2026/6/14
なぜ清水と江尻、二つの地名が共存するのか?巴川が繋いだ宿場と港の歴史

静岡の清水はなぜ清水?江尻宿では?また別?
キュリオす
静岡市清水区では「清水」と「江尻」という二つの地名が並存する。本記事では、巴川の河口という地形を基盤に、城下町・宿場町として栄えた「江尻」と、湧水と港として発展した「清水」が、どのように互いに影響し合い、やがて一つの行政区へと統合されていったのか、その歴史的経緯を辿る。
巴川のほとり、二つの名が交差する場所
静岡市清水区を歩くと、駅名や商店街、あるいは地域の名称として「清水」と「江尻」という二つの言葉が並び立つことに気づく。JRの駅は「清水駅」だが、かつては「江尻駅」であったという。東海道の宿場町としては「江尻宿」の名が知られ、そのすぐ近くには「清水港」が栄えてきた。現代の地図上では一つの区として括られるこの土地で、なぜ二つの異なる地名が、それぞれに強い存在感を放っているのか。それは単なる呼称の問題ではなく、この地の地形と歴史が織りなした複雑な経緯にその答えがある。
江尻城下の賑わいと清き水の港
現在の静岡市清水区の中心部にあたる一帯は、古くから交通の要衝であった。特に、巴川の河口部に位置する地理的な利点は、歴史を通じてこの地域の性格を決定づけてきたと言えるだろう。まず「江尻」という地名は、巴川の「江の尻」、すなわち入江の最奥部や川の下流に位置することに由来するとされる。この地の利に着目したのは、戦国時代の武将たちであった。永禄12年(1569年)、甲斐国の武田信玄は駿河支配の拠点として、巴川河口近くに江尻城を築城した。城下町として整備された江尻は、鍛冶町や鋳物師町、紺屋町といった専門職の集落を擁し、軍事的な拠点であると同時に経済的な繁栄も享受したのである。
一方、「清水」という地名は、その名の通り「清い水」に由来すると伝えられている。この地域には古くから豊富な湧水があり、特に浜田町に伝わる「チャンチャン井戸」の伝説は、その象徴的な物語として語り継がれてきた。今からおよそ八百年ほど前、この地に流れ着き疲労困憊していた旅の僧を村人が助けたところ、僧は恩返しにと良質な井戸の場所を示したという。村人がその場所を掘ると、突然清らかな水が湧き出し、人々はこれを「チャンチャン井戸」と呼んで大切にした。この井戸の水は飲料水としてだけでなく、後に清水湊に入港する船への補給水としても活用されたとされ、「清水」という地名の由来になったとも言われている。
江尻が城下町として発展する以前から、巴川の河口部には「江尻津」と呼ばれる湊が存在した。平安時代には、巴川の対岸にあった国府の外港「入江浦」への渡場として機能し、鎌倉時代後期以降には、入江浦に代わって江尻津が巴川河口部の主要な湊として隆盛したと見られている。その後の戦国期には、巴川を挟んだ対岸の地も「清水湊」と呼ばれるようになり、江尻湊と清水湊は機能的に密接な関係を築いていったのである。徳川家康が駿河の領主となると、清水は軍事上、海上交通の要衝と見なされ、慶長10年(1605年)には港町が整備された。港の中心は巴川岸に移り、江戸時代には江戸と大阪、東海各地を結ぶ物資輸送の中継基地として、多くの千石船が行き交う活気あふれる場所となったのである。
陸と海の動脈が交差する宿と湊
江戸時代に入ると、江尻と清水はそれぞれ異なる役割を担いながら、互いに補完し合う関係を深めていった。江尻は、東海道五十三次の江戸から数えて18番目の宿場町「江尻宿」として整備された。当時の江尻宿は、戸数約1,340軒、人口約6,500人を擁し、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒が軒を連ねる駿河国内でも有数の規模を誇る宿場であったという。旅人や物資が行き交う陸路の要衝として、その賑わいは東海道広重の浮世絵にも描かれるほどであった。
一方、清水湊は、巴川の河口を利用した「川港」としての性格を強く持っていた。江戸幕府は清水湊を重要視し、駿府町奉行支配の蔵が多数立ち並び、甲斐や信濃方面から富士川舟運で運ばれてくる年貢米や、西国の赤穂の塩などを江戸へ送る中継基地としての役割を担った。さらに、大阪と江戸を結ぶ沿海海運の中継港としても機能し、多くの廻船問屋が商業活動を展開したのである。廻船問屋は単なる運送業者に留まらず、海上警備や水難事故対応の義務も負い、地域の物流と安全を支える重要な存在であった。
こうした陸と海の動脈が交差する立地は、江尻と清水の双方に繁栄をもたらした。江尻宿の旅籠に泊まった旅人は、清水湊から船で運ばれてくる珍しい品々に触れ、清水湊の商人たちは、東海道を行き交う人々の情報や需要を江尻宿から得ることができた。両者は単に隣接するだけでなく、物流と人流という点で不可分な関係にあったと言える。
しかし、明治時代に入り、近代化の波が押し寄せると、この関係性にも変化が生じる。明治22年(1889年)に東海道線が開通すると、物資輸送の主役が海運から鉄道へと移り、清水港は一時的に大きな打撃を受けた。港の荷扱いは激減し、活気を失いかけたのである。これに対し、清水町長望月万太郎をはじめとする地元の人々は、外国航路に活路を見出し、開港運動を展開した。その結果、明治29年(1896年)には開港外貿易港に、そして明治32年(1899年)には国際貿易港として指定され、清水港は近代港湾として新たな一歩を踏み出すことになった。茶の海外直接輸出を皮切りに、柑橘類、缶詰、オートバイ、楽器など、静岡県内の生産品を中心に輸出が盛んになり、港域と機能は拡大していったのである。
このように、江尻宿と清水湊は、それぞれが異なる時代背景と機能を持つ地名として成立し、江戸時代には互いに依存し合う形で発展を遂げた。そして明治以降、清水湊が国際貿易港としての道を歩む中で、やがて両者は行政的な統合へと向かうことになる。大正13年(1924年)には庵原郡江尻町が安倍郡入江町に編入され、その直後の同年2月11日には、入江町が清水町、不二見村、三保村と合併して「清水市」が発足したのである。この合併の際、「清水市」とするか「江尻市」とするかで議論があったとされるが、最終的には近代港湾として発展を遂げつつあった清水湊の繁栄が軍配を上げた形となった。
宿場と港町の集合に見る地域の多様性
日本の歴史を顧みると、陸路の要衝である宿場町と、水路の要である港町が隣接し、互いに影響し合いながら発展した事例は少なくない。例えば、瀬戸内海沿岸の鞆の浦や、日本海側の酒田港などが挙げられるだろう。これらの地域もまた、交通の結節点としての地理的優位性を背景に、多様な人や物が集まる場所として栄えた。宿場は旅人や物資の中継地点として、港町は海産物や遠隔地からの物資の集散地として、それぞれが独自の経済圏を形成しながらも、地域全体としては一つの有機体として機能していたのである。
しかし、清水と江尻の事例には、いくつかの特徴が見られる。一つは、巴川という一つの河川を介して、川港としての「清水湊」と、その下流部に位置する「江尻宿」が形成された点である。これは、河川が内陸と海を結ぶ重要な物流経路であったことを示している。また、江尻が戦国時代に城下町として発展した歴史を持つ一方で、清水湊は古くからの湧水地としての性格と、海上交通の要衝としての性格を併せ持っていた。単なる宿場と港の組み合わせに留まらず、軍事拠点、城下町、そして清らかな水の供給源という、複数の要素が複雑に絡み合っていたのである。
例えば、全国各地にある「清水」という地名は、多くが湧水地や清流に由来するものであり、必ずしも大規模な港湾を伴うわけではない。同様に「江尻」という地名も、川の尻や入江の奥を指すことが多く、各地に点在する。しかし、静岡の清水・江尻のように、それぞれが異なる由来を持つ地名が、巴川という共通の地理的基盤の上に、宿場と港という異なる機能を持って発展し、やがて「清水市」として統合された事例は、その経緯において独特である。
このような複合的な発展は、地域が持つ独自の性格や特色にも影響を与えてきた。江尻宿は東海道の文化を色濃く残し、清水湊は海洋文化と国際交流の窓口としての性格を強く持つ。両者が行政的に統合された後も、それぞれの歴史が育んだ文化や風土は地域に根強く残り、現代の清水区の多様な魅力を形成する要素となっている。それは、単一の機能や歴史で語りきれない、多層的な物語がこの土地には存在することを示しているだろう。
今も息づく二つの歴史の痕跡
現在の静岡市清水区を訪れると、かつて「江尻」と「清水」がそれぞれに独自の歴史を刻んできた痕跡が、今も色濃く残されていることがわかる。JR清水駅は、明治22年(1889年)の開業当初は「江尻駅」と称されていた。駅の周辺には、江戸時代の江尻宿の中心であった清水銀座商店街が広がり、当時の賑わいを偲ばせる。また、ちびまる子ちゃんの舞台としても知られる巴川は、今も地域を流れ、その河口部には国際貿易港としての清水港が広がる。
清水港は、1952年(昭和27年)に特定重要港湾に指定され、その後もコンテナ輸送への対応をいち早く進めるなど、国内有数の輸出港として成長を遂げてきた。現在も、木材、大豆、ボーキサイトなどの原材料輸入港として、またマグロ油漬け缶詰や茶の輸出港として、静岡県および中部日本圏の経済を支える重要な役割を担っている。港周辺には、清水次郎長ゆかりの地として知られる船宿「末廣」や生家跡が残り、地域の歴史を今に伝えている。
一方、旧江尻宿のエリアには、江尻小学校の敷地内に江尻城の本丸跡があったとされ、その歴史を語る案内板が設置されている。また、巴川に架かる稚児橋には、川から現れた童子が橋を渡り姿を消したという伝説にちなみ、河童の像が置かれている。こうした具体的な地名や史跡が、かつて宿場町と港町として栄えた二つの地域の記憶を現代に繋いでいるのである。
行政的な名称は「清水区」となったが、地域の人々の間では「江尻」という呼称も依然として日常的に使われている。例えば、地元の小学校には「清水江尻小学校」という名称が残る。これは、単に古い地名を残しているだけでなく、それぞれの地域が培ってきた歴史と文化に対する住民の意識が、今もなお息づいている証拠だろう。現代の清水区は、港湾都市としての機能と、宿場町としての歴史的景観、そして巴川が育んだ豊かな自然が共存する、多面的な顔を持つ都市として発展を続けている。
地名が語る土地の多層性
静岡の清水と江尻を巡る問いは、単に地名の由来を探るだけに留まらない。それは、一つの土地が持つ多層的な歴史と機能、そしてその変遷を浮き彫りにするものであった。清らかな湧水に由来する「清水」という名が、やがて国際貿易港の代名詞となるまでの道のり。そして、巴川の「尻」に位置する宿場「江尻」が、陸路の要衝として栄え、城下町としての顔も持っていた事実。これら二つの名は、それぞれが異なる地理的条件と歴史的背景から生まれ、しかし互いに密接に連携しながら、この地域の発展を支えてきたのである。
現代の「清水区」という行政名称の中に、かつての「江尻」と「清水」という二つの世界が共存しているのは、単なる過去の遺物ではない。それは、巴川という自然の恵み、戦国の動乱、江戸の平和な物流、そして明治以降の近代化という、幾重もの時間がこの土地に積み重なった結果だと言えるだろう。地名が示すのは、単なる場所の記号ではなく、その土地が歩んできた道のりであり、そこに生きた人々の営みの痕跡である。清水と江尻の物語は、地形が人の営みを規定し、人の営みがまた地名を形作るという、歴史の静かな反復を我々に示している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。