2026/6/4
高句麗・新羅系渡来人はいつ、どこに住み、何をもたらした?

古代から中世にかけて高句麗系と新羅系の人々がもたらしたものは?それぞれどの時期にどのあたりに住んだのか?まるっと整理したい。
キュリオす
古代から中世にかけて、高句麗系と新羅系の人々が日本列島に渡来した時期、居住地、そしてもたらした技術や文化を整理。高句麗系は仏教や工芸、新羅系は産業や経済基盤の構築に貢献した。
日本列島と朝鮮半島は、古くから密接な交流の歴史を刻んできた。特に古代から中世にかけて、朝鮮半島からの渡来人たちは、日本の社会、文化、技術に多大な影響を与えた。彼らは単なる移住者ではなく、それぞれの故国の文化を携え、日本の発展に深く寄与した存在である。その中でも、高句麗系と新羅系の人々は、異なる時期に、異なる背景から日本に渡り、独自の足跡を残した。彼らはいつ、どのような事情で海を渡り、日本のどのあたりに暮らしたのか。そして、具体的に何をもたらしたのか。その問いを追うことは、日本という国の成り立ちを多角的に見つめ直すことになるだろう。
朝鮮半島からの渡来は、弥生時代に遡る稲作技術の伝播に始まり、古墳時代から活発化する。特に5世紀以降、朝鮮半島の三国(高句麗、百済、新羅)間の抗争や、中国大陸からの影響が強まるにつれて、多くの人々が日本列島へ渡ってきた。彼らは「渡来人」と呼ばれ、日本の国づくりを根底で支えたとされる。
高句麗からの渡来は、6世紀後半には既に確認される。570年頃には高句麗使が来日し、その上表文を百済系の渡来人が解読した記録が残る。 推古天皇の時代、610年には高句麗の僧である曇徴が来日し、五経に通じるだけでなく、絵具や紙、墨の製造、さらには水力を利用した臼である碾磑(みずうす)の技術をもたらしたという。 また、聖徳太子の仏教の師であった慧慈も高句麗の僧であり、日本仏教の黎明期に大きな足跡を残している。
高句麗系の渡来人が日本に大規模に流入したのは、高句麗が唐・新羅連合軍によって668年に滅亡した後である。 最後の高句麗王である宝蔵王の息子である若光(じゃっこう)も、高句麗滅亡以前の666年に使節の副使として来日し、その後日本に留まったとされる。 彼は大宝3年(703年)に従五位下と「王」の姓を賜り、高麗王若光を名乗った。 彼らは当初、都の周辺に住んだと考えられているが、その後、716年には駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国に分散していた高句麗人1799人を武蔵国(現在の埼玉県日高市を中心とする地域)に集め、「高麗郡」が設置された。 高麗郡の初代郡司は高麗王若光であった。 この地には現在も高麗神社が鎮座し、若光が主祭神として祀られている。
一方、新羅系の渡来も古くから存在する。秦氏という代表的な渡来人集団は、4世紀から5世紀頃に朝鮮半島の新羅(「波旦」が出身地とも)から弓月君(ゆづきのきみ)を祖として日本に渡来したとされる。 『日本書紀』には、弓月君が120県の民を率いて帰化しようとした際、新羅が妨害したため、百済を経由して日本へ渡来したという記述がある。 これは彼らが元々新羅の人であったことを示唆している。新羅は676年に朝鮮半島を統一するが、その後も日本との関係は複雑であった。 新羅からの渡来人の中には、持統天皇元年(687年)に武蔵国へ移住した22人の僧尼・人民や、同4年(690年)に武蔵国に移住した韓奈末許満(かんなまのこま)ら12人の新羅人がいる。 8世紀に入ると、中部・関東地方に分散していた新羅人を集住させ、新しい郡を設ける動きが見られる。 758年には武蔵国に「新羅郡」が設置され、帰化した新羅の僧尼や俗人が移住した。 高麗郡が滅亡した高句麗の難民を収容する性格を持つのに対し、新羅郡は当時の日本と新羅の緊張関係の中で、仮想敵国である新羅人を集めて管理するという、異なる意図を持って設置された郡であったという指摘もある。
高句麗系と新羅系の渡来人たちは、それぞれ異なる背景と時期に日本列島に足跡を残したが、そのもたらしたものは多岐にわたる。彼らが単に新しい技術や知識を運んだだけでなく、日本の社会構造や文化そのものに変革をもたらした点は重要である。
高句麗系の渡来人がもたらした技術や文化は、特に仏教と学問、そして工芸の分野で顕著であった。前述の曇徴は、紙や墨の製造、絵具の調合技術、さらには水力を利用した碾磑の技術を伝えた。 これは、当時の日本における文書行政の発展や仏教文化の興隆に不可欠な基盤を与えたものだろう。また、高句麗の僧である慧慈が聖徳太子の仏教の師となったことは、初期の日本仏教の教義形成に深く関わったことを示している。 『日本書紀』には、高句麗からの渡来人である黄書画師(きぶみえし)の子孫が、キトラ古墳や高松塚古墳の壁画を描いた可能性も指摘されている。 これは、高句麗が培った高い美術水準が、日本の飛鳥・奈良時代の文化に直接的に影響を与えたことを物語る。
一方、新羅系の渡来人、特に秦氏がもたらした影響は、より広範な産業と経済基盤の構築に見られる。秦氏は土木技術や農業技術に長け、灌漑設備を整えて土地の開墾を進めたとされる。 また、養蚕、機織り、酒造、金工といった多様な技術も彼らによって伝えられた。 大和王権のもとでは、秦氏が財政担当の役人として仕え、その本拠地は京都の太秦(うずまさ)に移り、後に広隆寺を創建し、弥勒像を祀ったことでも知られる。 さらに、伏見稲荷大社を建立した秦伊侶巨(はたのいろこ)も秦氏の一族である。 これらの事実は、秦氏が単なる農耕技術者集団に留まらず、経済、土木、宗教、さらには中央の政治・財政にまで深く関与し、日本の社会基盤を多角的に形成していったことを示している。彼らは北九州から秋田県まで面的に分布し、その影響は全国規模に及んだという指摘もある。
これらの渡来人たちがもたらした技術や文化は、それまでの日本列島にはなかった最新のものであり、当時の倭国を高度に発展させたと言える。 古代の日本は、これらの渡来人によって伝えられた技術と知識によって、政治の中心地である都がつくられ、人々の生活が大きく変化していったのだ。
古代日本における朝鮮半島からの渡来は、一様な現象ではなかった。高句麗系と新羅系の渡来人たちは、その背景、時期、そして日本での受容のされ方において、それぞれ異なる特徴を持っていた。この点を他地域の事例と比較することで、その独自性がより明確になる。
例えば、弥生時代に日本列島にもたらされた稲作文化は、朝鮮半島を経由して伝わったとされるが、この時期の渡来は主に生活様式の変革を伴うものであった。 集団的な移住によって、新たな農耕技術や土器製作技術が広がり、縄文文化と融合しながら日本の基層文化を形成していった。 この時期の渡来は、比較的平和的な集落形成を伴うことが多かったという見方もある。
これに対し、古墳時代から飛鳥時代にかけての渡来、特に高句麗や百済、新羅からの渡来は、より政治的・技術的な側面が強かった。朝鮮半島の三国がそれぞれ独自の文化と技術を発展させていた時期であり、それらが選択的に、あるいは亡命という形で日本にもたらされたのである。
高句麗からの渡来は、仏教や学問、高度な工芸技術といった、当時の日本の朝廷が求めていた先進的な知識や文化が中心であった。 彼らは「今来(いまき)の才伎(てひと)」と呼ばれ、陶部(すえつくり)、鞍部(くらつくり)、錦織(にしごり)などの専門技術者集団として、大和朝廷の文化政策を支えた。 高句麗が滅亡した後の渡来は、故国を失った亡命者としての性格が強く、彼らは日本政府によって特定の地域(武蔵国高麗郡など)に集住させられ、その技術や労働力は未開発地の開墾に活用された。 これは、渡来人の技術を開発に生かすという政策的な意図が強く働いた例と言える。
一方、新羅系の渡来は、経済活動や土木技術、さらには財政運営といった、より実務的な分野での貢献が目立つ。秦氏のように大規模な集団で渡来し、広範な地域に定着して、日本の経済基盤の発展に寄与した。 しかし、新羅が朝鮮半島を統一し、日本との関係が緊張すると、新羅からの渡来人に対する日本の態度は変化する。 武蔵国に設置された新羅郡は、高麗郡とは異なり、新羅との戦争を想定した管理・隔離政策の一環であったという見方もある。 これは、渡来人が単なる文化の担い手であるだけでなく、当時の国際情勢によってその受け入れられ方や役割が大きく左右されたことを示している。
このように、朝鮮半島からの渡来は、弥生時代の穏やかな文化伝播から、古墳・飛鳥時代の専門技術者の招聘、そして白村江の戦い以降の亡命者受け入れ、さらには国際関係の緊張下での管理と、時代や故国の状況によってその性質が大きく変化していった。それぞれの時期、それぞれの背景を持つ人々が、日本の発展に多層的な影響を与えたと言えるだろう。
古代から中世にかけての朝鮮半島からの渡来人たちは、日本の各地にその足跡を残し、その影響は現代にも息づいている。彼らの存在は、歴史書の中だけでなく、地名、神社、寺院、そして人々の暮らしの中に、目に見える形で残されているのだ。
例えば、埼玉県日高市に位置する高麗郡は、716年に高句麗からの渡来人たちが集住させられて成立した歴史を持つ。 ここには、初代郡司とされる高麗王若光を祀る高麗神社があり、現在もその子孫が宮司を務めている。 高麗神社には、若光が故国からもたらしたとされる太刀や護持仏、古系図などが伝わっており、高句麗の文化がこの地に深く根付いたことを示している。 また、高麗郡周辺の巾着田(きんちゃくだ)に見られる川の蛇行部を利用した灌漑システムは、朝鮮半島由来の技術である可能性も指摘されている。 これは、渡来人たちが未開発地の開墾に貢献した具体例と言えるだろう。
新羅系の渡来人、特に秦氏の痕跡は、京都の太秦(うずまさ)に顕著だ。広隆寺は秦氏によって創建された寺院であり、その本尊である弥勒菩薩半跏思惟像は、新羅仏教の影響を強く受けているとされる。 また、伏見稲荷大社も秦氏が建立したとされ、彼らが日本の宗教文化に深く関わっていたことを物語る。 秦氏の子孫は全国規模で勢力を伸ばしたとされ、尾張、美濃、備中、筑前などにもその足跡が見られる。
滋賀県八日市市や蒲生郡の琵琶湖東部地域も、多くの渡来人が居住した地として知られる。百済寺は聖徳太子によって、高句麗の僧である慧慈と百済の僧である道欽のために建てられたとされ、この地域の寺院建設には渡来人たちの技術や労力が活用されたと考えられている。 また、滋賀県八日市市には、白村江の戦い後に百済から亡命した鬼室集斯(きしつしゅうし)の墓碑を祀る鬼室神社も存在する。
現代の日本では、「渡来人」という言葉が、かつての「帰化人」に代わって用いられるようになった。 これは、彼らが単に日本に「帰化した」のではなく、海を越えて日本に「渡り来た」人々であり、それぞれの故国の文化を保持しつつ、日本の社会に新たな風を吹き込んだ存在であることを認識する動きと言える。 こうした歴史的経緯は、現代の日本社会が多様なルーツを持つ人々によって形成されてきたという認識を深める上で、重要な示唆を与えている。
古代から中世にかけて高句麗系と新羅系の人々が日本列島にもたらしたものは、単一の文化や技術の伝播に留まらない。彼らが渡来した時期、背景、そして受け入れられた日本の状況によって、「渡来」の様相は多様に変化した。この多層性を理解することは、一見するとシンプルな歴史の流れの中に隠された、複雑な人間模様と国際関係を読み解く鍵となる。
高句麗からの渡来が仏教、学術、高度な工芸技術といった文化的な側面に重きを置いたのに対し、新羅系の渡来は、農業、土木、財政といった実務的な社会基盤の構築に深く関わったという対比は、それぞれの故国が培った得意分野と、当時の日本が何を求めていたかを映し出す。高句麗が中国大陸と接する中で育んだ洗練された文化は、日本の飛鳥文化の形成に不可欠な要素となった。一方、新羅系の秦氏が担った大規模な経済活動や土地開発は、律令国家の経済的基盤を支える上で欠かせないものであった。
また、高句麗滅亡後の亡命者としての渡来と、新羅との関係が緊張する中で管理された新羅郡の設立は、「渡来」が常に歓迎されたり、一様に扱われたりしたわけではないことを示唆する。国際情勢の変動が、人々の移動とその後の生活に直接的な影響を与え、時には集住や隔離といった政策に繋がったのだ。これは、渡来人が単なる技術や文化の提供者としてだけでなく、当時の日本の外交政策や社会構造の一部として位置づけられていたことを物語る。
これらの視点から見えてくるのは、古代日本が、朝鮮半島からの人々とその文化を、時々の必要性や国際関係に応じて、柔軟に、しかし時には厳格に受け入れ、自らの発展の糧としてきた姿である。高句麗系と新羅系の渡来人たちの足跡は、単なる過去の出来事ではなく、現代の日本社会が持つ多様な文化の源流であり、異文化との関わり方について静かに問いかけてくる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。