2026/5/28
駿府城の石垣が語る、家康と静岡の二つの顔

駿府城の歴史と、城下町としての静岡の歴史について知りたい。
キュリオす
徳川家康が二度本拠地とした駿府城。今川氏の都から天下統一の拠点、そして大御所政治の中心へと変貌した城と、東海道の要衝として発展した城下町の歴史を辿る。
静岡市街の中心部に立つと、広大な駿府城公園の石垣が目に入る。堀に囲まれたその姿は、かつて強大な権力がこの地に存在したことを静かに物語っている。しかし、今の穏やかな都市景観からは、徳川家康が二度も拠点とし、日本の歴史を動かす舞台となったこの地の熱気を想像しにくいかもしれない。なぜ、この駿河の地に、家康はこれほどまでに執着し、そしてその後の静岡の町にどのような痕跡を残したのか。その問いを抱えて、城跡を巡る。
駿府の地が歴史の表舞台に登場するのは、室町時代に駿河を支配した今川氏の拠点となってからである。今川氏は、足利将軍家と血縁を持つ名門であり、駿府を「今川館」を中心とした文化的な都として発展させた。家康、幼名竹千代は、この今川氏の人質として駿府で少年期を過ごした。彼がこの地で得た教養や人脈は、後の天下統一に少なからず影響を与えたと言われる。今川氏が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、求心力を失うと、家康は独立。やがて駿河を手中に収め、1585年(天正13年)には駿府城の築城を開始した。この最初の築城は、織田信長亡き後の豊臣秀吉との対決を意識したもので、天守を備えた近世城郭として整備された。この時期の駿府は、家康が三河・遠江に加え駿河を治める大大名としての本拠地であった。しかし、1590年(天正18年)、家康は秀吉の命により関東へ移封され、駿府城は中村一氏が城主となる。家康が築いた駿府城は、わずか数年でその手を離れることになった。
家康が再び駿府の地に戻るのは、関ヶ原の戦いを経て江戸幕府を開いた後の1607年(慶長12年)である。将軍職を秀忠に譲り、自らは「大御所」として駿府に入った。これは単なる隠居ではなく、むしろ二元的な政治体制「駿府政権」を確立し、全国政治の実権を掌握し続けるための戦略的な移転だった。この時、駿府城はかつてない規模で大改築が行われた。全国の大名に「天下普請」として石垣や堀の工事が命じられ、五層七階という巨大な天守が築かれた。これは江戸城を上回る規模であったとも言われ、家康の権威を象徴するものだった。駿府には、幕府の直轄領の奉行や代官が置かれ、諸大名への指令や外交政策もここから発せられた。また、ジョン・セーリスやウィリアム・アダムスといった外国人が家康に謁見したのも駿府であり、海外との交易や情報収集の拠点としての機能も担っていた。この時期の駿府は、実質的な日本の首都としての役割を果たしていたと言える。
駿府の城下町は、家康の居城としての役割と、東海道の要衝という地理的条件が重なり、独特の発展を遂げた。家康が駿府に本拠を置いたことで、多くの武士や商人、職人が集住し、町は急速に拡大した。城の周囲には武家屋敷が配置され、その外側には寺社が並び、さらにその外側に町人地が広がった。東海道が町の中央を貫き、宿場町としての機能も強化された。特に、家康が大御所として駿府に滞在した時期には、全国から物資や情報が集まる一大拠点となり、経済活動が活発化した。駿河湾に面した清水港(当時は清水湊)も、駿府への物資輸送の玄関口として発展した。漆器や竹細工といった伝統工芸もこの頃から栄え始め、家康が奨励したと言われる茶の栽培も、後の静岡茶の基盤を築くことになった。駿府の町は、単なる地方都市ではなく、江戸幕府の政治・経済・文化の一翼を担う重要な存在だったのである。
駿府城が持つ歴史的重みは、他の多くの城郭都市と比較することでより明確になる。例えば、江戸城が将軍の居城として政治の中心であったのに対し、駿府城は「大御所」という特殊な権力者の拠点であった点が異色だ。一般的に、将軍職を譲った隠居の地は、政治的な影響力を失うことが多い。しかし、家康の駿府入城は、むしろ将軍秀忠の江戸政権と並ぶ、あるいはそれを上回る実権を伴うものであった。これは、家康の卓越した政治手腕と、彼が構築した盤石な権力基盤を示すものだろう。また、豊臣秀吉が隠居後に伏見城で政務を執った例もあるが、伏見城は短期間で廃城となり、その政治的影響力も家康の駿府政権ほど持続的ではなかった。駿府は、家康の死後も「駿府城代」が置かれ、幕府の直轄地として、その重要性が維持された。全国規模の天下普請で築かれた巨大な城郭と、そこから発せられる政治的指令は、他の大名が築いた城下町とは一線を画す、特別な「お膝元」としての性格を駿府に与えたのである。
徳川家康が亡くなった後、駿府城は火災に見舞われるなどして天守は失われたが、本丸や二の丸の石垣と堀は現代までその姿を残している。現在は「駿府城公園」として整備され、市民の憩いの場となっているが、その広大な敷地と重厚な石垣は、かつての威容を偲ばせる。公園内には、家康の手植えと伝えられるミカンや、彼を祀る東照宮の分社なども点在している。城下町として栄えた静岡市は、現在も東海道の要衝としての性格を色濃く残し、交通の便に優れた中核都市として発展している。家康が奨励した茶の栽培は「静岡茶」として全国に名を轟かせ、駿河湾の豊かな海の幸も、古くからの食文化を支えている。現代の静岡市は、かつて日本政治の中心であったという歴史的記憶を、過度に前面に出すことはない。しかし、その穏やかな気風や、東西文化が交錯する都市の性格には、家康が築いた城下町の歴史が静かに息づいているように見える。
駿府城の歴史をたどると、家康がこの地を二度も選び、その都度、城と町を再編していった過程が見えてくる。一度目は天下統一を目指す拠点として、二度目は天下を治めるための「大御所」としての政治空間として。この二度の築城と町の整備は、単に巨大な構造物を作り上げただけでなく、静岡という都市の骨格を決定づけたと言えるだろう。現代の静岡市が持つ、どこか落ち着いた雰囲気の背景には、かつて日本の政治中枢でありながらも、江戸とは異なる「もう一つの中心」としての顔があった。その痕跡は、今も公園の石垣や町割りの随所に残り、訪れる者に、歴史が都市に刻んだ深さを問いかけている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。