2026/7/2
六甲断層が生む金泉・銀泉、有馬温泉の歴史と独自性

兵庫県の有馬の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
兵庫県有馬温泉は、六甲断層の地質活動により金泉と銀泉という二種の泉質が湧き出す。行基や豊臣秀吉も注目したこの湯は、他の古湯と比較しても特異な泉質と歴史を持ち、自然と権力、そして文化が交錯する場所として発展してきた。
六甲の褶曲に湧く湯の記憶
有馬の湯に浸かると、肌に触れる熱さだけでなく、その背後にある時間の厚みを感じる。金泉の赤褐色は、ただの鉄分を多く含んだ湯の色ではない。それは数百万年におよぶ地殻変動と、この地を選び、湯を汲み上げてきた人々の歴史が溶け込んでいる証しである。なぜ六甲山系の山深い谷間に、これほどまでに古くから湯が湧き続けるのか。その問いは、日本の温泉史の原点に触れることにつながるだろう。
有馬温泉は、日本書紀にも記される日本最古の温泉の一つとされ、その開湯は神代にまで遡ると伝えられる。大国主命と少彦名命が傷ついた三羽のカラスが湯で癒えるのを見つけたとされる伝説は、その湯が人々によって発見される以前から、自然の恵みとして存在していたことを示唆している。しかし、単なる伝説として片付けることはできない。この地には、太古から人々が湯の力に気づき、利用してきた確かな痕跡があるのだ。
仏教と権力が湯に集うまで
有馬温泉の歴史が文献に現れるのは、さらに時代が下ってからである。奈良時代、行基という僧がこの地を訪れ、湯の効能に注目したと伝えられている。行基は、民衆のために橋を架け、溜池を造るなど社会事業に尽力した人物であり、有馬においても温泉寺を建立し、湯治場としての基礎を築いたと言われている。平安時代には、仁西という僧が有馬を再興し、湯治療養の場としてさらに整備を進めた。彼らは、単に湯の効能を説いただけではなく、仏教思想と結びつけ、病を癒す場として有馬の価値を高めていったのである。
中世に入ると、有馬温泉は時の権力者たちの注目を集めるようになる。特に室町時代には、足利義満が有馬を訪れ、湯治を楽しんだ記録が残っている。権力者が湯治に訪れることは、その地の湯の効能だけでなく、交通の便や治安、そして何よりもその温泉が持つ文化的価値を保証するものだった。しかし、有馬の歴史を決定的に変えたのは、戦国時代の武将、豊臣秀吉の存在だろう。秀吉は、度々有馬を訪れ、荒廃していた温泉を大規模に改修した。1583年の初来訪以来、複数回にわたって有馬に滞在し、湯殿や茶屋を建設。特に、1587年には「湯山御殿」と呼ばれる専用の湯治施設を築いた。これは単なる個人の保養施設に留まらず、温泉地全体の復興と発展に大きく寄与した。秀吉の支援は、戦乱で疲弊していた有馬に新たな活力を与え、後の江戸時代の繁栄の礎を築いたと言えるだろう。秀吉の介入は、単に湯を整備するだけでなく、有馬を「天下の湯」として認知させる政治的な意味合いも持っていたのだ。
六甲断層が生む二種の湯
有馬温泉が他の多くの温泉地と異なるのは、その湯の種類が極めて特徴的である点にある。金泉と銀泉という二つの異なる泉質が湧き出すことは、有馬の地質構造の複雑さを物語っている。金泉は、鉄分と塩分を多く含み、空気に触れると酸化して赤褐色に変色する。一方、銀泉は炭酸ガスやラドンを含み、無色透明である。この二つの湯が、なぜ同じ場所から湧き出すのか。その理由は、六甲山地の地質構造に深く関係している。
有馬温泉は、六甲山地の北縁に位置し、「有馬-高槻構造線」と呼ばれる活断層帯の近くにある。この断層活動によって地下深くの岩盤が破砕され、そこに雨水が浸透していく。浸透した水は、地下約30kmという深部まで達し、地球内部の熱によって温められる。この過程で、岩石中のミネラル成分を溶かし込み、高濃度の塩分や鉄分を含む湯となるのだ。さらに、地中深くで発生した炭酸ガスやラドンといった成分も取り込みながら、断層の割れ目を通って地表へと上昇する。金泉は、この深部の熱水が直接湧き出したものと考えられている。
一方で銀泉は、金泉のような深部からの熱水とは異なり、比較的浅い地下水が地熱によって温められ、炭酸ガスやラドンを溶かし込んだものとされる。つまり、同じ断層帯の活動が、深部からの熱水と、比較的浅い地下水の両方に影響を与え、異なる泉質を持つ湯を湧き出させているのだ。これは、単に地熱があるから温泉が湧くという単純な構造ではない。複雑な断層運動が、水の循環経路と滞留時間を変化させ、結果として多様な成分を持つ湯を生み出すという、地質学的な偶然が重なった結果なのである。有馬の湯は、六甲山が数百万年かけて形成されてきた地史そのものが、凝縮された形で見えるものだと言えるだろう。
他の古湯との対比に見る有馬の独自性
日本には有馬以外にも、道後温泉や白浜温泉、城崎温泉といった「日本三古湯」やそれに準ずる歴史を持つ温泉地が数多く存在する。これらの古湯と比較することで、有馬温泉の独自性がより鮮明になる。例えば、道後温泉(愛媛県)は、その歴史の古さや皇室とのゆかりという点では有馬と共通するが、源泉がアルカリ性単純温泉であり、湯の色や成分の特異性という点では有馬の金泉とは異なる。道後温泉は、湯治というよりは、古くから湯屋文化の中心として発展してきた側面が強い。また、白浜温泉(和歌山県)も日本書紀に登場する歴史を持つが、こちらは太平洋に面した海岸温泉であり、景観や開放的な湯浴みが特徴である。
城崎温泉(兵庫県)もまた、有馬と同じく行基開湯伝説を持つが、外湯巡りという独特の文化を育んできた点で対照的だ。城崎は、七つの外湯を中心とした「浴衣と下駄で巡る」温泉街の景観が特徴であり、湯そのものの効能というよりは、温泉街全体での滞在体験を重視する傾向がある。これらの古湯は、それぞれが独自の地理的条件や歴史的経緯の中で、固有の温泉文化を形成してきた。
有馬温泉の特異性は、まずその泉質にある。金泉と銀泉という二つの異なる泉質が同時に存在し、しかも金泉は極めて高い塩分濃度と鉄分濃度を持つ。これは、他の多くの古湯が単純温泉や硫黄泉など、比較的穏やかな泉質であることと一線を画す。また、六甲山地の山間という立地も重要だ。都からのアクセスは比較的良いものの、決して平坦な場所ではない。この山深い立地が、湯治場としての静けさと、外界との隔絶感を生み出してきた。秀吉による大規模な改修も、有馬を単なる湯治場から、時の権力者が利用する「天下の湯」へと格上げした決定的な要因である。他の古湯が自然発生的に発展した側面が強いのに対し、有馬は時の権力による積極的な介入と投資によって、その地位を確立したという側面も持つ。
いま、六甲の谷間に湧き続ける湯
現代の有馬温泉は、年間を通じて多くの観光客が訪れる、関西を代表する温泉地の一つである。六甲の山間にひっそりと佇む温泉街には、老舗旅館が軒を連ね、金泉と銀泉それぞれの湯を提供する外湯「金の湯」「銀の湯」が整備されている。街を歩けば、湯気が立ち上る源泉の様子や、赤褐色に染まった金泉の足湯を目にすることができるだろう。
しかし、その賑わいの裏側には、長い歴史の中で培われてきた湯を守り、伝えるための不断の努力がある。有馬の湯は、自然の恵みであると同時に、掘削や配湯、そして温泉街の維持管理に多大なコストと労力を要する。特に、高温高圧で湧き出す金泉の源泉は、施設の老朽化や地震などの自然災害によって、その供給が不安定になるリスクも抱えている。20世紀に入ってからも、関東大震災や阪神・淡路大震災といった大規模な地震は、有馬の湯量や泉質に影響を与えてきた。その度に、地元の人々は協力し、湯を守るための復旧作業を繰り返してきたのだ。
近年では、観光客のニーズの多様化に対応するため、伝統的な湯治文化を継承しつつも、新しい宿泊施設や飲食店、体験プログラムなども導入されている。しかし、その根底にあるのは、あくまで「湯」そのものの価値である。有馬の地で働く人々は、金泉と銀泉という他に類を見ない二つの湯が、六甲の地質が生み出した奇跡であることを深く理解している。そして、その奇跡を守り、次世代へと繋ぐことが、彼らの使命となっているのだ。
湯が語る、地質と文化の交錯
有馬温泉の歴史を辿ることは、単に温泉地の変遷を知ることに留まらない。それは、地質学的な偶然が、いかに人々の生活や文化、さらには政治にまで影響を与えてきたかを示す物語でもある。六甲山地の複雑な地殻変動が生み出した金泉と銀泉という二つの異なる湯は、行基や仁西といった宗教者が民衆の救済のために利用し、豊臣秀吉のような天下人がその価値を見出し、大規模な投資を行った。
もし有馬の湯が、他の多くの温泉地と同じような単純な泉質であったなら、あるいはその湧出量が少なかったなら、これほどまでの歴史を刻むことはなかったかもしれない。金泉の強烈な個性と、銀泉の穏やかな効能が共存するこの地の特異性が、人々を惹きつけ、その歴史を動かす原動力となってきたのだ。それは、自然の力と人間の営みが、互いに影響し合い、複雑に絡み合いながら、一つの文化を築き上げてきた証しである。有馬の湯は、単なる癒しの場ではなく、地球の鼓動と、それを受け止めてきた人々の知恵と努力が凝縮された、生きた歴史の証言者なのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。