年10月、旧幕府海軍副総裁であった榎本武揚が率いる旧幕府脱走軍は、無人となっていた五稜郭を占拠。新選組副長・土方歳三らも加わり、蝦夷地を「蝦夷共和国」と称して新政権を樹立した。 これに対し、新政府軍は1869年4月から反撃を開始し、五稜郭を巡る攻防は激しさを増した。 新政府軍の軍艦「甲鉄」による五稜郭への艦砲射撃は、射程距離4km以上という強力なもので、当時の戦局を決定づける要因の一つとなった。 陸海からの総攻撃の末、旧幕府軍は同年5月18日に降伏し、約1年半にわたる戊辰戦争はここに終結した。 五稜郭は、明治維新の動乱における最後の舞台となったのである。戦後、五稜郭内の建物は兵糧庫を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された後、1914年(大正3年)から公園として一般公開され、現在に至る。 函館という地名も、この箱館戦争終結後の明治2年(1869年)頃に「函館」へと改められたとされている。
港町の比較から見えるもの
函館の歴史を特徴づける「開港」と「激動」という要素は、日本の他の港町や北方の都市と比較することで、その独自性がより鮮明になる。例えば、同じく幕末に開港した横浜や長崎といった都市と比較すると、函館の開港はやや異なる背景を持っていたことがわかる。横浜や長崎が欧米列強との本格的な貿易を主眼としていたのに対し、函館はペリー来航時の日米和親条約において、まず「燃料・食料補給のための寄港地」として指定された。 その背景には、ロシアの南下政策に対する北方の防衛拠点としての側面と、天然の良港としての地理的優位性があった。
また、外国人居留地の形成にも違いが見られる。横浜や長崎では、比較的まとまった居留地が計画的に整備されたのに対し、函館では外国人領事や商人が指定された海岸部の埋立地を好まず、函館山の中腹にある高台に自らの居を構える傾向が強かった。 この結果、元町地区には教会や洋館が点在し、坂道と港の風景が一体となった独特の景観が生まれた。これは、単なる経済的合理性だけでなく、眺望や居住環境といった個人の嗜好が都市の形成に影響を与えた例と言えるだろう。
さらに、北海道内の他の主要都市である札幌や小樽との比較も興味深い。札幌は明治政府の開拓使によって、計画的に北海道の行政の中心として整備された都市であり、中央に大通公園が設けられるなど、近代的な都市計画に基づいて発展した。一方、小樽は石炭や農産物の積み出し港として、特に幌内鉄道の開通によって急速に発展した港湾都市である。 これに対し、函館は松前藩時代からの交易拠点としての歴史を持ち、開港によっていち早く国際的な影響を受けた。札幌や小樽が政府主導の「開拓」によって近代化を進めたのに対し、函館はより自生的な「国際交流」と「政治的変動」の波に揉まれながら独自の発展を遂げたと言える。
鉄道網の整備においても、函館の特殊性が垣間見える。北海道内で最も歴史のある函館本線は、小樽から旭川への石炭輸送のために先行して敷設された区間があった一方で、函館から小樽の間、特に長万部から小樽に至る「山線」と呼ばれる区間は、冬季の積雪や急勾配が課題となり、また海上輸送が確立されていたこともあって、その開発は後発となった。 これは、函館が本州との主要な結節点であると同時に、北海道内部の経済動脈とはやや異なる文脈で発展してきたことを示唆している。函館は、単なる機能的な港町や行政都市ではなく、常に外部からの影響と内部の葛藤が交錯する、歴史の舞台であり続けたのである。
幾度もの再生と現代の風景
明治維新後、「箱館」は「函館」と改称され、新たな時代を迎えた。 しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。函館は明治から昭和戦前期にかけて、少なくとも25件もの大火に見舞われてきた。 中でも、1878年(明治11年)と1879年(明治12年)の連続した大火は市街地の主要部を焼き尽くし、1934年(昭和9年)3月21日に発生した「昭和9年函館大火」は、死者2,166名、焼損棟数11,105棟という未曽有の大惨事となった。 この大火では、市街地の約3分の2にあたる2万4千戸以上が焼失し、当時の人口の1%が命を落としたという。
しかし、函館はこの壊滅的な被害から繰り返し立ち上がってきた。大火後の復興計画では、最大幅員55メートルの防火帯が市内に縦横に配されるという斬新な都市計画が実行された。 現在、函館山山頂から見下ろせる市街地の骨格を形作る大規模なグリーンベルト(緑地帯)は、この大火からの復興の証である。 日本初の鉄筋コンクリート造り不燃構造寺院として知られる東本願寺函館別院も、明治40年の大火を受けて再建されたものだ。 これらの大火は、函館の都市景観をその都度変え、より強靭な街へと作り変えてきたと言える。
20世紀に入ると、函館は「北海道の玄関口」としての役割をさらに強める。北洋漁業の基地、函館どっくに代表される造船のまち、そして国鉄青函連絡船の発着する交通の要衝として繁栄した。 1897年には東京以北初の馬車鉄道が開業し、1913年には路面電車(市電)が走り始め、市民の足として定着した。 しかし、北洋漁業の衰退や、1988年の青函トンネル開通による青函連絡船の廃止など、時代の変化とともにその役割も変遷していく。
現代の函館は、これらの歴史を背景に、年間500万人以上が訪れる観光都市として知られている。 函館山からの夜景や、異国情緒あふれる西部地区の街並み、五稜郭公園といった歴史的遺産が主要な観光資源となっている。 2016年には北海道新幹線が開業し、新函館北斗駅が開設されたことで、陸路でのアクセスも強化された。 港湾都市としての機能も依然として重要であり、外貿コンテナ航路や本州とのフェリー航路が北海道の物流拠点として機能している。 また、「函館国際水産・海洋都市構想」のような産学官連携の取り組みも進められ、水産・海洋に関する研究拠点としての発展も目指されている。
風土が刻んだ幾重もの記憶
函館の歴史を辿ると、この街が単なる地理的な要衝であっただけでなく、常に日本の歴史の大きなうねりの中に身を置いてきたことが見えてくる。天然の良港という地理的条件が、古くから交易の場となり、異文化との接触を促した。それが松前藩による北方支配の拠点となり、ロシアの南下という国際情勢の中で幕府直轄地へと変貌していく。
そして、幕末の開国という国家的な転換点において、函館は横浜や長崎と並ぶ国際貿易港としての役割を担い、西洋文化の窓口となった。さらに、戊辰戦争の最終局面では、旧幕府勢力が独立を夢見た最後の舞台となり、五稜郭という西洋式要塞が、日本の歴史の終焉と再生の象徴としてその名を刻むことになった。これらの出来事は、函館という土地が持つ「辺境と中心」「伝統と革新」「日本と世界」という複数の顔を浮き彫りにする。
幾度となく街を焼き尽くした大火災は、そのたびに都市の姿を変え、防火帯という形で新たな骨格を刻み込んだ。それは、自然の猛威に屈することなく、むしろそれを乗り越えることで、より強靭な都市へと再生してきた函館の回復力を物語る。歴史の層が深く積み重なったこの街は、訪れる者に、単なる観光地の美しさだけでなく、その背景にある幾重もの物語を語りかけてくるだろう。函館の風景は、過去の出来事をただ提示するのではなく、それらの記憶が現代の街並みにいかに息づいているかを、私たちに教えてくれるのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 古地図・絵図で見る、函館の歴史 | 特集一覧 | はこぶらhakobura.jp
- 函館 | 道南圏 | アイヌ文化情報検索 | 赤れんが庁舎 展示ガイドakarenga-exhibitionguide.pref.hokkaido.lg.jp
- 【函館の観光・歴史】詳しく・わかりやすく解説!tetsudou-kyukyoku.com
- 松前藩:北海道/ホームメイトtouken-world.jp
- 松前藩 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 北海道 函館市 | 北前船 KITAMAE 公式サイト【日本遺産・観光案内】kitamae-bune.com
- 箱館奉行所と箱館開港物語 | 特集一覧 | はこぶらhakobura.jp
- umeshunkyo.or.jp