2026/6/19
1400年の歴史を持つ宇陀の大和当帰、その根と葉に宿る「密度の正体」

宇陀の大和当帰について詳しく教えて欲しい。どのように扱われてきて、どういう効能があるのか?
キュリオす
奈良県宇陀市で1400年以上栽培されてきた大和当帰。飛鳥時代の薬狩りから江戸時代の森野旧薬園、そして現代の食薬区分改正まで、その歴史と栽培・加工法、そして根と葉の効能を辿る。
霧の阿騎野に立つ
奈良県宇陀市、かつて阿騎野(あきの)と呼ばれたこの地を歩くと、ふとした瞬間にセロリに似た、しかしもっと力強くスパイシーな香りが鼻を抜けることがある。それは、この土地が1400年以上にわたって「薬」と共に歩んできた記憶の断片だ。万葉の歌人・柿本人麻呂が「東の 野に炎の 立つ見えて」と詠んだ「かぎろひ」の情景は、単なる自然美の描写ではない。その背後には、推古天皇が宮中行事として執り行った「薬狩り」という、生命の根源に触れる営みがあった。
なぜ、この宇陀の地だったのか。盆地特有の厳しい冷え込みと、朝霧に包まれる湿潤な空気。そして水銀の産地でもあったこの土地の特異な地質。古の人々は、そこに「神仙」の気配を感じ、不老長寿の薬草が育つ聖域を見出したのだろう。その象徴とも言えるのが、大和当帰(ヤマトトウキ)である。乾燥させた根は、漢方の世界で「女性の宝」として重宝され、血を巡らせ、体を温める力を持つ。その香りは、今も宇陀の風の中に、静かに、しかし確かな存在感を持って溶け込んでいる。
薬狩りから森野旧薬園へ
宇陀と薬草の歴史は、西暦611年(推古19年)5月5日にまで遡る。『日本書紀』には、推古天皇が菟田野(うだの)で薬狩りを行ったという記述がある。男性は強壮剤とされる鹿の若角(鹿茸)を求め、女性は薬草を摘む。これは日本における薬草採取の最古の記録であり、宇陀が「製薬発祥の地」とされる所以である。この宮中行事は単なる狩猟ではなく、冬を越した生命のエネルギーを身体に取り込むための、一種の宗教的な儀礼でもあった。
時代が下り、江戸時代に入ると、この野生の薬草文化は「産業」へと姿を変える。その転換点となったのが、8代将軍・徳川吉宗による「薬種国産化政策」だ。当時、貴重な薬種の多くは中国や朝鮮からの輸入に頼っており、幕府の財政を圧迫していた。吉宗は全国に採薬使を派遣し、国内で代替可能な薬草の調査を命じる。この時、幕府の採薬使である植村左平次政勝の調査を補佐したのが、宇陀の葛粉業者、森野藤助(のちの森野賽郭)であった。
藤助は卓越した観察眼を持ち、近畿から北陸に至る広範囲な調査に随行した。その功績により、幕府から朝鮮人参をはじめとする貴重な外国産の種苗を下賜される。1729年(享保14年)、彼は自宅の裏山にこれらを植え、野生種を栽培化するための研究を始めた。これが現在も宇陀市大宇陀に残る、日本最古の私設薬草園「森野旧薬園」の始まりである。
藤助が心血を注いだのは、単に植えることだけではない。彼は各地で採取した植物を分類し、その効能を中国の文献と照らし合わせ、日本の風土に合わせた栽培法を確立していった。彼の研究成果は、手稿「松山本草」に結実している。ここには、大和当帰をはじめとする数百種の薬草が緻密な写生と共に記録されている。当時、平賀源内などの本草学者とも交流があったとされる藤助の活動は、宇陀を「薬の町」として決定づけた。
江戸時代を通じて、宇陀の大和当帰は「品質日本一」の評価を不動のものにする。宇陀の冷涼な気候と水はけの良い傾斜地は、セリ科植物である当帰が、その香りの成分である精油を蓄えるのに最適だったのだ。生産された当帰は、薬種会所を通じて江戸や大坂に送られ、幕府への献上品としても扱われた。この歴史的な土壌があったからこそ、近代以降、ロート製薬やツムラ(旧津村順天堂)、アステラス製薬(旧藤沢薬品)といった日本を代表する製薬企業の創業者たちが、この宇陀の地から次々と輩出されることになったのである。
根を「湯もみ」する時間
大和当帰が「生薬」として完成するまでには、植物としての成長だけでなく、収穫後の過酷とも言える加工工程が必要になる。当帰は種を蒔いてから収穫までに、苗作りで1年、本畑での栽培でさらに1年、計2年の歳月を要する。特に苗作りの段階では、発芽率の低さや雑草との戦いがあり、農家は「赤子を育てるよう」に手をかける。
収穫の時期は、地上部が枯れ始める晩秋から初冬にかけてだ。掘り出された根は、そのままでは薬にならない。まず、土を落とした根を数本ずつ束ね、冷水で丁寧に洗う。その後、大和当帰特有の「湯通し(湯もみ)」という工程が入る。60度から70度程度の熱湯に数十秒から数分間、根を浸すのだ。この絶妙な温度管理が、生薬としての品質を左右する。
湯通しをする理由は、主に三つある。一つは、根の中に含まれるデンプン質をアルファ化させ、乾燥後の保存性を高めること。二つ目は、精油成分を根の内部に閉じ込め、香りを定着させること。そして三つ目は、根を柔軟にし、後の整形をしやすくすることだ。湯から上げた直後の根は、まだ熱く、特有の強い香りが立ち昇る。これを職人は手早く揉み、形を整えていく。この「湯もみ」によって、当帰の根は独特の赤褐色を帯び、艶やかな「大和当帰」へと仕上がる。
成分的な特徴で見れば、大和当帰の核心は「リグスチリド」をはじめとするフタリド類という精油成分にある。これらが中枢神経に対して鎮静的に働き、同時に末梢血管を拡張させて血流を改善する。漢方の考え方では、女性の心身の不調の多くは「血(けつ)」の不足や滞りから来るとされる。大和当帰は、血を補い(補血)、巡らせ(活血)、痛みを止める(止痛)という三位一体の作用を持つ。
代表的な処方である「当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)」は、当帰を主薬とし、芍薬や川芎(せんきゅう)などと組み合わせたものだ。これは単に生理不順や冷え性に効くだけでなく、近年ではアルツハイマー型認知症の周辺症状の改善や、術後の体力回復にも寄与するという研究報告がなされている。古代から続く「女性の薬」という枠を超え、現代医学の視点からも、その血管保護作用や抗酸化作用が再評価されているのだ。宇陀の農家が、厳しい寒さの中で指先を赤くしながら「湯もみ」を続けるのは、その一本の根に、人々の身体を芯から立て直す力が宿っていることを、経験的に知っているからに他ならない。
北の大地と大和の斜面
当帰の市場を眺めると、宇陀産の「大和当帰」とは別に、北海道産の「北海当帰」という存在が大きく立ちはだかっていることに気づく。現在、日本で流通している国産当帰の大部分は北海道産だ。明治時代以降、寒冷な気候を活かして大規模な栽培が始まった北海当帰は、大和当帰に比べて株が大きく、根も太い。栽培の機械化も進んでおり、供給量と価格の安定性において圧倒的な優位性を持っている。
しかし、生薬としての「質」という観点に立つと、景色は一変する。北海当帰は大和当帰を北海道へ持ち込み、現地の在来種と交雑・選別されたものだが、その成分構成は微妙に異なる。研究によれば、大和当帰は北海当帰に比べ、精油成分の含有量や、フロクマリン類と呼ばれる特定の成分の比率が高い傾向にある。また、服用後の末梢温度の上昇効果(温熱効果)の持続性においても、大和当帰の方が優れているというデータがある。
この違いは、栽培環境の差から生まれる。北海道の広大な平地での大規模栽培に対し、宇陀の大和当帰は、今も山間部の小さな傾斜地で、手作業を主体として育てられている。厳しい寒暖差と、水はけの良い土壌、そして何より「湯もみ」に代表される伝統的な調製技術が、成分を濃縮させる。いわば、北海当帰が「効率と量」の答えであるならば、大和当帰は「密度と伝統」の答えなのだ。
他の地域との比較で言えば、富山県や滋賀県の伊吹山も古くからの薬草産地として知られている。富山は「越中当帰」というブランドを持ち、売薬(置き薬)文化と共に発展してきた。伊吹山は織田信長が薬草園を拓いたという伝説があり、野生種の多様性において比類がない。しかし、宇陀がこれらと一線を画すのは、その「歴史の重層性」である。
富山が江戸時代の流通システムによって発展し、伊吹山が自然の宝庫として守られてきたのに対し、宇陀は飛鳥時代の「薬狩り」という王権の儀礼に始まり、江戸時代の「森野旧薬園」という学術的な栽培化を経て、現代の製薬産業の源流となった。単なる産地ではなく、日本人が「薬」という概念をどのように構築し、自然から抽出し、生活に組み込んできたかというプロセスのすべてが、この狭い盆地に凝縮されている。北の大地が供給する「材料」としての当帰に対し、宇陀の当帰は、1400年の文化が染み込んだ「作品」に近い佇まいを見せている。
捨てられていた葉が主役に
長年、当帰の価値は「根」にのみ置かれてきた。葉や茎は、収穫時に切り落とされ、畑の肥やしになるか、捨てられるのが常だった。薬事法(現在の医薬品医療機器等法)において、当帰の葉は「医薬品」に該当するかどうかが曖昧なグレーゾーンにあり、食品として流通させることが難しかったからだ。しかし、2012年(平成24年)、大きな転換点が訪れる。厚生労働省の食薬区分が改正され、当帰の葉が「非医(医薬品ではない)」扱い、つまり食品として使用することが認められたのだ。
この解禁は、宇陀の町に新しい風を吹き込んだ。根が薬として製薬会社に引き取られていく一方で、農家や地元の飲食店は、それまで捨てていた葉の活用に乗り出した。当帰の葉は、セロリやパクチーを思わせる爽やかな香りと、ほろ苦さが特徴だ。分析の結果、葉にはビタミンEや鉄分、カルシウムが豊富に含まれていることも明らかになった。特にビタミンEの含有量は、一般的な野菜の中でもトップクラスである。
現在、宇陀の道の駅や飲食店では、大和当帰の葉を使った多彩なメニューや製品を目にすることができる。鮮やかな緑色を活かした天ぷらは、揚げたての香りが格別で、地元の人気メニューだ。また、乾燥させた葉を粉末にして練り込んだうどんや、ハーブソルト、さらにはクラフトビールの副原料としても使われている。かつての「生薬」というお堅いイメージから解き放たれ、大和当帰は「和のハーブ」として現代の食卓に浸透しつつある。
しかし、この新しい展開にも課題はある。当帰は栽培が難しく、連作障害も起こりやすい。高齢化が進む農家にとって、根の収穫だけでなく、葉の加工作業まで担うのは負担が大きい。そこで宇陀市では、「宇陀市薬草協議会」を中心に、栽培から加工、販売までを一体化させる6次産業化を推進している。耕作放棄地を活用した大規模栽培の試みや、若手就農者の育成も始まっている。
また、観光との接続も進んでいる。かつての薬問屋を改装した「薬の館」や、今も現役で薬草が育つ「森野旧薬園」を巡り、最後は大和当帰の薬湯が楽しめる温泉「あきののゆ」で体を温める。そんな体験型の旅が、知的好奇心の高い旅行者を惹きつけている。かつて推古天皇が阿騎野を駆け抜けたように、現代の人々もまた、この土地の香りに導かれて「養生」の知恵を再発見しているのだ。
境界線のない薬箱
宇陀の大和当帰をめぐる旅を終えて見えてくるのは、「薬」と「食」という言葉の間に引かれた境界線の脆さである。私たちはいつの間にか、薬とは化学的に合成され、白い錠剤となって処方されるものだと思い込んできた。しかし、宇陀の歴史が物語るのは、足元の土から生え、風に香りを乗せる植物そのものが、かつての私たちの「薬箱」だったという事実だ。
大和当帰の葉が食品として解禁されたことは、単なる規制緩和ではない。それは、1400年前に推古天皇が薬狩りで摘み取ったであろう「生命の輝き」を、再び私たちの日常の中に取り戻すプロセスだったのではないか。根を煎じて飲むという「治療」の段階から、葉を料理に添えて香りを楽しむという「養生」の段階へ。大和当帰は今、その役割の円環を閉じようとしている。
比較によって浮き彫りになったのは、大和当帰が持つ「密度の正体」だ。それは単なる成分の数値ではない。森野藤助が裏山で薬草と対話した時間、極寒の宇陀で根を揉み続けた農家の手のひら、そして万葉の時代から変わらぬ朝霧の湿り気。それらすべてが、あの独特の香りを形作っている。効率を追求する現代社会において、苗作りに1年、栽培に1年、さらに手間のかかる調製を要する大和当帰は、極めて「非効率」な存在に見えるかもしれない。しかし、その手間こそが、身体の奥底に届く熱の源泉となっている。
1400年の歴史が重なる宇陀の地には、今も大和当帰の力強い香りが風に乗って漂っている。それは、かつて病に苦しむ人々を救おうとした古代の祈りであり、江戸の本草学者たちが抱いた知的な冒険心であり、そして今、この土地で土に触れる人々の静かな自負が混ざり合った香りだ。大和当帰は、単なる植物の名前ではない。それは、人が自然と共に生き、その恩恵を身体に刻み込んできた、宇陀という土地の「呼吸」そのものなのだ。2年の歳月をかけて育てられ、職人の手で「湯もみ」された一筋の根が、現代を生きる私たちの血を巡らせ、身体を芯から温めていく。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
関連する記事
岩手の銘菓「耳かりんとう」はなぜ渦巻き形なのか?
どちらの記事も、特定の地域(岩手県、奈良県)の伝統的な食文化や特産品に焦点を当て、その歴史的背景や由来を解説している点で共通しています。
博多あまおうはなぜ苺の王様になれたのか?開発からブランド戦略まで
新記事が「大和当帰」という特定の植物とその歴史・効能を扱っているのに対し、この記事は福岡県で生まれた「あまおう」という品種の開発からブランド戦略までを解説しており、地域特産品の歴史と価値という点で関連があります。
豊後八藩:府内・臼杵・岡藩などの特産物と地理的特徴
新記事が奈良県宇陀市という特定の地域に焦点を当て、その歴史と特産品(大和当帰)を扱っているのに対し、この記事は江戸時代の豊後国(現在の大分県)の複数の藩の特産物と地理的特徴を解説しており、地域と特産品の歴史という点で関連があります。