2026/6/4
相模国、鎌倉・室町時代の政治と武士団の興亡

相模国の歴史について詳しく知りたい。鎌倉時代と室町時代について。
キュリオす
相模国は鎌倉時代に武家政権の中心地となり、刀工や禅宗文化が栄えた。室町時代には鎌倉府が置かれたが、戦乱を経て後北条氏が台頭。有力武士団の動向と権力中心地の変遷が相模の歴史を形作った。
相模湾に面した鎌倉の地を訪れると、潮風が歴史の層を一枚ずつ剥がしていくような感覚を覚える。寺社仏閣が点在し、静謐な空気が漂うこの地が、かつて武家政権の中心であり、東国の要衝であったことを想像する。なぜ、この相模国が、およそ150年にもわたり日本の政治を動かす舞台となり得たのか。その問いは、鎌倉時代から室町時代へと続く、激動の歴史の中に答えを求めていくことになるだろう。
相模国は、現在の神奈川県の大部分を占める令制国である。東海道に属し、古くから東国と京を結ぶ交通の要衝であった。その地理的条件に加え、平氏の流れをくむ三浦氏、和田氏、大庭氏などの有力武士団が早くから勢力を築いていたことが、後の歴史展開に深く関わる。源頼朝が伊豆で挙兵し、鎌倉に入った治承4年(1180年)以降、相模国は日本の歴史の表舞台へと押し出されることになるのだ。
源頼朝が鎌倉を本拠地として幕府を開いたことにより、相模国は武家政権の中心地となった。頼朝は文治元年(1185年)に守護・地頭の設置権を認められ、建久3年(1192年)に征夷大将軍に就任することで、鎌倉幕府の体制が確立した。相模国は将軍家の知行国となり、初期には三浦氏が守護を務めたとされるが、宝治元年(1247年)の三浦氏滅亡後は守護が置かれず、幕府の政所や侍所がその職権を分掌したと推測されている。
鎌倉幕府の膝元である相模国、特に鎌倉には、御家人たちの刀剣需要を満たすため、「鎌倉鍛冶」あるいは「相州鍛冶」と呼ばれる刀工たちが集まった。新藤五国光や五郎入道正宗といった名工が知られている。また、将軍や御家人からの崇敬を集めた鶴岡八幡宮は、源頼義が石清水八幡宮を勧請したのが始まりとされ、北条氏を中心に禅宗が信仰され、円覚寺や建長寺などが創建され、後の鎌倉五山制度の基礎が築かれた。
鎌倉時代は、執権政治と御成敗式目による統治が機能し、後の室町時代や戦国時代と比較すると内乱の少ない時代であったとされる。しかし、二度の元寇という未曽有の国難に加え、地震、疫病、飢饉も多く発生し、およそ148年間のうちに50回もの元号改元が行われた記録がある。相模国は、東海道の整備が進み、懐島、平塚、大磯、小田原などに宿場が形成され、市が立つなど、陸上交通が発展した。また、海上交通も発達し、地方の特産品が船で運ばれるなど、経済的な活動も活発であった。鎌倉時代の相模国の石高は、一説には約6万石と推測されている。
元弘3年(1333年)、新田義貞や足利義詮による鎌倉攻撃によって北条氏は滅亡し、鎌倉幕府はその歴史を閉じた。しかし、相模国が政治の中心としての役割を終えたわけではない。後醍醐天皇による建武の新政期には、足利直義が成良親王を奉じて鎌倉に下り、「鎌倉将軍府」を置いて関東10ヶ国を管轄した。その後、室町幕府が成立すると、鎌倉には「鎌倉府」が設置され、初代鎌倉公方として足利基氏が着任した。鎌倉府は関東の地方行政機関として、鎌倉公方とそれを補佐する関東管領(上杉氏が世襲)を中心に、関東の政務を担った。
室町時代の相模国では、鎌倉府の支配下に置かれ、三浦氏などが守護を務めた。しかし、鎌倉公方は次第に室町将軍家への対抗意識を強め、両者の間に緊張関係が生じる。永享10年(1438年)に勃発した「永享の乱」では、鎌倉公方足利持氏と室町将軍足利義教が対立し、関東管領上杉憲実が将軍側に与した結果、足利持氏は敗死し、鎌倉府は一時的に下総国の古河へと移転した。これにより、相模国は関東の政治の中心としての座を外れることとなる。
永享の乱以降、相模国内は戦乱の巷と化し、その混乱は室町時代後期まで続いた。明応4年(1495年)には、伊勢盛時、後に北条早雲と称する人物が小田原城を拠点とし、相模国を平定していく。早雲は伊豆国を平定した後、相模に進出し、永正9年(1512年)には相模北部の統治を示す制札を発行している。この「後北条氏」(または小田原北条氏、相模北条氏)は、鎌倉幕府の執権北条氏とは血統的には直接関係がないが、鎌倉の伝統を意識し、「北条」の氏を称した。後北条氏は小田原を本拠地とし、およそ一世紀にわたり関東を支配することになる。
相模国が鎌倉時代に幕府の所在地として全国政治の中心であったことは特筆すべき点である。京都の朝廷と並び立つ武家政権の拠点として、相模は全国の武士や文化、経済の動向に直接影響を与えた。これは、政治の中心が京から遠く離れた東国の一地域に置かれたという点で、それ以前の日本の歴史には見られない構造変化であった。
比較として、例えば武蔵国も関東の要衝であったが、鎌倉時代には幕府最大の軍事力の地として武力の支えと位置づけられ、相模守と武蔵守は執権・連署が補任する同格の重要な国であったとされる。しかし、政治の中心地としての役割は相模国、特に鎌倉が担っていた。室町時代に入り鎌倉府が置かれても、相模は関東の広範な地域を管轄する「小幕府」の拠点であり続けた。
一方で、相模国に見られる特徴として、有力な在地の武士団が早くから勢力を築いていたことが挙げられる。三浦氏や大庭氏、梶原氏、和田氏といった平氏系の武士たちは、源頼朝の挙兵に際して重要な役割を果たし、幕府の御家人の中核を形成した。彼らは荘園を開発し、国衙の在庁官人となって地域を支配する一方で、中央の権門勢家に所領を寄進して荘官となるなど、複雑な形で勢力を拡大していった。
室町時代に入ると、鎌倉府と室町幕府の対立、さらには鎌倉公方と関東管領上杉氏の間の緊張関係が深まり、関東各地で争乱が頻発するようになる。この混乱期は、相模国内の在地武士たちが、中央の権力構造の変化に翻弄されつつも、自らの勢力圏を確立しようと動いた時代でもあった。永享の乱以降の相模国が長く戦乱の巷となった背景には、鎌倉府の弱体化と、それに伴う地域武士団の自立と抗争が複雑に絡み合っていたと考えられる。
現在の神奈川県を構成する旧相模国の領域は、鎌倉時代と室町時代の歴史を色濃く残している。鎌倉市には鶴岡八幡宮をはじめ、建長寺、円覚寺といった禅宗寺院群が今も建ち並び、当時の文化と信仰の中心としての面影を伝えている。尼寺として開山し、江戸時代には縁切寺として機能した東慶寺も、鎌倉時代の創建である。これらの寺社は、単なる観光地ではなく、当時の武家社会の精神性や文化を今に伝える貴重な史跡である。
また、小田原市には戦国大名後北条氏の本拠地であった小田原城が再建され、その歴史を伝えている。後北条氏が相模国を西郡、中郡、東郡、三浦郡、津久井に編成したことは、現在の神奈川県西部の地域性にも影響を与えている。秦野市には、北条氏の家来が配置され、在地の名主たちも支配組織に組み込まれた歴史が残る。相模原市当麻には、北条早雲が発給した制札が残されており、当時の交通の要衝であったことがうかがえる。
鎌倉時代に整備された東海道は、江戸時代の五十三次の原型となり、現在の国道1号線などにもその名残が見られる。鎌倉と各地を結ぶ「鎌倉道」の名残も、現代の道路網の中に点在している。これらの道は、かつて多くの武士や商人が行き交い、情報や物資が運ばれた歴史の証人である。相模国府の所在地については諸説あるが、平塚市四之宮の稲荷前A遺跡での「国厨」銘の墨書土器の出土など、考古学的な調査によって初期国府の姿が徐々に明らかになりつつある。
相模国、特に鎌倉が武家政権の中心地であったという事実は、日本の歴史における権力構造の重心が、一時的にではあるが、京から東国へと移動したことを意味する。これは単なる地理的な移動に留まらず、貴族社会から武家社会への移行を象徴する出来事であった。相模国は、その変化の最前線であり、新しい時代の価値観や制度が形成されていく過程を体現していたと言えるだろう。
室町時代に入り、鎌倉府が置かれても、京都の幕府と並び立つ「小幕府」としての性格を帯びていた点は興味深い。しかし、永享の乱を境に鎌倉府が古河へと移転し、相模国が政治の中心から外れると、その後の相模は戦乱の渦中に巻き込まれていく。この変遷は、権力の中枢が移動することで、その地域の安定が大きく揺らぐという歴史のパターンを示している。後北条氏による小田原を中心とした支配は、再び相模国を関東の要衝へと押し上げたが、それはあくまで地域的な勢力としての再興であり、鎌倉幕府時代のような全国的な中心性とは異なる性格を持っていた。
相模国の歴史をたどると、中心であることの重みと、中心を失った後の混乱、そして新たな中心が生まれる過程が読み取れる。鎌倉時代、武士たちが自分たちの土地を守ることを基本に築き上げた政権は、相模の武士団が主導権を握り、自らの境地を開拓しようとした結果でもあった。この土地が持つ地理的条件と、そこに生きた人々が時代の中で下した選択が、相模国の歴史の骨格を形作ってきたと言える。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。