2026/6/23
甲州街道はなぜ「非常時の脱出路」に?金の道・お茶壺道中の意外な役割

甲州街道について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
江戸・日本橋から下諏訪宿へ延びる甲州街道。その整備は、将軍の避難路という軍事目的が主眼だった。金の輸送や「お茶壺道中」など、戦略と経済、文化が交錯した道の役割を辿る。
街道の起点、日本橋から諏訪へ
甲州街道は、江戸幕府が整備した五街道の一つであり、江戸・日本橋を起点とし、信濃国下諏訪宿(現在の長野県諏訪郡下諏訪町)で中山道に合流するまで、およそ53里2町余り、約205キロメートルを結ぶ長大な道である。この間には、元禄11年(1698年)に内藤新宿が新設されて以降、45の宿場が置かれたという。
江戸時代初期、この道は「甲州海道」とも呼ばれたが、正徳6年(1716年)には内陸の道であることから「甲州道中」と正式に改称された経緯がある。しかし、現在では「甲州街道」の呼称が広く定着している。
道は江戸城の半蔵門からすぐの場所を通り、内藤新宿、八王子、甲府を経て、山深い信濃へと続いていた。その道のりは、時に多摩川の氾濫によって流路を変え、度重なる付け替えを余儀なくされた箇所もある。現在の旧甲州街道と呼ばれる道筋には、そうした変遷の痕跡が点在しているものだ。
戦国が拓き、江戸が整えた道筋
甲州街道の起源は、江戸時代以前にまで遡る。甲斐国には中世以前から「甲斐九筋(かいくすじ)」と呼ばれる古道が存在し、地域間の交流や軍事的な目的で利用されてきた。中でも、戦国時代に甲斐を治めた武田信玄は、領国経営と対外戦略のため、軍用道路網の整備を積極的に進めたのである。武田軍が小仏峠を強行突破し、八王子滝山城を攻略した永禄12年(1569年)の記録は、後に甲州街道となるルートの原型が戦乱の中で開拓されていったことを示唆している。
関ヶ原の戦い(1600年)で天下統一を果たした徳川家康は、全国支配の一環として、慶長6年(1601年)頃から主要な街道の整備に着手した。甲州街道もその一つとして、慶長7年(1602年)頃から官道としての整備が進められたとされている。当初、その最大の目的は軍事的なものだった。万が一、江戸城が攻撃され落城の危機に瀕した場合に、将軍が甲府城へ退避するための「非常時の脱出路」として構想されたという説が有力である。
このため、街道沿いには防御的な工夫が凝らされた。宿場の出入り口や甲府城東側には、敵を攪乱し、見通しを悪くして攻撃を防ぐための二股に分かれる道や直角に曲がる道が設けられたという。さらに、江戸の四谷には伊賀組・根来組などの「鉄砲百人組」が、八王子には「八王子千人同心」が配置され、街道の防衛を固める役割を担っていた。
慶長9年(1604年)には、道の両側に一里ごとに土を盛って榎などを植える「一里塚」の設置が始まり、旅人の道程を示す目印となった。甲州街道には全部で45の宿場が置かれ、そのうち25宿は甲斐国に位置していた。これらの宿場は、参勤交代で利用する信濃の高島藩、高遠藩、飯田藩の3藩の大名行列を受け入れるほか、幕府直轄地となった甲斐国の甲府勤番の武士たちの往来も支えたのである。
黄金と戦略が交錯する道
甲州街道が整備された背景には、複数の重要な要因が絡み合っている。第一に挙げられるのは、やはりその軍事的な重要性である。江戸城が危機に陥った際の将軍の避難路という側面は、この街道が他の五街道とは異なる性格を持つことを明確にしている。甲府城が徳川家の重要な拠点として位置づけられたことで、江戸と甲府を結ぶこの道は、単なる交通路以上の戦略的な意味合いを持ったのだ。街道の要所には小仏関や鶴瀬関といった関所が設けられ、通行人の取り締まりが行われた。関所の数は他の主要街道に比べて少なかったとされるが、それは軍事的な要衝を厳しく管理するため、あるいは特定の通行をスムーズにするためなど、複合的な理由があったものだろう。
第二に、経済的な役割も看過できない。甲斐国は古くから金の産地として知られ、武田信玄の時代には「甲州金」と呼ばれる独自の金貨が鋳造され、軍事行動や商取引の基盤となっていた。この貴重な金が甲州街道を通って江戸へと運ばれたことは、「金の道」としての性格を街道に与えた。重くかさばる米よりも、金という形で価値を蓄え、迅速に輸送できることは、山に囲まれた甲斐国にとって大きな意味を持ったのである。
また、甲斐国で生産される特産品の輸送路としても機能した。上野原や大月周辺で盛んだった養蚕と織物業が生み出す「郡内織」は、甲州街道を通って江戸へと運ばれ、当時の江戸の衣服文化にも影響を与えたという。甲府盆地で栽培されるブドウ、モモ、柿などの「甲州八珍果」と呼ばれる農産品も、この街道を通じて江戸の市場へと供給された。こうした物資の運搬には、牛や馬を使った「中馬(ちゅうま)」と呼ばれる民間の輸送業者も活躍した。
さらに、将軍家御用の宇治茶を江戸まで運ぶ「お茶壺道中」は、甲州街道独特の風物詩であった。年に一度、厳重な警護のもと行われるこの行列は、参勤交代の大名ですら道を譲らなければならないほどの格式を持ち、その通行は街道沿いの村人たちに大きな負担を強いた。戸を閉め、音を立てず、子供たちも外出を禁じられたという当時の様子は、今に残るわらべ歌「ずいずいずっころばし」にも風刺として歌われている。
甲州街道の道のりは、特に笹子峠や小仏峠といった山岳地帯を通過するため、難所が多かった。そのため、小さな宿場が多く、宿場間の距離が短い区間では、隣接する村同士が協力して宿場業務を担う「合宿(あいしゅく)」という制度が生まれた。これは、交通量が他の街道ほど多くなかった甲州街道ならではの工夫と言えるだろう。
五街道の中の「異色」
江戸時代の五街道は、それぞれ異なる性格を持っていた。東海道は江戸と京を結ぶ最も華やかな幹線であり、太平洋沿いの比較的平坦な道を多くの大名や旅人が行き交った。中山道は本州の中央部を山間部を縫うように進み、東海道と並ぶ主要路として、和宮降嫁の際にも選ばれるなど、その重みが窺える。日光街道と奥州街道は、日光東照宮への参拝や東北地方との交流を支える役割を担っていた。
これらと比較すると、甲州街道はいくつかの点で異彩を放っていたと言える。まず、参勤交代で利用した大名は、信濃の高島藩、高遠藩、飯田藩の3藩に限られていた。これは東海道や中山道に比べて、公的な通行量が少なかったことを意味する。そのため、宿場の経営は必ずしも楽ではなかったという指摘もある。
しかし、その一方で、甲州街道には他の街道にはない「戦略的な深度」が与えられていた。江戸城の非常時の脱出路という、幕府の存立に関わる目的が明確に存在したことは、この街道の設計思想に大きな影響を与えている。街道沿いに配置された鉄砲隊や千人同心、そして防御を意識した宿場の構造は、他の街道には見られない特徴である。
また、甲斐の金山から産出される「甲州金」の輸送路としての役割は、甲州街道に独自の経済的な重要性をもたらした。これは単なる物資の輸送にとどまらず、幕府の財政基盤を支える意味合いも持っていた。
さらに、公的な通行が少なかったからこそ育まれた文化的な側面も見逃せない。江戸中期以降、天下泰平の時代になると、甲州街道は旅人や文化人の往来も活発になった。歌舞伎役者や浮世絵師もこの道を訪れ、甲斐国を題材とした作品を残している。歌川広重の『名所江戸百景』や葛飾北斎の『富嶽三十六景』にも甲州街道沿いの風景が描かれ、市川團十郎のような江戸歌舞伎のスターが訪れることで、沿道の人々に刺激を与え、地芝居や村芝居の流行を促したという。これは、街道が単なる「道」としてだけでなく、文化を媒介する「場」としても機能していたことを示している。
そして、宿場運営における「合宿」制度は、交通量の少なさと、それに伴う宿場間の連携という、甲州街道独自の社会構造を形成した。これは、効率化と協働の精神が、厳しい地理的・経済的条件下で生まれた結果と言えるだろう。
旧街道の面影と現代の幹線
明治時代に入り、近代化の波は甲州街道の役割を大きく変えた。特に明治18年(1885年)に国道16号(後に国道8号、そして現在の国道20号)に認定され、鉄道の開通が進むにつれて、人馬による陸上輸送の重要性は徐々に薄れていった。中央本線の前身である甲武鉄道の開通は、甲州街道の伝統的な交通路としての役割を大きく転換させる契機となったのである。
しかし、現在の国道20号は、その多くが旧甲州街道の道筋を踏襲している。かつての宿場町は、現代の都市や町の中心として発展を遂げている場所も少なくない。例えば、東京都内では日野宿本陣が唯一現存する本陣として保存されており、その威容は往時の賑わいを今に伝えている。神奈川県内では、小原宿本陣が唯一残る本陣であり、毎年11月3日には小原宿本陣祭が開催され、当時の大名行列の様子を再現する試みも行われている。
また、笹子峠や小仏峠といった難所には、旧街道の山道が今も残り、ハイキングコースとして利用されている。特に笹子峠では、武士が武運を祈って矢を放ったとされる「矢立の杉」が往時の旅人を見守るようにそびえ立ち、歴史の道百選にも選定されている。近代の交通網としては、明治35年(1902年)に鉄道の笹子トンネルが、昭和13年(1938年)には道路の笹子トンネルが完成し、難所の克服に貢献した。
多摩都市モノレール線の「甲州街道駅」や、八王子市街を抜ける国道20号とJR中央本線の併走区間など、現代のインフラにその名やルートが受け継がれている箇所は多い。開発や区画整理によって姿を変えた場所も多いが、府中市の大国魂神社付近に残る初期甲州街道の道筋や、万願寺の一里塚跡など、注意深く見れば往時の面影を探し出すことができるだろう。
現代において、甲州街道は単なる移動のための道ではなく、歴史や文化を辿る「旅の道」として、新たな価値を見出されている。旧宿場町に残る本陣跡や商家跡、あるいは街道沿いに点在する史跡や文化財は、当時の人々の暮らしや文化、そして街道が果たした役割を静かに語りかけてくる。
街道が示す、普遍と固有の交点
甲州街道を巡ることで見えてくるのは、道が持つ普遍的な機能と、その土地固有の事情が交錯する様である。五街道の一つとして幕府によって整備された点では普遍的だが、その初期の目的が「将軍の避難路」という極めて特定の戦略的意図にあったことは、他の幹線道路とは一線を画する。この軍事的な色彩は、街道の構造や沿道の防衛体制、そして関所の配置にまで影響を与え、他の街道が経済的流通や政治的支配を主眼としたのとは異なる、独自の性格を形成したのだ。
また、甲斐の金山や郡内織といった特産品の輸送路としての役割は、街道が単なる通過点ではなく、地域経済の生命線であったことを示している。特に「お茶壺道中」に見られるような、将軍家の権威を象徴する行列の通行は、街道が持つ政治的・儀礼的な側面を色濃く反映していると言える。
一方で、笹子峠のような自然の難所は、時代を超えて人々に克服すべき課題を突きつけ続けてきた。古代の「日陰の四寸道」から江戸時代の宿場、そして明治以降の鉄道トンネルや道路トンネルへと、技術の進歩は道の姿を変えても、その根底にある「山を越える」という行為そのものは変わらない。そこには、自然と対峙し、道を拓き、利用してきた人間の営みの連続性が見て取れる。
甲州街道は、東海道のような賑わいや中山道のような広域的な政治的役割とは異なる形で、江戸幕府の統治と甲斐国の経済を支え、独自の文化を育んできた。その道のりは、時に険しく、時に静かであったが、戦略と経済、そして文化が複雑に絡み合いながら、現代の幹線道路へとその基盤を繋いでいる。かつての道筋をたどる旅は、単なる過去の追体験ではなく、現代の交通網がどのようにして生まれ、今に至るのかという問いへの、一つの具体的な回答を与えてくれるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。