2026/5/28
熱海の温泉、地形、そして現代の課題

熱海についてまだ知らないことを教えて欲しい
キュリオす
熱海の温泉は、活発な地殻変動と豊富な熱源によって育まれた。急峻な地形に築かれた街並みは、過去の権力者や文豪に愛され、現代ではリノベーションによる再生を遂げたが、観光客増加と居住環境のバランスという新たな課題に直面している。
相模湾に面した熱海の街は、いつもどこか華やかな賑わいをまとっている。駅に降り立てば、土産物屋が並ぶ平和通り商店街から活気が溢れ、坂を下れば青い海が広がる。温泉、花火、リゾート。多くの人が抱く熱海へのイメージは、そうした光景に彩られているだろう。しかし、この街の魅力は、単なる観光地の顔だけでは語り尽くせない。その賑わいの奥には、太古からの地質学的営み、時代の波に翻弄されながらも形を変えてきた歴史、そして、現在進行形で街の姿を問い直す人々の姿が見え隠れする。一見すると当たり前の風景の中に、熱海という土地の特異な条件と、そこに関わる人間のしたたかさが隠されているのだ。
熱海の温泉の歴史は、その名の由来にも通じる。古くは「熱い海」と記されたように、海底から熱湯が湧き出し、魚が焼死するほどだったという伝説が残る。伊豆風土記には、713年にはすでに温泉の存在が記されており、少彦名命が製薬温泉の術を与えたとの記述もある。奈良時代には、箱根権現の万巻上人が海中に湧く温泉を陸に導き、漁民を救ったと伝えられ、これが熱海温泉の始まりとされている。上人は湯前神社を建て、湯の守護神としたという話だ。
戦国時代を経て江戸時代に入ると、熱海温泉は権力者たちの注目を集めるようになる。徳川家康は1604年に湯治のため熱海を訪れた記録があり、その後は江戸城に熱海の湯を運ばせる「御汲湯(おくみゆ)」という制度まで確立された。 紋付き袴を着た湯戸(温泉宿)の主人が、覆面と長柄杓で真新しい檜の樽に湯を入れ、昼夜を問わず約112キロメートルの道をリレー形式で江戸まで運んだという。 これは熱海が単なる湯治場に留まらない、特別な保養地としての地位を確立していたことを物語る。
明治時代になると、熱海は湯治の地から、政財界の要人や文人墨客が別荘を構える保養地へと大きく変貌する。 1896年には熱海と小田原を結ぶ「豆相人車鉄道」が開通し、人力で客車を押す原始的な交通手段ながら、アクセスは格段に向上した。 そして大正末期の1925年に熱海駅が開業し、さらに1934年には難工事の末に丹那トンネルが貫通すると、東京からの所要時間は劇的に短縮された。 この交通網の整備が、熱海を日本有数の観光地へと押し上げる決定打となる。尾崎紅葉の『金色夜叉』に代表されるように、多くの文学作品の舞台となり、坪内逍遥や太宰治、谷崎潤一郎といった文豪たちがこの地で執筆活動を行った。 彼らが滞在した「起雲閣」のような名邸は、当時の熱海が持つ文化的な奥行きを今に伝えている。
熱海の街が現在の姿を形成した背景には、その独特な地形と地質が深く関わっている。熱海は、かつて活動していた大型陸上火山である多賀火山が侵食されてできた、険しい山体に築かれている。 海から山へと急勾配で駆け上がるような地形は、平地が少ない熱海の街の特徴であり、うねるような坂道が海岸線まで続いている。
この地質学的な条件こそが、熱海が「温泉郷」と呼ばれる所以だ。熱海は伊豆半島の北東部に位置し、相模トラフと駿河トラフという二つの海溝に挟まれたプレート境界付近に位置する。 さらに活火山である箱根火山の南部にも隣接しており、この地殻変動の活発さが、豊富な温泉資源を生み出す源となっているのだ。 熱海温泉には500を超える源泉があり、その総湧出量は毎分約19,000〜20,000リットルに迫る。 しかも、その約9割は42度以上の高温泉で、平均温度は約63度という全国屈指の高温を誇る。 この湯量と湯温は、地中深くからの安定した熱供給があってこそ可能となる。
温泉の泉質も多様で、市街地や海岸部では塩化物泉が多く、山手側や丘陵地帯では硫酸塩泉や単純温泉が湧き出す。 全国的に珍しい横穴式の源泉である「走り湯」は、約70度の源泉が毎分約180リットル湧出する貴重な存在だ。 戦後、熱海は「熱海国際観光温泉文化都市建設法」の施行や「耐火建築促進法」による鉄筋コンクリート建築の増加によって急速に復興を遂げた。 1960年代前後に建てられたこれらのビル群は、急な斜面に沿って湾曲したり、階段状にずらされたりして立ち並び、人工と自然がせめぎ合う独特の「モダーン」な景観を形成している。 このような地形と、それを克服しようとする人間の開発意欲が、熱海独自の都市景観を築き上げてきたのである。
熱海のような温泉観光地は日本全国に数多く存在するが、その中でも熱海が持つ独自性は、いくつかの比較から見えてくる。例えば、多くの温泉地が特定の泉質や療養効果を前面に出すのに対し、熱海は塩化物泉、硫酸塩泉、単純温泉といった多様な泉質が混在し、豊富な湯量で広範囲に供給される点が特徴的だ。 これは単一の源泉に依存する温泉地とは異なり、街全体が温泉によって潤されていると言える。
また、観光都市としての発展過程も独特である。別府温泉のように、民間企業と地元行政が一体となって大規模な観光開発を進めた都市もあるが、熱海は明治以降、在京の政財界人や実業家による別荘地形成が先行し、その後に温泉観光業が発展した経緯がある。 これは、東京からのアクセスの良さと、相模湾を望む景観が、まず上流階級の保養地として評価された結果だろう。戦後の高度経済成長期には、新婚旅行や社員旅行の定番地として大衆化が進んだが、それは「憧れの地」から「手軽な行楽地」へとイメージが変遷していったことを意味する。
都市景観においても、熱海は他の温泉地とは一線を画す。伝統的な木造建築の温泉街が残る地域も多い中で、熱海は1960年代に建てられた鉄筋コンクリート造のビル群が、急峻な斜面に沿って密集している。 これは、関東大震災からの復興と、高度経済成長期の観光ブームが重なり、短期間で都市機能の近代化が図られた結果だ。 その景観は、どこかSF映画に出てくるような、あるいは海外の港湾都市を思わせる「レトロモダン」な雰囲気を醸し出している。 こうした人工的な構造物が自然の地形と融合しようと試みた結果、熱海ならではのユニークな表情が生まれたと言える。しかし、その一方で、熱海市の産業構造が観光関連に8割以上を依存する「一本足打法」であるという課題も抱えている。 多くの観光都市が抱えるこの構造は、景気変動や社会情勢の変化に脆弱であるという側面も持ち合わせている。
2000年代に入り、熱海は「寂れた温泉街」というイメージに苦しんだ時期があった。2006年には財政危機宣言が出され、2011年には宿泊者数がピーク時の半分にまで落ち込んだという。 しかし、近年、「熱海の奇跡」と呼ばれるV字回復を遂げ、再び多くの観光客で賑わいを見せている。
この再生の立役者の一つが、Uターンした若者たちが立ち上げた株式会社machimoriやNPO法人atamistaのような民間組織だ。 彼らは「リノベーションまちづくり」を掲げ、かつてシャッター街と化していた熱海銀座を中心に、空き店舗をカフェやゲストハウス、コワーキングスペースへと再生させてきた。 自らリスクを取り、一つずつ物件を借り上げてリノベーションし、運営することで、2021年には熱海銀座の空き店舗がゼロになったという。 この取り組みは、従来の団体旅行中心の熱海から、若い世代や個人旅行者を呼び込むことに成功し、街の雰囲気を大きく変えた。
しかし、その成功の裏には新たな課題も生じている。観光客の増加に伴い、熱海銀座などの中心部は土日や繁忙期には歩道が人で溢れかえり、地元住民が敬遠する状況も生まれている。 また、人口減少と高齢化は依然として進行しており、特に20代〜30代の若年層の転出超過と高齢期の転入超過が顕著だ。 これにより、住宅の二極化(高価なリゾートマンションか、築古の老朽物件か)が進み、「住みたくても普通に住める家がない」という住宅問題や、観光業における人手不足が深刻化している。 熱海が目指すべきは、単なる観光地の賑わいだけでなく、観光と居住が調和した「持続可能な滞在型保養地」への変革だろう。 地域の魅力を高めつつ、そこに住む人々の暮らしやすさをどう担保していくか。熱海は今、その均衡点を模索している段階にある。
熱海の街を歩くと、急峻な坂道に沿って立ち並ぶホテルやマンション群が目に留まる。それは、高度経済成長期の熱狂と、その後の停滞、そして現在の回復期を経てきた街の記憶をそのまま映しているかのようだ。かつては豪華な別荘が建ち並び、徳川家康が湯を求めた歴史を持つ一方で、戦後には大規模な開発が進み、鉄筋コンクリートの建物が急増した。 この「人工的なモダンさ」と「自然の厳しさ」が混在する景観は、熱海が他の観光地とは異なる独自の発展を遂げてきた証拠である。
近年、熱海は「奇跡のV字回復」と称される再生を遂げたが、その本質は、単に観光客数を回復させただけではない。地元に根ざした人々が、自らの手で街の「余白」を埋め、新たな価値を創造しようと試みた結果だ。 しかし、その成功がもたらした観光客の集中と、それに伴う居住環境の変化は、熱海がこれから向き合うべき新たな問いを突きつけている。観光客の視点から見れば賑わいは歓迎すべきものだが、そこで生活する人々にとっては、必ずしもそうではない場合もある。
熱海は、その豊かな温泉資源と独特な地形によって、常に人々の欲望と想像力を刺激してきた。権力者が湯を求め、文豪が創作の場とし、大衆が憩いを求めた。そして今、若者たちが新しい視点で街の可能性を引き出そうとしている。この街の風景は、過去の栄光と現在の賑わい、そして未来への課題が、急な坂道のように複雑に絡み合いながら続いていることを示している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。