2026/6/4
江戸川と利根運河が結んだ、流山の白みりん醸造の歴史

流山の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
流山市は、江戸川と利根運河の水運により、江戸時代から白みりんの一大産地として発展した。良質な米と独自の製法、そして商人の力で栄えた歴史と、現代の都市開発との調和を探る。
流山市を訪れると、目に映るのは新しい住宅地と、都心へと向かう電車が頻繁に行き交う風景だ。つくばエクスプレスの開通以降、都心へのアクセスが良いベッドタウンとして急速に発展してきたこの町は、一見すると歴史の重みとは無縁のように思えるかもしれない。しかし、江戸川の堤防に立てば、その印象は大きく変わる。ゆったりと流れる川面は、かつてこの地が水の交通によって栄え、独自の文化と産業を育んできたことを静かに物語っている。なぜ、この内陸の地が、江戸時代から明治にかけて重要な役割を担うことになったのか。その問いの鍵は、川の流れと、そこに集まった人々の知恵の中にある。
流山の歴史を語る上で、二つの大きな河川、利根川と江戸川の存在は欠かせない。江戸時代初期、現在の利根川は東京湾に直接注いでいたわけではなく、現在の江戸川筋が主要な流路の一つだった。徳川家康による「利根川東遷事業」は、利根川の流路を東へ付け替える大規模な土木工事であり、これにより利根川は銚子へと注ぐようになり、旧流路の一部が江戸川として整備された。江戸川は、その名が示す通り、江戸への物資輸送の大動脈となる。
流山は、この江戸川の中流に位置し、さらに利根川と江戸川を結ぶ「利根運河」の開削によって、その重要性を一層高めた。利根運河は、明治時代に入ってから渋沢栄一の関与のもと、1890年(明治23年)に開通した。これにより、太平洋から銚子を経て利根川を遡上した物資が、運河を通って江戸川に入り、江戸(東京)へ運ばれるという、効率的な水上交通路が確立されたのである。
この交通の要衝としての立地は、流山に多くの人と物資、そして富をもたらした。特に発展したのは、白みりんの醸造業と醤油醸造業だ。流山におけるみりん造りの歴史は古く、1772年(安永元年)には既に製造が始まっていたとされている。江戸の食文化の発展とともに、みりんは料理に欠かせない調味料として需要を拡大し、流山は「みりんの一大産地」としての地位を確立していく。
幕末の動乱期には、流山は新選組の歴史にも登場する。1868年(慶応4年)4月、新選組局長近藤勇と副長土方歳三は、流山で新政府軍に包囲され、近藤勇は投降した。これは新選組にとって事実上の終焉を意味する出来事であり、流山が戊辰戦争の舞台となったことを示す。 このように、流山は単なる通過点ではなく、経済的にも政治的にも、時代の節目にその名が刻まれる場所であった。
流山が白みりんの産地として発展した背景には、複数の要因が複雑に絡み合っている。まず、江戸川の水運がもたらす物流の優位性だ。江戸への近さと、水上輸送による大量輸送が可能だったことが、生産したみりんを効率よく市場に届ける上で不可欠だった。
次に、みりんの主原料である米の調達が容易だったことも挙げられる。利根川水系を通じて、関東平野で収穫された良質な米が流山に集積された。さらに、醸造に必要な水も、江戸川の伏流水や地下水が豊富に得られた。
しかし、単に地理的条件が揃っているだけでは、ここまで大規模な産業は生まれない。流山のみりん醸造業を特徴づけるのは、その製法にある。一般的なみりんはもち米と米麹、焼酎を原料とするが、流山の「白みりん」は、もち米を蒸し、米麹と焼酎を加えて糖化・熟成させる。この製法は、琥珀色の伝統的なみりんに比べ、色がつかず、上品な甘みと香りが特徴で、江戸前の料理に重宝された。この独特の製法を確立し、広めたのが、流山のみりん醸造家たちであった。 彼らは、単に運ばれてくる原料を加工するだけでなく、地域の特性を活かした独自の技術を開発し、市場のニーズに応え続けたのだ。
また、流山には有力な商人たちが集まり、資金力と販売網を確立していった。彼らは江戸の問屋との結びつきを強め、流山みりんのブランド力を高めていった。このように、地理的優位性、豊富な原料、独自の製法技術、そして商人の経営戦略という複数の要素が偶然のように重なり合い、流山はみりんの一大生産地としての地位を確立していったのである。
流山が水運を背景に特定産業を興隆させた例は、日本の他の地域にも見られる。例えば、近江商人の活躍で知られる滋賀県の近江八幡は、琵琶湖の水運を利用して全国に商圏を広げ、多様な特産品を扱った。しかし、近江八幡が「売り歩く」ことに主眼を置いたのに対し、流山は「製造し、送る」ことに特化した点が異なる。 また、醤油醸造で栄えた千葉県の銚子や野田も水運を利用したが、これらは利根川下流や江戸川上流に位置し、太平洋や内陸部との直接的な接点を持つ点で、流山とは異なる物流網を形成していた。
流山は、江戸川の中継点という立地を最大限に活かし、特定の調味料製造に特化することで競争力を築いた。これは、単なる物流拠点ではなく、そこで生み出される「付加価値」によって地域経済を支えた点で、他の水運都市とは一線を画す。また、明治期に利根運河が開削されたが、鉄道の普及とともに水運の重要性は徐々に低下していく。これは、日本各地の多くの水運都市が直面した共通の課題であり、流山も例外ではなかった。しかし、流山の場合は、みりん醸造という内陸産業が既に根付いていたため、水運の衰退後もその産業基盤が完全に失われることはなかった。これは、単一の交通手段に依存するのではなく、地域に根ざした生産活動が併存していたことの強みと言えるだろう。
水運が衰退し、鉄道が主要な交通手段となってからも、流山はみりん醸造の伝統を守り続けてきた。現在も、流山本町地区には、江戸時代から続くみりんの老舗が軒を連ね、当時の面影を残す蔵や商家が点在している。これらの歴史的建造物は、流山市が「流山本町まちなか回遊ルート」として整備を進めるなど、地域の財産として保存・活用されている。
一方で、流山市は近年、都心へのアクセスの良さを背景に、子育て世代を呼び込む「母になるなら、流山。」というキャッチフレーズで知られるようになった。つくばエクスプレスの開通によって人口が急増し、新しい住宅地開発が進む中で、流山市は歴史的な景観と現代的な都市機能の調和を模索している。伝統的なみりん造りは、観光客向けの体験プログラムとして提供されたり、地元の特産品として販売されたりすることで、現代の流山においてもその存在感を示している。 旧市街の静かな佇まいと、新興住宅地の活気が混在する風景は、流山の過去と現在が交錯する様を象徴していると言えるだろう。
流山の歴史を辿ると、都市の発展が単一の要因ではなく、地理的条件、産業技術、そして時代ごとの社会状況が複雑に絡み合って形成されることがわかる。江戸川と利根川という二つの大河に挟まれた立地は、流山に水運という大きな機会をもたらした。しかし、その機会を単なる通過点に終わらせず、独自の白みりん醸造という産業を根付かせたのは、そこに住む人々の知恵と工夫、そして商才であった。
鉄道の時代が到来し、水運の役割が薄れても、流山はみりんという確固たる産業基盤を持っていたため、その歴史的なアイデンティティを失うことはなかった。そして現代、再び交通の要衝として注目され、新たな人口流入が続く中で、流山は過去の遺産をどのように未来へと繋いでいくのかという問いに直面している。歴史的建造物の保存と再活用、伝統産業の現代における位置づけ、そして新しい住民との共存。これらは、流山が川の流れと共に歩んできた道のりが、今も都市の選択として現れていることを示している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。