2026年5月18日
小鹿田焼と小石原焼、似て非なる「用の美」の探求
大分県と福岡県に伝わる小鹿田焼と小石原焼は、朝鮮半島由来の技法を持ちながら異なる発展を遂げた。本記事では、水車と唐臼を用いる小鹿田焼の厳格な伝統継承と、多様な表現を許容する小石原焼の広がりを比較し、それぞれの「用の美」と手仕事の価値を探る。
山中の水音が響く集落で
山深い集落に足を踏み入れると、まず耳に届くのは水車の音だ。木々を抜けて流れる沢の水が、ごうごうと音を立てて木製の水車を回し、その力で唐臼がリズミカルに土を搗く。大分県日田市の小鹿田(おんた)焼の里は、まるで時間が止まったかのような風景が広がる。しかし、この伝統的な製法が、ただ古くから続いているだけではない。同じ福岡県朝倉の小石原(こいしわら)焼と、なぜこれほどまでに似た技法を持ちながら、それぞれが独自の道を歩んできたのか。そして、この二つの焼き物が、日本の陶芸史においてどのような位置を占めるのか。その問いが、水車の音に重なって響いてきた。
朝鮮からの技術が根付くまで
小石原焼の起源は、江戸時代初期の1669年、福岡藩主・黒田光之が肥前有田から陶工を招き、高取焼の源流である古高取の技術を導入したことに始まるとされている。当初は藩の御用窯として発展したが、その後、日用雑器の生産へと移行し、民衆の暮らしに根ざした焼き物へと変化していった。一方、小鹿田焼は、その小石原焼から技術が伝わったのが始まりだ。1705年、小石原焼の陶工・柳瀬三右衛門と、高取焼の陶工・高取八蔵が招かれ、小鹿田の地に窯を開いた。これは、福岡藩が小石原焼の技術保護と、新たな窯場の開拓を意図したものであったという。
小石原と小鹿田、どちらも朝鮮半島からの影響を強く受けている点が共通する。特に、ろくろを回しながら化粧土を施し、工具で模様をつける「飛び鉋(かんな)」や、刷毛で文様を描く「刷毛目(はけめ)」といった技法は、朝鮮半島の粉青沙器(ふんせいさき)にルーツを持つとされる。これらの技法が、筑前国(現在の福岡県)の山深い土地で独自の進化を遂げた背景には、原料となる陶土の質や、燃料となる木材の確保、そして何よりも水運の便が大きく関わっていた。山間部という地理的条件が、外部からの影響を受けつつも、それぞれの地域で技術を閉鎖的に育む土壌となったのである。
技法が織りなす「用の美」
小鹿田焼と小石原焼の製法は、共通点が多い。両者ともに、陶土を水車の力で動く唐臼で搗き、手作業で土を練り上げる。成形も蹴りろくろを使い、釉薬は地元の山から採れる木灰や長石などを調合して作るのが一般的だ。そして、登り窯や半地上式窯で焼成する。これらの工程は、機械化された現代の陶器製造とは一線を画し、多くの手間と時間を要する。
