2026/5/28
熱海・起雲閣、三大別荘とは違う道を歩んだ理由

熱海の起雲閣について知りたい。熱海の3大別荘とは?
キュリオす
熱海の起雲閣は、実業家たちの別荘から旅館、そして市の文化施設へと姿を変えてきた。その建築様式や歴史的背景、そして「熱海の三大別荘」との比較を通して、この邸宅が持つ多様な価値を探る。
熱海の市街地を歩くと、海からの潮風とは異なる、どこか懐かしい空気が漂う場所がある。それが起雲閣だ。一歩足を踏み入れれば、和と洋、東洋と西洋の意匠が複雑に絡み合い、それぞれの空間が異なる時代の息吹を放っている。なぜこれほどまでに多様な様式がひとつの邸宅に同居し、そしてなぜこの場所が熱海の歴史において特別な存在であり続けるのか。その問いは、かつて多くの富豪や文人たちがこの地に求めた「静養」や「社交」の意味、そして熱海という土地が持つ独特の気質へと繋がっているように思える。
起雲閣は、単なる美しい建築物ではない。それは大正から昭和にかけての日本の近代化の波、財界人の美意識、そして戦後の社会変革を映し出す鏡だ。特に「熱海の三大別荘」の一つと称されながらも、その後の変遷が他の二つとは大きく異なる点は注目に値する。その複雑な歴史の層を紐解くことで、この邸宅がただの過去の遺物ではなく、今なお熱海の風景に深く根ざしている理由が見えてくるだろう。
起雲閣の歴史は、1919年(大正8年)に「海運王」と呼ばれた実業家・内田信也が、病弱な母の静養のために別荘を築いたことに始まる。彼はこの地に、銘木を惜しみなく使い、当時としては珍しいガラス窓を多用した純和風の邸宅を建てた。母の足に配慮し、座敷と廊下の段差をなくすといった、細やかな気遣いが随所に見られる。
その約6年後、1925年(大正14年)には「鉄道王」として知られる実業家・根津嘉一郎の手に渡る。根津は、広大な敷地を3000坪に拡張し、現在の起雲閣の原型となる庭園を整備した。彼はまた、敷地内に温泉を掘削し「根津温泉」と命名している。根津の別邸時代には、日本各地から集めた巨石を配した池泉回遊式庭園が造営され、茶人としての彼のこだわりが色濃く反映された。さらに、彼の美意識は建築にも及び、ローマ風浴室や、アール・デコ様式やチューダー様式を取り入れた洋館「金剛」「玉姫」「玉渓」が増築された。これらの洋館には、中国風の装飾や日本の寺社建築に見られる技法が融合され、多文化が入り混じる独特の世界観を形成していった。
そして、第二次世界大戦終結後の1947年(昭和22年)、この邸宅は新たな転換期を迎える。金沢でホテル経営に携わっていた実業家・桜井兵五郎がこの地を取得し、「起雲閣」と名付けて旅館として開業したのだ。 桜井は、かつて経営していた「白雲楼ホテル」にも通じる「雲」の字を冠することで、この新たな宿への強い思いを示したという。 旅館時代の起雲閣は、山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、三島由紀夫といった数多くの文豪たちに愛され、彼らの執筆や静養の場となった。 文豪たちが滞在した部屋には、今も当時の面影が残されている。
熱海にこれほど壮麗な別荘が築かれた背景には、いくつかの要因が重なっている。まず、熱海が明治時代以降、「東京の奥座敷」として、政財界の要人や華族に愛されてきた歴史がある。1888年(明治21年)には大正天皇の御用邸が造営され、これが上流階級の別荘建設を加速させた。 東京からのアクセスが良く、豊かな温泉と風光明媚な景観を兼ね備えた熱海は、静養だけでなく、社交の場としても理想的な場所だったのだ。
起雲閣の建築に見られる和洋折衷、あるいは東洋と西洋の異文化が交錯する様式は、大正から昭和初期にかけての日本の富裕層が抱いていた世界観を如実に示している。当時の実業家たちは、海外との貿易や事業を通じて国際的な感覚を養い、その富を背景に、自身の邸宅にも多様な文化を取り入れることを望んだ。ローマ風の浴室、アール・デコ様式のステンドグラス、中国風の装飾、そして中世イギリスのチューダー様式が共存する洋館群は、まさにそうした時代精神の表れだ。 しかし、それらの要素が単なる寄せ集めにならず、全体として調和の取れた空間となっているのは、当時の優れた建築家や職人の技術力があってこそだろう。 特に、手吹きガラス特有の微細な歪みを持つ「大正ガラス」が今も残されていることは、当時の素材と技術の確かさを物語っている。
別荘から旅館への転身も、時代背景と深く結びついている。終戦後の混乱期、大規模な邸宅を維持することは困難になり、多くの別荘が姿を消した。しかし、起雲閣は桜井兵五郎の経営手腕により、熱海を代表する高級旅館として生き残る道を選んだ。この地の温泉、広大な庭園、そして多様な建築空間は、そのまま高級旅館の魅力となり、多くの文化人や政財界の客を惹きつけたのである。
熱海にはかつて、起雲閣、岩崎別荘、住友別荘が「熱海の三大別荘」と称された時代があった。 これらの別荘は、いずれも大正から昭和初期にかけて、日本の経済界を牽引した実業家たちの財力と美意識を背景に築かれたものだ。しかし、その後の運命はそれぞれ異なる道を辿っている。
岩崎別荘(熱海陽和洞)は、三菱財閥の岩崎家が所有し、現在は三菱グループ各社の会員施設として非公開で維持されている。 そのため、一般の観光客がその内部に触れる機会は限られている。一方、住友別荘は残念ながら現存しておらず、その姿を今日に見ることはできない。 このように、多くの名邸が時代の流れの中で姿を変えたり、非公開となったりする中で、起雲閣は別荘から旅館へと転身し、さらに熱海市の所有となって一般公開されるという、極めて稀な道を歩んできた。
「三大別荘」とは異なるが、熱海にはもう一つ、近代建築史において重要な別荘がある。ドイツの世界的建築家ブルーノ・タウトが設計した旧日向別邸の地下室だ。 この地下室は、日本の様式美を意識しながらも、竹や桐を多用した社交室や、ワインレッドの絹織物が張られた洋間、そして和室が一体となった空間で、タウトが日本に残した唯一現存する建築作品として国の重要文化財に指定されている。 旧日向別邸もまた、篤志家の寄付により熱海市が取得し、保存修理を経て一般公開されている点では起雲閣と共通する。
これらの別荘群を比較すると、共通するのは、いずれも東京から程近い温泉地という立地を選び、当時の最高水準の技術とデザインが惜しみなく投入された点だろう。しかし、その後の運命は、所有者の変遷、社会情勢、そして最終的な保存・公開の選択によって大きく分かれた。起雲閣が今日、多くの人々が訪れることのできる文化施設として存在しているのは、その建築的な魅力だけでなく、別荘、旅館、そして公共施設へと柔軟に姿を変えながら時代を生き抜いてきた適応力ゆえではないか。
2000年(平成12年)、起雲閣は旅館としての営業を終え、熱海市が12億円で取得した。 その後、熱海市指定有形文化財に指定され、一般公開される文化施設として新たな歴史を刻んでいる。 市街地の一角にありながら、3000坪に及ぶ広大な敷地と緑豊かな庭園は、訪れる人々に喧騒を忘れさせる静けさを提供している。
現在、起雲閣は単に見学するだけの施設ではない。旅館時代に文豪たちが滞在した客室は展示室となり、彼らの足跡や作品に触れることができる。 洋館の各部屋には、当時の趣を残した調度品や、ステンドグラス、タイルなどの装飾がそのまま保存されており、大正から昭和初期にかけての贅を尽くした空間を体験できる。 特に、当時の職人が一枚一枚手作りした「大正ガラス」は、その微妙な歪みから当時の技術を伝える貴重な資料だ。
また、旧大浴場や宴会場は、音楽サロンやギャラリー、貸し出し可能な和室として活用され、市民向けの文化イベントや企画展示が頻繁に開催されている。 このように、起雲閣は歴史的建造物としての価値を保存しつつ、現代の熱海における文化と観光の拠点として機能しているのだ。その維持管理は、熱海市からの委託を受けた指定管理者や、地元のNPO法人などが担っており、貴重な文化財を未来へ継承するための取り組みが続けられている。
起雲閣が今日までその姿を留め、一般に公開されている事実は、熱海という土地の歴史と深く結びついている。かつて富豪たちの私的な夢を具現化した別荘群は、時代の変遷とともにその多くが失われたり、非公開のままになったりした。しかし、起雲閣は別荘、そして旅館という異なる役割を担うことで、その生命を繋いできた。
その建築に見られる多様な様式は、日本の近代化の過程で西洋文化が流入し、それが日本の伝統的な美意識とどのように融合していったのかを具体的に示している。単一の様式に固執せず、複数の文化が混じり合うことを許容したその空間は、当時の財界人の開放的な精神と、それを実現し得た職人たちの技術力の証である。
起雲閣の存在は、単に過去の豪華な生活を偲ぶだけでなく、歴史的建造物が現代社会においていかに「生きる」ことができるかという問いを投げかけている。私的な贅沢の象徴から、多くの人々が歴史に触れ、文化を享受する公共の場へと役割を変えた起雲閣は、熱海が単なる温泉観光地ではない、多層的な歴史と文化を内包する都市であることを雄弁に物語っている。この邸宅を巡ることは、日本の近代が辿った道のり、そして熱海という都市の持つしなやかな生命力に触れることなのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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