2026年5月18日
博多・福岡は古代から中世、どのように「窓」であり続けたのか
古代の「漢委奴国王」金印から、大宰府の「筑紫館(鴻臚館)」、そして宋人商人の往来や「袖の湊」築造まで、博多は大陸との交流の玄関口であった。元寇の防塁築造を経て、自治都市へと発展した中世の博多の歴史を解説する。
玄界灘に開かれた窓
福岡の地に立つと、市街地のすぐそばに広がる博多湾の存在感が際立つ。古くからこの湾は、単なる漁場や交通路以上の意味を持ってきた。対馬海峡を越え、朝鮮半島や中国大陸へと視線を向ければ、博多が古代からいかに外界と密接な関係を築いてきたかが実感できるだろう。なぜこの地が、日本の歴史において特別な「窓」であり続けたのか。それは、地理的な優位性だけでなく、為政者の思惑と民間の活力が複雑に絡み合った結果でもある。
筑紫の館、遠の朝廷
博多の地が日本の歴史に登場するのは、弥生時代にまで遡る。志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印は、西暦57年にはすでに奴国が後漢と交流していたことを示している。この頃から、博多は大陸との玄関口としての役割を担っていたのだ。当時「那の津」と呼ばれたこの港は、大和朝廷の外港として位置づけられた。博多という地名が文献に初めて現れるのは、奈良時代の759年、「続日本紀」に「異国の侵攻に備えて博多大津の警固を厳重にしなければならぬ」という大宰府の報告が記された時である。
飛鳥時代から奈良時代にかけて、九州の統治と外交を担うために置かれたのが「大宰府」である。大宰府は、現在の太宰府市に位置し、約2キロメートル四方の本格的な都城を形成し、律令国家の「西の都」として機能した。その外交施設として、現在の福岡城内に「筑紫館(つくしのむろつみ)」が設置された。これは後に平安時代に「鴻臚館(こうろかん)」と改称され、唐や新羅からの使節を迎え、日本からの遣唐使や遣新羅使が旅支度を整える迎賓館の役割を担った。鴻臚館は9世紀前半までは外交施設としての性格が強かったが、9世紀後半以降は貿易の拠点としての性格を強めていく。鴻臚館跡からは中国の越州窯青磁や長沙窯磁器、さらにはイスラム陶器や西アジアのガラス器など、国際色豊かな遺物が出土しており、当時の活発な交流を裏付けている。
商いの波、宋人の往来
平安時代中期になると、国家主導の遣唐使は廃止されるが、大陸との交流が途絶えたわけではない。むしろ、鴻臚館での官貿易が衰退するにつれて、民間主導の貿易が活発化し、博多は国際貿易都市として発展していった。11世紀後半、鴻臚館に代わる交易の拠点となった博多には、多くの宋人商人が来航し、居住区である「大唐街」が形成されたという。彼らは「博多綱首」と呼ばれ、博多と中国を往復して交易に従事した。
